窓一つない書庫室は完全に外からの光を遮断していた。
早朝に来ようが、真昼に来ようが、深夜に来ようが照明も存在しないその部屋はいつも暗闇に包まれている。
そんな書庫室ではゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りだけが頼りだった。

「……」

男は自分の側に燭台を置くと、青白い灯りの中で埃を被った分厚い本を一冊手に取り、並んでいる英文を琥珀色の瞳でなぞり始めた。

「…ふむ…うさぎ、か」

男は手に取った本の文面に出てきた「うさぎ」という単語に反応を示した。その文字を見て彼の脳内に浮かぶのは耳の長い小動物ではなく、ベナレスの地で言葉を交わした愛しい者の姿だった。

「…愛らしい名前にピッタリだな」

優しく目を細めてふっと笑うように息を吐いた男は、白く長い指で書面をするりと撫でる。

「…日光に嫌われた夜の兎と、日光を嫌う吸血鬼……『人外』同士の恋物語も中々良いとは思わないか?」

男は首を少しだけ動かすと、先程までの優しさを消した琥珀色を書庫室の入り口に向ける。
すると男しかいないはずの書庫室に「…素敵だと、思います」と震えた声が響いてきた。

「私になにか用か」

視線を再び本に戻した男は低く唸るように呟く。その声に闇の中に潜む人物は「…御足元に失礼します」と一礼すると、男が立っている場所に続く階段へと首のない死体を置いた。

「ほう? 近所をうろつく蠅を始末したか…」

男は鼻につく血液の匂いに片眉を上げると読んでいた本をパタンと閉じた。

「SPW財団…油断も隙もないな、全く…」

愉快そうに喉を鳴らして笑う男はコツリ、コツリと靴音を響かせて階段を下りていく。
側に転がる首のない死体には目もくれず階段を下り切った男だったが、男が通り過ぎた後の死体はいつの間にか腕までもが切断されていた。

「この体も大分馴染んできた」

男は確かめるように己の左手を何度か動かすと、首筋にある星形の痣に触れた。

「感じるか、ジョナサン……お前の子孫共が近付いて来ているのを…」

痣に語り掛けるように話す男はニヤリと薄い唇を歪めた。

「…つくづく残酷だな、この世界という物は」

鋭く尖った犬歯を覗かせた男ーDIOは一人の男の姿を思い浮かべると、挑発するように鼻で笑った。

「承太郎よ……もうすぐ名前は私のモノになる」

紅い舌でぺろりと唇を舐めたDIOの顔は、紛れもない捕食者であった。


* * *


スタンド使いに襲撃されるという困難を乗り越え、約一か月かけて漸く辿り着いたエジプトの地。
今すぐにでもカイロを目指したいところではあるが、ジョセフは義手を無くしてしまい、名前は命の綱でもある番傘を潜水艦内に置いてきてしまった。その他にも旅に必要な荷物を紅海の海底に置いたままなのである。
そこでジョセフは人知れずSPW財団に連絡を取り、必要な物を届けてもらうように手配したのだった。

「来たな!」

そしてエジプト上陸から数日後ーー。
SPW財団と落ち合う約束をした砂漠へとジョセフに連れて来られた名前達は、目の前を飛ぶ一機のヘリコプターに驚いていた。

「な、なんだッ!?」
「SPW財団のヘリだ…降りれる場所を探している!」
「SPW財団? 日本でお袋を護衛してくれているじじいの昔からの知り合いか?」
「…もしかして、今度はあれに乗るの?」

着陸場所を探すために旋回しているヘリコプターを指差して名前がジョセフに尋ねると、彼は「いや…」と首を横に振った。

「できることなら乗りたいが彼らはスタンド使いではない…攻撃に合ったら巻き込むことになる」
「それじゃあなぜあのヘリがやって来たのですか?」
「わしの義手や名前ちゃんの番傘など必要な荷物を届けてもらうことが一番なのじゃが、もう一つ……『助っ人』を連れて来てくれたのだ」
「「「!」」」

思いもしない「助っ人」発言に砂が舞う中で目を大きく見開きジョセフを見る承太郎と花京院、そしてポルナレフの三人。
そんな彼らの横で名前は「助っ人?」と不思議そうに徐々に高度を落としていくヘリコプターに視線を向けた。

「うむ…ちと性格に問題があってな。今まで連れてくるのに時間がかかった」
「! ジョースターさん! あいつがこの旅に同行するのは不可能です!」

ジョセフが誰を連れて来させたのか分かったアヴドゥルは「とても助っ人なんて無理です!」と食い下がる。

「アヴドゥル、知っているのか?」
「ああ。よくな…」
「ちょっと待て…『助っ人』ってことは当然スタンド使いってことか?」
「『愚者』のカードの暗示を持つスタンド使いだ」
「『愚者』ゥ?」

愚か者や馬鹿者を意味する『愚者』にポルナレフは「なんか頭の悪そうなカードだな」と笑った。

「敵でなくてよかったって思うぞ。お前には勝てん!」
「…なんだとこの野郎! 口に気をつけろ! えらそーにしやがって…ッ」
「本当のことだ。なんだこの手は、痛いぞ」
「もうやめないか。ヘリが着陸したぞ!」

喧嘩を始めそうなポルナレフを止めた花京院の言う通り、ヘリコプターは地面に脚を着けた。
そして機内から姿を現したのはSPW財団のワークジャケットを羽織り、帽子を被った二人の男だった。
屈強そうな男二人をじっと見る承太郎と花京院、ポルナレフを余所に男達はジョセフの元へ行くと「Mr.ジョースター、ご無事で……」と握手を交わす。

