「Oh my god! 名前ちゃんッ! どうしたんじゃその頬の傷は…ッ!」

意識を取り戻したジョセフは自分の切断された義手よりも、沈没しかけている潜水艦のことよりも、名前の頬に出来た引っ掻き傷に顔面蒼白になり、再び意識を失いそうになっていた。

「だ、誰が名前ちゃんの顔にこんな酷いことを…」
「ジョースターさん! 我々は今『女教皇』というスタンドに襲われているんです!」
「なにィ!? じゃあそのスタンドが名前ちゃんを!? 許せん…! わしの『隠者の紫』で引き千切ってくれるッ!」
「ふざけてんじゃあねーぜ」

せっかく閉じ込めたというのに元いた部屋に戻ろうとするジョセフを承太郎が苛立たし気に止める。

「離せッ! わしを止めるんじゃあない承太郎ッ!」
「ジョセフおじいちゃん、恥ずかしいからやめて…」
「…それよりもこれからどうする? 遅かれ早かれあの部屋から何かに穴を開けてここまで来るぞ!」
「この潜水艦はもうだめだ!」

潜水艦の中は『女教皇』が化けられる機械類ばかりで戦うには不利だという話になり、アヴドゥルの提案で名前達はこの潜水艦を脱出することになった。
しかし現在名前達は海底40mの海中にいるのだ。とんでもなく深いわけではないが陸まで少し距離がある。
どうやって海上まで行くんだとアヴドゥルに尋ねるポルナレフの前に、一つのシュノーケルが差し出された。

「今度はスキューバダイビングかよ…おれ経験ないんだよね、これ…」
「う、うそ…」
「やれやれ」

またしてもこんなに早くダイビングをしたいという願望が叶ってしまった名前は顔を青くさせる。
紅海をダイビング出来るなんて本来であれば喜ばしいことなのだが、敵に追われている切羽詰まった状況では、元々泳げない彼女にとってこれほどまでに最悪なことはないだろう。

「この中でスキューバダイビングの経験のある者は?」

ジョセフは器用に片手でダイビングに必要な装備を着けながら慣れない装備に四苦八苦している名前達に目を向ける。その様子からして答えはもちろんーー。

「ない」
「ない」
「ありません」
「…ない、」

自分以外ダイビングの経験がないと分かると、ジョセフはこれから潜り方を教えると真剣に話し始めた。

「まず決して慌てない。これがスキューバの最大注意だ」

水中では水面下10mごとに一気圧ずつ水の重さが加圧されていく。海上が一気圧のため現在の海底40mから浮上しようとしている名前達には、合計で五気圧の重さが掛かることなる。
この気圧の中を一気に浮上しようとすると肺や血管が膨張して破裂してしまうので、落ち着いて体を慣らしながらゆっくり浮上しようとジョセフは名前達の目を見て話した。

「エジプト沿岸が近いから海底に沿って上がっていこう…さ、水を入れて加圧するぞ」
「…っ…!」

ジョセフが部屋にあるバルブを回すとポンプから勢いよく海水が入り込んできた。
とめどなく入り込んでくる海水はどんどん水位を上げ、名前達の脚を飲み込んでいく。

「「!」」

ジョセフからレギュレーターの仕組みの話を聞いていた承太郎と花京院の手に自分ではない者の手が触れる。
その感触に二人が同時に隣を見ると、彼らの間に立っていた名前が俯いたまま承太郎の右手と花京院の左手を握っていた。

「…名前?」
「名前さん、どうしました?」
「……ごめん、ちょっと怖くて…、」

顔を上げた名前の眉はへにゃりと情けなく下がっていた。
海を泳いだ経験のない名前の初泳ぎがスキューバダイビングなのだ。酸素ボンベがあって海中でも息が吸えるというメリットはあるが、重い装備を背負って泳がなければならないというデメリットもある。
更に言えば名前は今怪我をしているのだ。不安にならないはずがないだろう。
名前に握られた手にカタカタと震えているような振動が伝わってきた承太郎と花京院は一度顔を見合わせると、ふっと笑みを浮かべ名前の手をぎゅっと握り返した。

「!」
「安心しな、俺がついてる」
「承太郎…そこは俺『達』だろう?」
「……そうだったな」
「ふふ……名前さん大丈夫ですよ。僕と承太郎が側にいますから」
「っ、…二人とも、ありがとう…!」

承太郎と花京院の優しい笑みと温かな手の温度に、不安な気持ちが霧散していった名前は泣き笑いのような笑みを浮かべると、二人の手をぎゅうっと先程より強く握った。
強く繋がれた彼女の手はもう震えていない。

