ジョセフに引き上げられ車のボンネットに寝かされた花京院の体を支えた名前は、彼の目元に出来た二本の赤い筋に息を飲んだ。

「…ひどいっ、」

敵スタンドに切りつけられて出来た花京院の目の傷は、名前が思っているよりも深いものだったのだ。
眉から目、そして頬にかけてざっくりと縦に走る切り傷に、アヴドゥルは「…まずいな、」と冷や汗を流す。

「…失明の危険がある」
「っ、そ…そんな…!」

失明の可能性があると聞いた名前は顔を青くさせ、震える手で自分の口元を覆う。

「車を出そう! 早く医者の所へ連れて行かねば…!」
「…と言って、動けば即座に攻撃してくるぞ……うかつに動くわけにはいかんな…」

一刻も早く適切な処置を花京院に施さなければならない状態なのに、動けば医者に連れて行くどころかここにいる全員やられてしまう。
まさに絶体絶命と言える状況に、承太郎が忌々しそうに舌を鳴らした瞬間、ガクンと大きな衝撃が名前達を襲った。

「なにィーッ!!」
「く、車が…っ!

今まで攻撃してくる素振りを見せなかった敵スタンドが、車の左前輪を飲み込み始めたのだ。
どんどん前に傾いていく車体に、名前は花京院の体を抱えるとボンネットから承太郎達がいる屋根の方へと移動する。

「タイヤが水の中に! だめだ、引きずり込まれる!」
「うおおっ、滑り落ちるぞ!」
「もっと車の後ろの方へ移動しろッ!」
「っ、く…!」

前輪を引きずり込まれほぼ垂直になった車に、花京院の体を落とすまいと名前は必死に片手で車体を掴むが、鉄製で滑りやすく、更にガタガタと揺れる車体に思うように力が入らない。
それは承太郎達も同じのようで、彼らの体もずるずると下がっていく。

「おいコラッ! 助っ人!」

車の後輪にしがみ付くポルナレフは、いつの間にか車内から外へ出ていて、我関せずと言うように眠そうに地面に伏せるイギーに声を張り上げる。

「てめー助っ人しろッ! おいッ!」
「…ふぁ〜……」
「っ、どこまで呑気なんだ! あのバカ犬…!」

大きな欠伸をして本格的に寝始めるイギーにポルナレフが額に青筋を浮かべた時、二つの前輪が車体から離れ宙に浮いた。

「な…なんて切れ味じゃッ! 前輪を切断しやがったッ!」

前輪が無くなり前方が軽くなった車体は当たり前だが重い方が下がる訳で、今度は名前達がしがみ付いている後方が地面に向かって落ちていく。
敵スタンドは前輪を引きずり込むことで名前達を後方に追いやり、重心が後ろに集まったところを狙って車体の前の重みを軽くしようと前輪を切断したのである。
そう、最初から名前達は敵の手中で踊らされていたのだ。

「うああああーーッ!!」
「きゃっ!」

気付いた時にはもう車は叩きつけられていて、反動で名前達は敵の独壇場である地面へと投げ出されてしまう。
全員の体がそれぞれの場に落ちた瞬間、敵スタンドが地面に染み込んで行くのを視界に捉えたアヴドゥルは「動くな」と静かにジェスチャーで名前達に伝えた。
アヴドゥルの動きを汲み取り音を立てないようにじっとし、息を潜める名前達。
そんな彼女らを一瞥したアヴドゥルは己の腕に嵌めている腕輪を外すと、一個ずつ地面に向かって投げ始めた。

「!」

サク、サクと手前から奥に数個投げられたアヴドゥルの腕輪は、人が歩いたような跡を描いていく。
恐らく聴覚で情報を得ている敵には、誰かが移動したように聞こえていることだろう。

「(『移動した位置』を襲ってこい…!)」

アヴドゥルは最後に投げた腕輪の位置を注視する。策にハマってくれていれば敵は必ずその位置に姿を現すだろう。
姿を現した瞬間『魔術師の炎』で蒸発させてくれるとアヴドゥルが意気込む中、彼の予想通りじわりと水が染み出してきた。

「(来たッ! 今だッ!)」

滲み出た瞬間を見逃さなかったアヴドゥルはすかさず『魔術師の炎』を出現させると、敵スタンドに向けて炎を纏った拳を繰り出す。
しかしーー。

「なにィッ!」
「ア…アヴドゥル…!」
「……何者だ……」

敵スタンドは攻撃されることを分かっていたかのように『魔術師の炎』の拳を避けると、アヴドゥルの首元を横切った。
交差するアヴドゥルの体と敵スタンド。

「…つ、つよい…!」
「アヴドゥルさんッ!!」

一瞬の静寂の内、アヴドゥルは首筋から血を噴き出させて倒れてしまった。
どくどくと血を流し動けなくなってしまったアヴドゥルの前に、敵スタンドの大きな手が迫りくる。
今にも命を奪われてしまいそうなアヴドゥルの名をポルナレフが叫んだ時、今度は本当に人の走る音が名前達の耳に届いた。

