瞳孔は完全に開き、これでもかと口角を上げる名前の顔は狂気に染まっていた。
いつも彼女が纏っている柔らかい雰囲気はなりを潜め、今は肌を刺すような痛い殺気が名前の周りから放たれていた。
「ヒィ…ッ!」
一歩、また一歩と地面を踏みしめるようにゆっくりと近付いてくる名前に、先程彼女に吹っ飛ばされたスタンド使いの男は自分のスタンドの中で可哀想になるくらい怯えていた。
「っ、名前ちゃん! 一体どうしたんじゃ!?」
明らかに様子のおかしい名前にジョセフは声をかけるも彼女の耳には届いていないのか、名前はただ『運命の車輪』に向かって歩いていくだけだった。
歩く度に左右に揺れる頭がまるでゾンビが歩いているように見えて、男の背に冷たいものが走る。
「く、来るんじゃあねえ…ッ! それ以上近付くとブッ殺すぞ!?」
スタンド使いの男は車内にいるため姿が見えない。それをいいことに名前の異様な雰囲気に震えながらも頑張って虚勢を張るが、その脅し文句は彼女にはなんの意味も持たなかった。
名前は狂気的な笑みを浮かべたまま男の制止の声も、ジョセフ達が自分の名を呼ぶ声も無視してどんどん『運命の車輪』と距離を詰めていく。
「来るなって言ってんだろーがァッ!!」
「あっ!」
「名前ちゃん…ッ!!」
スタンド使いの男はこれ以上近付かさせないように『運命の車輪』から超高圧のガソリンを放った。弾丸のようなスピードで真っ直ぐ目の前の標的に放たれたそれは、名前の肩や脚などを抉ったようで血が噴き出していた。
心配そうな声を上げるジョセフがいる中、白いチャイナドレスを血に染めていく名前を正面から見たスタンド使いの男はとてつもない恐怖に飲み込まれていた。
「っ…な、なんなんだよ…お前ェ…ッ!」
致命傷を負わせるくらい深い傷が出来るわけではないが肉を抉っているのだ。喧嘩慣れしている承太郎でさえ痛みに少しは顔を歪めるのに、目の前にいる喧嘩とは無縁そうな名前は痛がる素振りを見せるどころか、楽しそうに笑っていた。
「…お、お姉さん……?」
「あれは…僕達の知っている名前さん、なのか…?」
肉を抉られているにも関わらず笑みを浮かべ楽しそうな笑い声を漏らす名前に、アンと花京院は息を飲んだ。その隣でジョセフやポルナレフも見たことのない名前の様子にごくりと生唾を飲み込む。
そんな彼らを嘲笑っているかのように名前はニヤァ…と笑みを深めると、一瞬で『運命の車輪』との間合いを詰めた。
「なっ!?」
「い、いつの間にあの距離を…!?」
瞬きをしたその一瞬のうちに『運命の車輪』のボンネットに乗っていた名前に、その場にいた全員の目が見開かれる。生身の人間には到底出来ない動きを見せた彼女に冷や汗を流していると、名前は拳を振り上げてそのままフロントガラスに叩きつけた。
名前の細腕から繰り出されたとは思えない威力の拳は簡単にフロントガラスを粉々に砕き、飛び散ったガラス片が名前の剥き出しの腕に赤い筋をつける。
「ぐえっ…!?」
自分で体中に傷を増やしていく名前は、ガラスを叩き割ったその手で運転席に座っていたスタンド使いの男の首を掴んだ。ギリッと音がする程の強い力で握られた男は呼吸を確保しようと咄嗟に白い腕に爪を立てる。しかしその程度の抵抗で首を掴む手が緩むはずもなく、男はそのまま名前によって運転席から外へと引きずり出されてしまった。
「あいつが本体か…!?」
「…随分とへんてこな体型をしているが……」
名前に外へ引きずり出されたスタンド使いの男は、腕だけは承太郎やジョセフにも劣らない筋肉質なものだったが、その他の部位はとても貧弱だった。見掛け倒しの姿にジョセフ達があんな男に承太郎は…と悔しそうに奥歯を噛み締める中、男はこのままでは首を折られるのではという恐怖と息苦しさでガタガタと震えていた。