「行くぞ」

二つのハンドサインを教えてもらった名前達はジョセフの掛け声に頷くと、既に首元まで来ている海水の中にレギュレーターを咥えて潜り始めた。
ジョセフが潜水艦を出るためのハッチに手を掛け『OK』のハンドサインを皆に向けると、男四人も同じサインを返す。
名前も彼らと同じようにサインを返そうとするが、レギュレーターから酸素が流れて来ないことに気付いた。

「…酸素がこな……!?」

海中でもスタンドであれば会話が出来るため、名前はハンドサインではなくスタンドでレギュレーターの異常をジョセフ達に伝えようとしたのだが、唇に走る激痛により言葉を止めざるを得なかった。

「れ、レギュレーターじゃない…ッ!」

名前が咥えていたのはレギュレーターに化けていた『女教皇』だったのだ。
驚く名前の表情を見てニヤリと笑った『女教皇』は噛んでいた名前の唇を離すと、今度は彼女の体内に侵入しようと口の中に体を捩じ込み始める。

「っ、ごほ…!」
「名前ちゃんッ!」
「い、いつの間にッ!? やつが既にレギュレーターに化けていたッ!」
「口の中から入って体内を食い破る気だ…」

名前の口内にどんどん体を捩じ込んでいく『女教皇』に承太郎は「この部屋を排水しろッ!」と声を掛けるが、今から排水しても間に合わないとアヴドゥルに言われてしまい舌を打つ。
そうとなれば体内に入る前に捕まえてしまおうと『星の白金』の腕を名前に伸ばすが、捕まえるよりも先に『女教皇』はスルッと名前の体内に入り込んでしまった。

「し…しまったッ!」
「名前さんの体内へ入っていったぞッ! 食い破られるッ!」
「ど…どうするッ!?」
「…かは、っ」

異物が体内に入り込んでくる不快な感覚と、少なくなっていく酸素量に恐怖した名前は体を支えてくれている承太郎にしがみ付く。
自分の腕の中で苦しそうにしている名前を見下ろした承太郎の目に、彼女の白い喉が不自然に動くのが映った。恐らく中では『女教皇』がどんどん体内に侵入しようとしているのだろう。
このままでは名前の体が危ないと承太郎に焦りが出始めたその時ーー。

「『隠者の紫』ッ!」
「『法皇の緑』!」

ジョセフと花京院が自分のスタンドを名前の口内に滑り込ませた。

「花京院! 喉の奥に行く前に捕まえたぞッ!」
「僕もですッ! 変身する前に吐き出させましょう!」
「〜〜っ!」
「すまん名前ちゃんっ! 耐えてくれ!」

ずるずると喉をせり上がってくる『女教皇』に名前は、承太郎の手を握り息苦しさと嘔吐感に必死に耐える。
名前を安心させるように承太郎が彼女の体を抱きしめたのと同時に、名前の口から紫色の蔦と緑色の触手が絡まった『女教皇』が出てきた。

「ごほっ…!」
「やったッ!」
「いや、倒したわけではないッ! 別の物に変身するぞ!」

名前の中から無事に引きずり出せたことに安堵した花京院だったが、ぐにゃりと形を変え始めた『女教皇』にジョセフは警戒を濃くした。
やがて『女教皇』は鋭く尖った銛を発射することが出来る水中銃に変身すると、照準を承太郎に抱えられ潜水艦を出ようとしている名前に向ける。

「名前ッ、早く行くぜ!」
「っ、うん…!」
「閉めるぞ…ッ!」

アヴドゥルがハッチを閉めた瞬間、水中銃に化けた『女教皇』がガキンとハッチに当たる音が響いてきた。
もう少し遅ければあの鋭い銛が自分に刺さっていたかもしれないと想像した名前はふるりと体を震わせた。

「…大丈夫か?」
「だ、大丈夫…みんなありがとう」
「いえ、名前さんが無事でよかった」

承太郎が装着している酸素ボンベから伸びるもう一本のレギュレーターを咥えた名前は、お礼の意を込めて『OK』のハンドサインをする。
そのサインを見た承太郎達は安堵するように頷くと、ゆっくりと陸地に向かって泳ぎ始めた。

「見ろ! 海底トンネルだ…!」

幸いにも『女教皇』に追われることのなかった名前達は、順調に陸地を目指して海中を浮上していた。
そして深度7mまで来た頃、名前達の目の前に二つの海底トンネルが現れた。
海底トンネルが見えたということは、エジプトの海岸がもうすぐそこまで来ているという証拠。この岩伝いに泳いで上陸しようと先頭を泳ぐアヴドゥルの後に名前達が続く。
しかしその時、動かないはずの岩が笑うように歪んだ。