「! じょ、承太郎…!」
「承太郎が走り出した! な…なんてことを!」

走り出したのは承太郎だった。
彼はわざと音を立てるように大きな一歩で地面を踏みしめながら、名前達がいる場所からどんどん遠くへ走っていく。

「まさか承太郎…」

まるでおとりになるように走る承太郎に名前が目を見開いていると、アヴドゥルを攻撃しようとしていた敵スタンドは承太郎を追い掛けるように地面に潜り込んだ。

「も、潜った!」
「アヴドゥルはこれ以上攻撃されずに済んだが…追いつかれるぞッ!」
「承太郎…ッ!」

ポルナレフとジョセフ、名前の三人が走る承太郎の背を心配そうに見つめていると、彼は唐突に寝ているイギーを地面から掴み上げ、動かしていた脚を止めてしまった。

「立ち止まるな承太郎! 何をしている走れ!」

承太郎は掴んでいるイギーに何かを話すように口を動かすと、徐にその小さな体を地面にぐっと押し付けた。
一体何をしようとしているのかと名前達が疑問符を浮かべていると、突然イギーと承太郎がいる場所に砂嵐が巻き起こる。

「! イギーのスタンドが、」
「…こいつはいい」

砂嵐が収まり視界が良好になった名前達の目に映ったのは、初めて見た時と少し形の違う、大きな羽を携えたイギーの『愚者』だった。
イギーは犬特有の嗅覚で危険を察知したのか『愚者』を出現させると、敵スタンドから逃れるべく空を移動し始めたのだ。どうやら承太郎はイギーを利用して敵本体を見つけ出すことにしたらしい。
敵スタンドは急激に承太郎の足音が消えたので戸惑っているようだった。

「本体さえ見つかれば、あの恐るべきスタンドも倒す可能性大だ!」
「い…いや! ジョースターさん、俺は心配だ…段々高度が落ちて来てるぜ…」

ポルナレフが言う通り『愚者』は飛べば飛ぶほど高度を落としていた。
羽と言っても動力源のないそれは羽ばたくことが出来ず、ただ紙飛行機のように風で舞っているだけだったのだ。
片手で『愚者』の腕にぶら下がっているだけの承太郎は、脚を地面に擦りつけそうになっている。

「!」
「あっ!」

ハラハラして名前達がその様子を見守っていると、承太郎は『星の白金』で思い切り地面を蹴りつけた。
凄まじい威力の蹴りは一蹴りだけで『愚者』の高度をぐんと上げるが、その衝撃は承太郎を探していた敵スタンドにも伝わってしまう。

「ヤツのスタンドが承太郎を追いかけ始めたッ! 今の一歩で気付いたんだッ!」
「…もはやこの戦いは承太郎に任せるしかない…!」

身動きが取れるようになったジョセフは、倒れているアヴドゥルの元へ駆け寄ると口元に手を添える。気を失ってはいるが呼吸はしっかりと出来ているようで一先ず安堵するが、早くアヴドゥルと花京院を病院に運ばなければならない状況に変わりはなかった。
遥か遠くへ飛んでいく孫の姿を縋るように見るジョセフの隣に、花京院を抱えた名前がしゃがみ込んだ。

「ジョセフおじいちゃん、」
「どうした?」

神妙な面持ちで怪我をしている花京院とアヴドゥルを見つめる名前に、ジョセフはこれから彼女が言わんとしていることが手に取るように分かってしまった。

「私のスタンドで二人の怪我を治せば…」
「それはだめじゃ」
「!」

即答されると思っていなかったのか名前は大きく目を開いてジョセフを見る。
どうしてと訴える蒼い目をジョセフの真剣みを帯びた翠色が見つめ返す。

「彼らの怪我を治したいという名前ちゃんの気持ちは痛いほど分かる」
「っ、じゃあなんで…!」
「約束したじゃろう? スタンドの能力を使わんと」
「! で、でも…このままじゃ二人が! それに、今敵のスタンドもこの場にいないし…」
「名前ちゃん」

肩をガシッとジョセフに掴まれた名前は、体を跳ねさせると言葉を途切らす。

「名前ちゃん聞いてくれ。確かに敵のスタンドは承太郎を追いかけていったが、いつ我々の所に戻ってくるかも分からん」
「!」
「それに…襲って来ている敵が一人だけとも限らん。アヴドゥルと花京院が倒れている今、名前ちゃんまで動けなくなったら?」