「わざわざありがとう、感謝する」
「…どっちの男だ?」

にこやかにしているジョセフとは違い、見定めるように鋭い眼差しを男達に向ける承太郎。警戒の色を濃く映す翠色の目を無言で見つめ返す男二人に、承太郎は眉を顰めた。

「どっちの男だと聞いているんだ。あんたか?」
「いえ我々ではありません。後ろの座席にいます」

承太郎の問いにふっと笑った男達はヘリコプターの座席を指差した。しかし彼らが示す機内の後ろの座席には、一枚の毛布が無造作に置かれているだけだった。

「いないようだが…」
「いや、います」

彼らが言う助っ人の姿を見つけられない承太郎が頭に疑問符を浮かべる中、痺れを切らしたポルナレフが「出てこいコラァ!」と叫びながら、座席をバンバンと叩く。
すると今まで冷静な態度でいた財団の男が「あ、危ないッ!」と初めて慌てた様子を見せた。

「気をつけてくださいッ! ヘリが揺れたんでゴキゲンななめなんですッ!」
「近付くなッ! 性格に問題があるといったろーッ!」

心配する男とジョセフの声を聞き流しながらポルナレフは「なんだこのベトベトは?」と自分の手に着いた液体に首を傾げる。
妙に粘着質なそれを注視していたポルナレフの背後で、毛布がもぞもぞと動き始めた。
そしてーー。

「おわあああああ!?」

広大な砂漠にポルナレフの絶叫が響き渡る。

「こっこっ、こいつはーーッ!」
「犬!」

激しく吠えながら毛布から飛び出して来たのは一匹のボストンテリアだった。

「犬だと…!」
「…え、まさかこのワンちゃんが?」
「そう、この犬が『愚者』のカードのスタンド使いだ。名は『イギー』という」

ポルナレフの顔にしがみ付いて髪の毛を毟る犬は「イギー」と言い、NYでアヴドゥルが見つけた貴重なスタンド使いであった。
野良犬狩りですら捕まえられなかったイギーを何とか捕まえ、SPW財団で保護していたのだが、ジョセフがイギーのスタンド能力を見込んで助っ人に抜擢したらしい。

「ああそうだ思い出した。髪の毛を毟るとき人間の顔の前で『屁』をするのが趣味の下品なヤツだった」

ジョセフがイギーの趣味を思い出して言い切った瞬間、タイミング良くイギーはポルナレフの顔の前で放屁する。
これにはさすがに今までやられっ放しだったポルナレフも我慢の限界に達したようで、イギーを無理やり引き剥がすと自分のスタンドを呼び出した。
自分に向かってレイピアを振り上げる『銀の戦車』にピクリと反応したイギーは背後に砂を集める。その砂はやがて頭に羽根飾りをつけ、後ろ足が車輪になっている大型犬のような形に変化したのだった。

「これが『愚者』か…」
「シンガポール沖でオラウータンのスタンド使いに出会ったが…」
「ワンちゃんのスタンド使いがいるとはネ…」
「てめえ本当にブッた切るぞッ!」

本体のイギーと同じように威嚇してくるスタンドにポルナレフは額に青筋を浮かべると、レイピアで『愚者』を真っ二つに斬り裂こうと振り下ろす。
しかし『愚者』は斬られる寸前で砂に戻り、スカッと『銀の戦車』のレイピアが空振った瞬間を狙って再び固まり始めた。

「俺の剣を取り込みやがった!」
「アヴドゥルさん、イギーのスタンドって…?」
「簡単に言えば砂のスタンドなのだ」
「うむ…シンプルなやつほど強い…俺にも殴れるかどうか…」
「ひっ、ひーーっ!!」
「…うわぁ、」

イギーのスタンドに感心する承太郎の横で、名前はまたもや髪の毛を毟り取られているポルナレフを可哀相なものを見る目で見つめていた。

「おい! 助けて! この犬をどけてくれーっ!」
「すまんポルナレフ…僕も髪の毛を毟られるのはごめんだ」

するりと髪を弄った花京院は、友人を助けるよりも自分の髪を守ることにしたようで。
無情にも見捨てられたポルナレフは「薄情者ォーーっ!」と悲しい声を上げた。

「……全く、仕方のないヤツだ」

その様子を見かねたアヴドゥルは溜息を一つ吐くと「例の大好物を持ってるか?」と財団の男に尋ねる。

「持ってなきゃあ連れてこれませんよ」
「!」

ニヤリと笑ってポケットを漁る男に、今までポルナレフの髪の毛を毟ることに夢中だったイギーが、勢いよく吠えながらアヴドゥルの元へ駆け寄ってくる。

「なんてもの凄く鼻のいいヤツだ…!」
「ガム?」
「イギーはコーヒー味のチューインガムが大好物なんだ。こいつには目がない」
「アヴドゥルさん! 箱の方はヤツの見えない所へ隠してッ!」
「あ」

慌てて男が箱を隠すように言うが時すでに遅し。
イギーはアヴドゥルが見せつけるように取り出した一枚のガムではなく、まだ開けたばかりでたくさん入っている箱の方に飛びついたのだ。

「おお、賢い!」
「コーヒー味のチューインガムは大好きだけれど、決して誰にも心は許さないんじゃ」

クチャクチャと紙ごとガムを食べるイギーに「紙ぐらい取ってから食え」とアヴドゥルは呆れ、花京院は扱いの難しそうな助っ人に眉を顰めた。

「こんなヤツが助っ人になれるわけない」
「やれやれ」
「チクショー!」

自慢のヘアスタイルを必死に直しながら涙目でイギーを睨み付けるポルナレフ。
明らかに敵意や呆れの目を向けられているにもかかわらず、そんなものを全く気にしていないイギーは、ただひたすらコーヒー味のガムを噛むのだった。

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