「なッ」
「なにッ!?」

驚愕する名前達の目に映ったもの。
それはニヤリと笑う大きな『女教皇』の顔だった。

「スタンドだッ! こ、この海底に化けていたッ!」

既に海底に化けて名前達が来るのを待ち構えていた『女教皇』は大きく口を開けると海水ごと名前達の体を吸い込み始め、彼女らが口内に入ったと分かるガチリと大きな歯を閉じてしまった。


* * *


「っ、いた…!」

ドスッと鈍い音を立てて体を打ち付けた名前は、腰を擦りながら薄暗い辺りを見回す。

「ここ、どこだろ…」
「恐らくやつの体内ではあると思いますが…」
「まだ口の中じゃ…喉の奥には飲み込まれていない」
『承太郎!』
「!」

きょろきょろと警戒するように辺りを見回す名前達の耳に、一人の女性の声が届いてきた。
この状況からして『女教皇』の本体であるミドラーというスタンド使いだろう。
ミドラーはもう一度承太郎の名を呼ぶと「残念だわ…」と嘆き始めた。

『お前は私の好みのタイプだから心苦しいわね…私の「女教皇」で消化しなくっちゃあならないなんて!』
「し、消化…!?」

ミドラーがさらりと口にした「消化」という言葉に反応した名前は、自分達が胃液でドロドロに溶かされる姿を想像して顔を青褪めさせる。
そんな死に方嫌だと頭を振る彼女の横で、何やらポルナレフに耳打ちされていた承太郎は嫌そうに顔を歪めていた。

「(やれやれ…本当に言うのか?)」
「(言え…! ホレいいから早く言え!)」

もう一度溜息を吐いた承太郎は声のする口内の正面を向くと、「…あー」と躊躇うように声を発した。

「一度あんたの素顔を見てみたいもんだな。俺好みのタイプかもしれねーしよ…恋におちる、か、も」
「!?」
『……承太郎…♡』

普段絶対聞くことのない台詞を吐く承太郎に名前はこれでもかと目を丸くし、口を大きく開けて気まずそうに目を逸らす承太郎を見つめた。
しかし嫌そうにしている承太郎の姿が見えないミドラーは余程嬉しかったのか、口内をほんのりとピンク色に染める。
その光景に「なるほど」と頷いた花京院達も承太郎に続くようにミドラーに声を掛けた。

「俺はきっとステキな美人だと思うぜ。もう声で分かるんだよな、俺は」
「うむ。なにか高貴な印象を受ける」
「女優のA・ヘプバーンの声に似てませんか?」
「わしも30歳若ければなあ」
「ほら! 名前もなんか言えって!」
「わ、わたしも…?」

ポルナレフに肘で小突かれた名前は一瞬考える素振りを見せると、ポンッと手を叩いた。

「素敵なミドラーさんなら男性もほっとかないですよね! 私も性別が男だったらなぁ…」
『……貴様、名前だったな?』
「は、はい…! 名前です…!」

急に低くなったミドラーの声色にビクリと肩を震わせた名前は思わず居住まいを正す。
ブツブツと『お前が…DIO様を…』と呟くミドラーに全員が疑問符を浮かべていると、静かだった口内に轟音が響いた。

『このクソアマが…ッ!!』
「!?」
『お前がDIO様を誑かしたせいでこの私が邪険に扱われてるんだよッ! お前さえいなければ…お前さえいなければDIO様は私を見てくれるのに…!』
「きゃっ…!」
「Holy shit!」
「なんだその逆恨みはッ!」
「だから名前さんばかり狙ってたのか…!」

とてつもない怒りを露わにしたミドラーはスタンドの舌を動かすと、器用に承太郎達を避けて名前の体を舌先で弾く。

「ぐっ…!」
「名前ッ!」

重い打撃を食らった衝撃で吹き飛ばされる名前。そんな彼女が飛ばされた先は『女教皇』の奥歯だったのだ。
あろうことかミドラーは名前を奥歯ですり潰そうとしているらしく、歯を閉じようと顎に力を込め始めた。

「名前ちゃんッ! 身を躱せ! 挟まれるぞッ!」
「っ、ぐ…うっ…!」

避けるには間に合わず、せめてもの抵抗で噛み締めようとする歯を腕を使って止めようとするが、やはりスタンドの力には敵わないのだろう。徐々に名前のいる奥歯の隙間が狭くなってきていた。

『きゃはは! 名前ッ! そんなひょろい腕で私のスタンドと力比べをするつもりかい!?』
「うっ…ぁ…」
『この歯の硬度はダイヤモンドと同じ! 貴様を潰し殺す!』
「くっ…も、むり……!」

