ジョセフがアヴドゥルに頼んだ大きな買い物とは、水中潜航が可能な軍艦ーー潜水艦である。
海の中からエジプトに行けば追手のスタンド使いに見つからないのではとジョセフは考え、更に幸いなことにジョセフとアヴドゥルが潜水艦を操縦できると言うこともあって購入に至ったようだ。
宿敵であるDIOを倒すために、そして追手のスタンド使いを撒くためとは言え随分お金の掛かっているこの旅に名前はヒクリと頬を引き攣らせる。
しかしそれも潜水艦に乗る前の話だ。

「めちゃくちゃ綺麗!」

潜水艦の丸い窓に張り付く名前はモーターボートの上から紅海を見ている時の数倍目を輝かせ、美しい珊瑚礁と群れで泳ぐ色鮮やかな魚を見てきゃあきゃあとはしゃいでいた。

「まさかこんなに早く紅海の中を見れるなんて…!」

昼間に潜ってみたいと承太郎に話した願望がこんなに早く叶うとは。しかも一生に乗れるかも分からない潜水艦に乗ってである。思わぬプレミアムツアーに上機嫌にならない方が可笑しいだろう。
魚を見て「可愛い!」と騒ぐ名前に承太郎は「やかましいぜ」と言いながらもその顔は穏やかなものだった。
そもそも彼の好きな海や海洋生物を見て喜ぶ名前に、承太郎の機嫌が悪くなることなんてあり得ないのだから。

「この子可愛い〜!」
「……そうだな」

名前の背後に立ち壁に手をついて覆いかぶさるように窓の外を見ていた承太郎。そんな彼の翠色の瞳はいつの間にか紅海ではなく、自分の近くにある名前の綺麗な横顔に向けられていた。

「あの顔は『可愛いって言ってるお前が可愛い』って思ってる顔じゃな」
「僕も承太郎の表情が読めるようになってきました」
「承太郎は名前ちゃんに関わることは分かりやすいからの〜」
「そういうお前は『承太郎、なんて羨ましいポジションなんだ』とか思ってんだろ〜?」
「……コーヒー淹れてきます」
「俺の分もよろしく〜」
「自分で淹れろッ!」

悔しいことに一番揶揄わられるのが嫌な相手に図星を突かれてしまった花京院は、呑気に笑うポルナレフを睨み付けると簡易キッチンがあるスペースへと行ってしまった。
ポルナレフはアヴドゥルの件の仕返しが出来たようで「ニシシッ!」と笑い、ジョセフはそんな彼を見て「大人げない奴」と呆れた溜息を吐いた。

「おい! アフリカ大陸の海岸が見えたぞ!」

それぞれが思い思いに潜水艦で過ごしていると、潜望鏡で海上の様子を視察していたアヴドゥルが声を上げた。

「到着するぞッ!」

目前に迫ってきたエジプトへの上陸に名前達は表情を引き締めると、潜水艦に設置されていたテーブルを囲うように椅子に腰掛ける。
アヴドゥルは皆に見えるようテーブルに大きく地図を広げた。

「ここの珊瑚礁のそばに自然の侵食でできた海底トンネルがあって、内陸200mの所に出口がある。そこから上陸しよう」
「いよいよエジプトだな」
「ああ、いよいよだな」
「エジプトか……」
「……」
「ああ、いよいよだ」
「…長かったね」

たくさんのスタンド使いに襲われ、本来であれば日本を発って一日後には着いていたエジプトまで約一ヶ月も掛かってしまった。しかし遠く感じたエジプトの地はもう目と鼻の先だ。
漸く辿り着けた目的地に名前達は顔を見合せ覚悟を決めたように頷いた。

「おい花京院…なぜカップを七つ出す? 六人だぞ」

エジプトに上陸する前にひと息つこうと、花京院が先程潜水艦に備え付けていたコーヒーメーカーで淹れたコーヒーをテーブルの上に置いた。しかし人数分だと思われたカップは一つだけ多く、承太郎は疑問符を浮かべる。

「おかしいな、うっかりしてたよ。六個のつもりだったが…」
「大丈夫! ポルナレフが二杯飲むって!」
「おい! 誰もそんなこと言ってねえだろ!? 第一二杯も飲んだらトイレが近くなるじゃあねーかッ!」
「まあまあポルナレフ…せっかく花京院が淹れてくれたんじゃ、遠慮せず飲もうじゃあないか」
「ジョ、ジョースターさんまでッ!」

エジプトのトイレに馴染めるかなと心配しているポルナレフを余所に、ジョセフは自分の近くにある一つのカップに手を伸ばす。取っ手を持ちカップに口を付けようとしたその時、ジョセフの左手が鋭利な物でスパッと切断された。

「「「なっ!」」」
「なにィィッ!!」
「じ…じじいッ!」
「…ジョセフ…おじい、ちゃん…?」

切断された左手の義手である指が数本首に刺さってしまったジョセフは、左手首と首元から血を噴き出して床に倒れてしまった。
そのジョセフの姿に慌てて承太郎達が椅子から立ち上がる中、ジョセフの隣に座っていた名前は自分の顔に血が掛かっているにもかかわらず、呆然と椅子に座ったまま床に血を流して倒れているジョセフを見つめていた。