そんな男の姿を瞳孔が開いたままの蒼い瞳が見つめる。
暫く静かに男を見つめていた名前は徐に首から手を離した。突然消えた圧迫感に男は息を吸い込みながら首を折られる心配がなくなったと安堵していた。しかしーー。
「っ、あ"あ"あ"ああーーッ!!」
「…あはは…!」
バキバキと骨の折れる音が辺りに響いた直後に男の絶叫が響き渡る。
「ひぃっ…!」
「Holy shit!!」
「な、なんてことだ……名前のやつ、男の腕の骨を折りやがったッ!!」
「し…信じられんっ!」
首から手を離した名前はあろうことか男の投げ出された左腕を思い切り脚で踏み付けたのだ。自分の脚の下で折れる骨の感触と男の痛みに歪む顔と響く絶叫に、彼女は嬉しそうに笑い声を上げた。
人間の骨が折れる瞬間を目の当たりにしたアンは小さな悲鳴を漏らすとジョセフの後ろへと隠れる。ジョセフと花京院、そしてポルナレフは躊躇いも見せずに男の骨を折った名前に心の底から驚いていた。
特に長い付き合いであるジョセフは信じられないものを見る目で名前を見ていた。誰よりも優しい名前が人の骨を折って、相手が痛がる姿を見て楽しんでいるのだ。
「…な、なにがあの子をあんな風にさせたんじゃ……?」
なぜあのように正気を失ってしまったのかを、ジョセフはぐりぐりと男の左腕を踏みつける名前を見ながら思考を巡らせていた。
数分前までは普段となにも変わっていなかったはずだ。転んで逃げ遅れたアンをわざわざ登っていた崖から下りて助けたり、怪我をしていた承太郎達のことをとても気に掛けていたりと、いつもの優しい名前だったはずだ。
「(どこで彼女は豹変した…?)」
名前の様子を順序良く思い出していたジョセフはある事に気付いてハッとする。そうだ、彼女にショックを与えるには充分な事が起きたじゃないか。
炎に包まれる承太郎の姿を思い出したジョセフは、それが引き金となって名前の理性が飛んだのではないかという結論に辿り着いた。
「……そういうことか…」
「ジョースターさん?」
隣でぽつりと呟くジョセフにどうしたのかと花京院が声を掛けるも、ジョセフは険しい表情で名前を見ているだけだった。
花京院がジョセフの変わった様子に疑問符を浮かべていると、今まで黙っていたジョセフが突然「いかん!」と声を上げて駆け出していった。
「や、やめてくれ…ッ!」
「……」
ジョセフが駆け出して行った先には、痛みと恐怖で泣きながら懇願する男の折れていない右腕に脚を掛ける名前の姿があった。どうやら彼女は右腕の骨も折ることにしたようで、泣き縋る男にニヤリと不気味に笑うと腕に掛けている脚に力を入れた。
「名前ちゃんッ!!」
「!」
ミシリと骨が嫌な音を立てたその時、ジョセフが名前の体を羽交い絞めにして力の限り後ろへと引いていく。
「もういいッ! 止めるんじゃ名前ちゃん…!」
唸り声を上げながら拘束するジョセフから逃れようと暴れる名前を、ジョセフは額に大粒の汗を浮かべながら押さえていた。
「お願いじゃ名前ちゃん! 戻って来い……ぐっ!」
「「ジョースターさん!!」」
「承太郎のおじいちゃんっ!」
名前を必死に押さえながら正気に戻るように声を掛けていたジョセフだが、名前に拘束を振り解かれて地面へと叩きつけられてしまった。体を襲う痛みに息を詰まらせるジョセフの上に名前が馬乗りになる。
彼女のために止めたジョセフだったが、名前は邪魔されたと思っているのかジョセフを敵と判断したようで、ジョセフを殴ろうと血濡れになっている右腕を振り上げた。
「…やれやれ。人が必死に穴を掘ってる間に何やってんだ?」
ジョセフを殴ろうとする名前を止めようと花京院は『法皇の緑』を伸ばすが、それよりも早く名前の腕を掴んだのは炎に焼かれたはずの承太郎だった。
突如現れた承太郎に名前以外の者達は驚きに目を開いた。