押し潰してくる圧に名前の腕が耐え切れずカクンと力が抜けてしまった。

「名前さんッ!」
「名前ちゃんを助けろッ! 引っ張り出すんじゃーッ!」

挟まれる前に名前を助け出そうとジョセフ達がスタンドを出すが、引っ張り出すには間に合いそうもない。
必死に助けようとしてくれるジョセフ達に名前は嬉しく思うも、もう無駄だと諦めたように目を閉じる。しかし――。

「…大丈夫だ」
「! …じょ…っ、」

目を瞑った彼女の体を包んだ暖かな熱。
耳元で聞こえてきた安心する男の声に名前がパッと目を開けた瞬間、彼女の視界は黒一色に染まったのだった。


* * *


奥歯に強く噛まれたせいでひしゃげた酸素ボンベが中の酸素の圧に耐え切れず爆発する。
大きな爆発音と爆風に襲われるジョセフと花京院、ポルナレフとアヴドゥルの四人は目の前で起こった出来事に呆然と立ち尽くしていた。

「…名前さん…ッ!」
「じょ…承太郎ッ!」

ミドラーの『女教皇』に名前がすり潰される寸前、承太郎が彼女に覆いかぶさるようにして奥歯の間に飛び込んだのだ。
大きく憎いほどの白い歯の間に消えていった二人の姿に、ジョセフ達は信じられない目でその一点だけを見つめていた。

「名前と承太郎が歯ですり潰されたーーッ!!」

悲痛な表情で声を上げるポルナレフに、花京院とアヴドゥルは「まさかあの二人が…」と悔しそうに顔を逸らす。
しかしジョセフだけはポルナレフに反発するように「いや、待て!」と声を張り上げた。

「なにか聞こえる」

耳を澄ますように手を当てるジョセフに、花京院達も同じく耳を澄ませる。
するとジョセフの言う通り微かではあるが、どこからともなく響く音がこの場にいる全員の耳に届いてきた。

「遠くから聞こえるような…」
「だんだん近付いて来るような!」

遠くから響いてきた音はどんどんジョセフ達の元に近付いてくる。
そしてその音が何であるか理解したポルナレフはパアッと表情を明るくさせた。

「こ…この声は! 歯だ! 歯の中から聞こえるぞッ!」
「みんな身を屈めろーーッ!」

地鳴りのような音に何かヤバいとジョセフ達が身を守るように屈んだ瞬間、歯の中からいつもの掛け声を放つ『星の白金』が現れた。
もの凄い勢いでダイヤモンドより硬いと豪語していた『女教皇』の歯を次々と叩き折っていく『星の白金』に、ジョセフは痛そうに「ヒィーーッ!」と声を上げる。

「おいみんな、このまま外へ出るぜ」

全ての歯を折る勢いの『星の白金』にジョセフ達が顔を引き攣らせていると、名前を横抱きにした承太郎が自分のスタンドに続いて歯が一本も無くなった口から外へと飛び出した。

「やれやれ。ま…確かに硬い歯だが叩き折ってやったぜ…ちとカルシウム不足のダイヤモンドだったようだな」

白目を剥く『女教皇』を冷たい目で見下ろした承太郎は「後悔させてやるって言っただろ」と鼻で笑った。


* * *


バシャバシャと波を掻き分けてエジプト沿岸の地に足をつけた名前は、いつの間にか昇っている朝日に眩しそうに目を細めた。

「ついに、エジプトへ上陸したな」
「ジェットなら20時間で来る所を…30日もかかったのか」
「いろんな所を通りましたね。脳の中や夢の中まで」
「夢?」
「花京院、なんだそれは?」
「ああ…そうか、みんな知らないんでしたね」

肩を竦める花京院に名前とポルナレフは不思議そうに首を傾げる。
承太郎も訝し気にじっと花京院を見ていたが微かに口角を上げると「行くぞ」と朝日を背に歩き出した、

「待ってよ承太郎!」

制服の裾を翻して先を行く承太郎の背を追い掛けようと名前は足を踏み出す。

 −−もうすぐだ…もうすぐお前は私のモノになる。

「!」

どこか聞き覚えのある声が耳に届き、名前は咄嗟に後ろを振り向く。
しかしそこには当たり前のことだが青く輝く海が広がっているだけだった。

「…いま、たしか…」
「名前ちゃーん!」
「!」
「どうしたんだよ名前ッ! 置いてくぞ〜?」
「いま行く〜!」

置いていかないでよと太陽に負けない笑みを浮かべながら走ってくる名前を、優し気な表情で見つめる承太郎達は知らない。
――彼女の運命の歯車が回り出したことを。


To Be Continued.

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