「バカなッ! スタンドだッ!」
「ジョースターさんッ!」

ジョセフの左手を切断したのは、いつの間にか潜水艦に侵入していたスタンドだった。
鋭い鉤爪を携えた両手を構えるように威嚇してくるスタンドにアヴドゥルはジョセフを庇うように立ち、花京院はピクリとも動かないジョセフの元に駆け寄る。
承太郎は素早く『星の白金』を出して威嚇してくるスタンドを殴ろうと拳を繰り出すが、そのスタンドは拳が当たるよりも前に消えるように潜水艦の風景に溶け込んでいった。

「き…消えたッ!」
「いや違うッ!」
「化けたのだッ! この計器の一つに化けたのだ! コーヒーカップに化けたのと同じようにッ!」
「ジョースターさんッ!」

計器に化けて全く姿が分からなくなってしまったスタンドに承太郎とポルナレフ、アヴドゥルの三人が焦る中、花京院はジョセフの上半身を持ち上げ容態を確認する。

「ジョースターさん…気を失ってはいるが傷は浅い…! 義手でよかった」
「…敵のスタンドが……ジョセフおじいちゃんを……?」
「…名前…?」

幸い元々義手であった左手の傷は浅く、出血も治まり始めていた。衝撃で気絶してしまってはいるが命に関わる怪我ではなかったため花京院は息を吐く。
しかしその横でジョセフを見下ろしている名前の様子がどこかおかしい。
ブツブツと何かを呟いている名前に承太郎が視線を向けると、彼女の蒼い瞳は『運命の車輪』の時と同じように瞳孔が開き始めていた。

「っ、まさか…!」

承太郎の脳裏に浮かんだ考えは正しく、目の前でジョセフが倒れたショックで再び名前の理性が飛ぼうとしていたのだ。
ゆらりとスタンドが化けた計器に近付いていく名前の肩を承太郎が咄嗟に掴む。

「名前ッ!!」
「っ…!」
「落ち着けッ! じじいは気絶しているだけだぜ! 傷も浅えし心配しなくとも直に目が覚めるッ!」
「! …き、ぜつ…?」

前回とは違い素直にすうっと戻っていく彼女の瞳孔に、あの時の二の舞にならなくて良かったと安堵した承太郎は「ああ」と頷くと、名前の頬を軽く引っ張った。

「い、いひゃい…!」
「いい加減そのブッ飛び癖みたいなの直しやがれ」
「っ、…ごめんなひゃい…」

シュンと肩を落として反省する名前の頬を離して背中をポンッと叩いた承太郎は、視線を潜水艦の計器に戻すと辺りを警戒しているアヴドゥルに「今のスタンド、知っているか?」と声を掛けた。

「あれは『女教皇』の暗示を持つスタンドだ」
「『女教皇』…」
「スタンド使いの名はミドラーという女だと聞いたことがある…かなり遠隔からでも操れるスタンドだから本体は海上だろう」

スタンド『女教皇』の能力は金属やガラスなどの鉱物なら何にでも化けられるという物だった。そして厄介なことに、一度化けてしまえば『女教皇』が攻撃してこない限り見分けられる方法はないのだ。

「し…しかしどこからこの潜水艦に潜り込んで来たんだ?」

アヴドゥルが変装してまで買った潜水艦は、海に潜る前に用心深く全ての部屋を調べて回っていた。それこそ花京院の『法皇の緑』を這わせてまで調べたが、特に異常は見つからなかったのだ。
だから安心して潜水したはずなのに、いつの間にか侵入していた『女教皇』にポルナレフが疑問符を浮かべていると、彼の背後にある一つの計器がポロッと外れ、そこから大量の水が入り込んで来た。

「……なるほど、こーゆーこと? 単純ね…穴を開けて入って来たのね?」
「ちょ、ポルナレフ! 呑気なこと言ってる場合じゃないって!」

警告音がけたたましく鳴る中感心するように開いた穴を見ているポルナレフ。そんな彼の横で名前はどんどん水位を上げていく海水に顔を青くしていた。

「浮上システムを壊していやがった! 沈んでいくぞ!」
「いつの間にか酸素もほとんどない! 航行不可能だ!」
「っ、うそ…!」
「掴まれッ! 海底に激突するぞッ!」

アヴドゥルが声を上げるのとほぼ同時に潜水艦は轟音を立てて海底にある岩に衝突し、その衝撃で起きた激しい揺れが名前達を襲う。

「…俺たちが乗る乗り物って必ず大破するのね」

海底にぶつかり完全に機能を停止してしまった潜水艦にポルナレフはガックリと肩を落とす。
そんなポルナレフのことは気にせずにじっと計器を見つめていた承太郎は「花京院…」と名前の体を支えていた花京院の名を呼んだ。