ジョセフの言うことは至極真っ当だった。
名前が持つ二羽のうさぎのスタンドのうち、白いうさぎの能力は相手の怪我を治すことができる。しかし、代償として相手が負った痛みを取り込んでしまう。
アヴドゥルの怪我だけならまだしも花京院は目をやられているのだ。痛みを取り込むということは、名前の目にも花京院が受けていた痛みが走るということ。とてもじゃないがまともに動ける状態ではなくなってしまうだろう。
そんな状態の時に敵に襲撃されてしまえば、ジョセフとポルナレフの二人だけで仲間を守りながら戦わなければならない。
自分達の置かれた不利な状況を理解した名前は、ぎゅっと目を瞑ると「…分かった、」と頷いた。

「……承太郎を信じて待とう」

ジョセフは俯く名前を抱きしめると、もう姿が見えなくなってしまった承太郎に思いを託した。


* * *


「海の中でも取らなかった帽子を吹っ飛ばしやがって」

敵スタンドにより吹き飛ばされた帽子を一瞥した承太郎は、地に伏せ口から血を吐き出している本体の男に視線を戻す。

「安心しな、手加減はしてある……致命傷じゃあない」

殴られた反動で体を痙攣させる男は承太郎の言葉を聞くとニヤリと口元を歪め、あろうことか自分のスタンドで頭を貫いてしまった。

「馬鹿な! 自分のスタンドで自分を!」
「承太郎……お前、この私から…これから出会う我々の後八人の仲間について聞き出そうと考えてたろう…」

このまま連れて行かれればジョセフの『隠者の紫』に思考を読まれてしまう。
"あの方"の不利になることは少しも話せないと笑った男は、自ら死を選んだのだ。

「…てめーらなんだってそんなにしてまでDIOに忠誠を誓う? 死ぬほどにか……」
「承太郎、俺は死ぬのなんかこれっぽちも怖くないね…」

子供の頃からスタンド能力を持っていた男は、自身の中に死の恐怖など全く持っていなかった。
しかしどんな奴にも勝て、犯罪や殺人をしても平気で、警官なんて全く怖くなかった男に、初めて「この人には殺されたくない」という感情を抱かせた者がいた。
それがDIOという人物だった。
男はこの世で初めて自分の価値を認めてくれたDIOに、ずっと出会えるのを待ち望んでいたのだ。

「死ぬのは怖くない。しかしあの人に見捨てられ、殺されるのだけは嫌だ。悪には悪の救世主が必要なんだよ」
「……」

不敵に笑った男は自分を睨み付ける承太郎に「一つだけ教えてやろう」と人差し指を立てる。

「俺の名はンドゥール。スタンドはタロットカードの起源とも言うべき…『エジプト九栄神』のうちの一つ『ゲブ神』の暗示…! 大地の神を意味する!」
「エジプト九栄神!? なんだそれは…!」
「教えるのは…自分のスタンドだけだ…お前は俺のスタンドを倒した。だからそこまで教えるのだ」
「…チッ!」

他の者のことは頑なに話そうとしないンドゥールに承太郎が舌を打つと、喉で笑ったンドゥールは「もう一つだけ教えてやる」と言い放つ。

「承太郎…名前様はお前の隣にいるようなお人ではない」
「! ……なんだと?」
「名前様の隣に並ぶのはDIO様だけなのだ。その逆も然り…」
「っ、てめえ…!」
「…いずれ名前様はお前の元を去り、DIO様のモノに…なる…」

ンドゥールはそれだけを言い残すと命の灯を消してしまった。


* * *


――西陽に照らされる砂漠の一角。

「………」

ンドゥールの亡骸を砂漠の砂の中に埋めた承太郎は、彼の『目』の代わりだった杖をその場所に深く刺した。

「…人を狂信的に操るDIO……一体どんな男なんだ…」

見捨てられ殺されるのを極端に嫌い、自ら死を選ばせるほどのカリスマ性を誇るDIOに承太郎は思いを馳せる。

「……名前が、DIOのモノに…っ」

ンドゥールが最後に言い残した言葉が脳裏に過ぎった承太郎はギリッと奥歯を食いしばる。
今まで名前がDIOに気に入られていると言うのは刺客の者達から何度も聞かされたが、ここまではっきりと言われたことはなかった。

「…DIO……名前はてめえになんざ渡さねえよ」

一度だけジョセフの念写で見た金髪の男の姿を思い浮かべた承太郎は、騎士と呼ぶにはあまりにも凶悪過ぎる、狩人のような表情で空を睨み付けた。

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