「じ、承太郎!?」
「おまっ、なんで無事なんだよ!?」
「うわああん承太郎ーーッ!!」
声を上げる花京院とポルナレフとアンの三人を一瞥した承太郎は、燃えていたのは上着だけで自分は『星の白金』で地面に穴を掘って移動していたため無事だったと話した。
「……承太郎」
「…それよりじじい……この状況は?」
承太郎もとい『星の白金』に掴まれた腕を振り解こうと暴れる名前を見た承太郎は表情を険しくすると、苦々しそうにするジョセフを睨み付けた。
「……見ての通り名前ちゃんは理性を飛ばしておる」
「なぜこうなった?」
「…半分はお前のせいみたいなもんじゃな」
「あぁ?」
ジョセフは「恐らくだが…」と自分が辿り着いた名前が理性を失った理由を承太郎に話した。静かにその話を聞いていた承太郎は大きな溜息を吐くと「…なるほどな」と一言呟いた。
「それが事実だとしたら確かに半分は俺のせいでもあるな」
「……余程承太郎が大事なんじゃのう」
「……」
馬乗りになられてるにも関わらず微笑ましそうに笑うジョセフに承太郎は鋭い目を向けた。そんなこと言っている場合かと訴えかけて来る承太郎の目を見たジョセフは一つ咳払いをすると、表情を真剣味を帯びたものへと変えた。
「…承太郎、名前ちゃんをどうやって元に戻す? わしや花京院達が呼びかけても何の反応もなかったぞ」
「……ふむ」
ジョセフの言葉に試しに承太郎が未だに暴れる名前の名を呼んでみるが、いつもとは全く雰囲気の違う鋭い目で睨み付けられるだけだった。どうやら理性が飛びすぎて承太郎が目の前にいるということすら理解していないらしい。
「じじい」
「なんじゃ?」
「…俺がこいつに何しようが口挟むんじゃねーぞ」
唐突に承太郎から釘を刺されたジョセフは眉間に皺を寄せる。何をするつもりだと早速口を挟もうとするジョセフを後目に、承太郎は『星の白金』で名前の両腕を後ろ手に拘束するとジョセフの上から引き立たせた。
「……っ、!」
「…やれやれ。今回はマジにブッ飛んでるらしいな」
さすがに『星の白金』の力には敵わないのか抜け出せる様子はないが、それでも身を捩ったりと抵抗を見せる名前を承太郎はじっと見つめる。
「名前」
もう一度彼女の名を呼ぶがやはりいつものような反応はない。それどころか瞳孔の開いた瞳で射殺さんばかりに睨み付けてくるではないか。
承太郎はその蒼い目から視線を逸らすことなく名前に近付いていくと、パンッと彼女の頬を平手打ちした。
「承太郎ッ!?」
近くで見ていたジョセフは承太郎の行動に驚き慌てて二人に駆け寄ろうとするが、承太郎から口を挟むなと言われたことを思い出してその場に踏みとどまった。
承太郎は頬を叩かれたことに目を見張る名前の胸ぐらを掴むと、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を寄せた。
「おい名前。そのデケェ目を開いて俺を見な」
「っ、あ…」
至近距離でかち合う翠色の目に名前は今までなかった反応を見せた。ゆらりと揺れる目に気付いた承太郎は名前の少し赤くなった頬に手を添えると、彼にしては珍しい優しげな笑みを名前に向けた。
「…俺が誰か分かるか?」
「……じょう…たろ、う…」
「ああ。そうだ……俺は生きている」
「…!」
「俺は名前の所へ戻って来ている……なのにお前はいつまでそんな所にいるつもりだ?」
「……っ、」
「早く戻ってこい」
「! ……あっ、…わたし…ッ」
元に戻った蒼い目から流れた涙は頬に添えられた承太郎の手に零れ落ちた。
「ごめんなさい…ッ!」
わあっと泣き出した名前を慰めるように承太郎は両腕の中に小さな体を閉じ込めた。
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