「なんだい?」
「スタンドのやつ、どの計器に化けたか目撃したか?」
「! …確か、この計器に化けたように見えたが…」

承太郎に聞かれた花京院は少し悩む素振りを見せたが、やがて複数並んでいる計器のうちの一つを指差した。
すると承太郎は『星の白金』の右腕を出すと、花京院が指差した計器にそっと拳を近付かせる。
もし当たっていれば『女教皇』が攻撃してくるかもしれないと、花京院が名前を自分の背に隠したその時ーー。

「違うッ! 承太郎! 花京院! もう移動しているッ…名前さんの後ろにいるぞッ!」
「「!」」
「え、…ッ!?」
「名前ッ!」

計器に化けてじっと潜んでいたと思われていた『女教皇』は器用に変化しながら潜水艦の壁を移動していたようで、名前の背後にあったランプに化けていた『女教皇』はその鋭い鉤爪で名前の頬を斬り裂いた。
痛みに顔を押さえて蹲る名前に慌てて花京院が彼女の顔を覗き込めば、白い頬にざっくりと三本の傷がつけられており、そこからポタポタと鮮血を垂れ流している。

「顔を傷つけるなんて…ッ!」
「名前! 大丈夫か!?」
「っ…ぅ、大丈夫…ッ」
「花京院! ポルナレフ! また攻撃してくるぞッ!」

両手を構えた『女教皇』は再び名前に襲いかかろうと飛び出して来るが、花京院が『法皇の緑』を出して先制攻撃を仕掛ける。
しかし雨のように降り注ぐ『法皇の緑』の攻撃を避けた『女教皇』は、名前を庇うように立つ花京院をすり抜けて今度は名前の肩を斬り付けた。

「うあ…っ!」
「名前ッ!!」
「「名前さんッ!!」」
「っ、野郎…!」

血を流す名前を見て喜ぶように笑みを浮かべる『女教皇』に、青筋を立てた承太郎が『星の白金』で殴り飛ばそうとする。しかし繰り出された拳が当たるよりも早くまたもや計器に化けて姿を消してしまった。

「名前さん…ッ!」
「…だ、大丈夫…ぃっ、意外と浅いから…」
「クソッ! あのヤロー名前ばかり狙ってやがるぜ!?」
「みんな隣の部屋へ行くんだッ! この部屋にいれば名前さんの怪我が増える一方だぞッ!」

アヴドゥルが言うことは尤もだったためポルナレフはジョセフを抱え上げ、花京院は名前を支えてドアの方へ寄る。
手の塞がっている彼らの代わりにアヴドゥルがドアを開けようと取っ手に手を掛けた時、彼の手の中に『女教皇』が現れた。

「ば…ばかな、既に移動してドアの取っ手に化けてやが……なにィィ!」

取っ手に化けてアヴドゥルに掴まれる形になった『女教皇』は、彼の手を切断しようと爪を伸ばす。
早く離さなければと頭では分かっていても、手はドアの取っ手から離れてはくれない。このままではジョセフのように手首から切断されてしまうとアヴドゥルの頬に一筋の汗が流れた時、振り上げられていた『女教皇』の小さな腕を掴む者がいた。

「ゲッ!」
「やったッ! 捕まえたぞッ!」
「あ…危なかった……」
「『星の白金』より素早く動くわけにはいかなかったようだな」

爪に引っ掻かれないように『女教皇』の両腕を掴んだのは承太郎の『星の白金』だった。
逃れようとジタバタ暴れる『女教皇』を鋭い眼光で見下ろした承太郎は「おい…こいつをどうする?」と花京院達に問い掛ける。

「承太郎、そいつは名前さんを狙っているんですよ? 答えは一つでしょう」
「そうだぜ承太郎! 情け無用! 早く首を引き千切るんだッ!」
「アイアイサー」

花京院とポルナレフに容赦するなと言われた承太郎は手の中にいる『女教皇』を潰そうと力を込める。
バキボキと骨の折れるような音が潜水艦に響いたと思えば、次に聞こえて来たのは『女教皇』の悲鳴ではなく承太郎の呻き声だった。

「! や、野郎…カミソリに化けやがった!」
「きゃはははははは!」

甲高い笑い声を上げる『女教皇』はカミソリに化けることで承太郎の手を斬り裂き、痛みで力が緩んだ隙に拘束を逃れたのだ。

「ば…ばかなッ!」
「こいつ強い…!」
「承太郎に一杯食わせるなんて…」

未だに潜水艦の天井に張り付いて笑い声を上げる『女教皇』に、アヴドゥルは浸水もしていることだし、この部屋に『女教皇』を閉じ込めて違う部屋で戦う作戦を話し合おうと皆をドアの外へと誘導する。
アヴドゥルに連れられ名前達が部屋を後にして『女教皇』と一対一になった承太郎は、ニヤニヤと笑う相手を静かに見上げた。

「てめーはこの空条承太郎が直々にブチのめす……名前に手ェ出したこと、後悔するんだな」

くるりと背を向けた承太郎は部屋を出て行くと、重い潜水艦のドアを勢いよく閉めたのだった。

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