大きな窓から差し込む月光を背に浴びたDIOは美しい笑みを浮かべると、熱の篭った目で部屋の隅に愕然と佇む名前を見つめた。

「…っ、」

琥珀色の二つの瞳にじっと見つめられた名前は、怯えと警戒の色が混じった表情でDIOを見ながら、自分の寝間着であるTシャツをぎゅっと握る。

「…全く、お前は本当に愛らしいな」

その姿は人を怖がるか弱い小動物にとてもよく似ていて、庇護欲を掻き立てるような彼女の愛らしさにDIOはうっとりと目を細める。
しかしこの時、庇護欲と同時に彼の中には別の欲がふつふつと湧き上がっていたのだ。

「怯えられると余計に構いたくなるのは、なぜなのだろうな」

溜息混じりに疑問と共に声を吐き出したDIOは、徐に腰掛けているベッドから立ち上がると、ゆっくり名前に向かって足を踏み出す。
一歩一歩確実に近付いてくるDIOに名前は逃げなければと思うも、ベナレスの時同様彼女の足はその場に根付いたように微動だにしなかった。

「…あ…、」

元々そんなに大きくないホテルの部屋。
動かない自分の足に意識を向けていた名前がはっと気付いた時には、もう目と鼻の先にDIOの姿はあった。
初めて自分の目と肌で感じるDIOの妖しくて恐ろしい、でも惹きつけられる悪の雰囲気に、名前の顔にはありありと恐怖が滲んでいく。

「ふふ…いい表情だな、名前」

小刻みに震える名前を目にしたDIOは、太くも長くて綺麗な指で青白くなってしまった彼女の頬をするりと撫でる。
そして鼻先が触れ合いそうな程顔を近づけて揺れる蒼い瞳を覗き込んだDIOは、先程までの愛でるような優しい笑みとは違う、怯える名前を見て愉しんでいるような意地の悪い笑みを浮かべた。

「その怯えた顔も愛らしいぞ……この私の手で泣かせてやりたいと思うほどにな」

今にも泣き出しそうな名前に庇護欲よりも大きく加虐心を擽られたDIOは色欲を孕んだ目で彼女を見つめ、渇きを潤すために紅い舌でぺろりと唇を舐める。

「い、いやっ!」
「!」

明らかに雰囲気の変わったDIOに動物的な危険を察知する本能が働いた名前は、目の前の男の胸を強く押した。
抵抗するとは思っていなかったのか名前に押されたDIOは衝撃で後退り、互いの体には少しだけだが距離が生まれる。
その瞬間を利用して名前は動かなかった足を必死に動かし、一目散にホテルの廊下に繋がるドアへと駆け出した。

「(早くっ、早く承太郎達に知らせなきゃ!)」

DIOがなぜカイロではなくエドフの町にいるのか分からないが、このまずい状況を一刻も早く彼らに伝えなければならない。
名前は縋るようにドアに張り付くと、震える手を叱咤して掛けたばかりの鍵を開錠する。
カチャンと鍵の開いた音が耳に届いた瞬間、名前は勢いよくドアを開けて部屋の外へと飛び出した。

「……え…?」

ここから一番近いジョセフがいる部屋に向かおうと名前は廊下へ飛び出したはずだった。
しかし彼女の眼前に広がるのは薄暗い廊下ではなく、先程まで背後にいたDIOの姿と部屋の天井だった。

「…な、なんで…」

部屋を出たはずの自分がDIOによってベッドへと押し倒されていることに、名前はなんで、どうしてと譫言のように繰り返す。
そんな酷く戸惑っている様子の名前を真上から見下ろしたDIOは、押さえ付けている名前の手をきゅっと握り、彼女の耳元に唇を寄せた。

「そんなに驚いてどうしたんだ……名前」
「…っ、あ…」

吐息と色気をたっぷり含んだ声で名を呼ばれた名前は、恐怖とは別に体をふるりと震わせる。
その反応を見たDIOは「そう言えば耳が弱かったな」と、あたかも昔から知っているような口ぶりで言葉を吐き出し、わざと名前の耳に息を吹き掛けるように笑った。

「や、やだ…っ」

ぴくぴくと無意識に反応してしまう体に、恐怖に次いで羞恥に襲われた名前は、DIOの下から抜け出そうと身を捩る。

「ふふ、無駄無駄」

しかしどんなに力を込めようが、DIOに握られている手と馬乗りにされている体は、ぴくりとも動くことはなかった。

「っ、離して…!」

必死にもがく名前を涼しい顔色で見下ろしていたDIOは、彼女が言い放った「離して」という一言に眉を顰めると、唐突に空いていた左手で名前の顎を掴んだ。
正面を向かされそのまま固定された名前の顔に、ぐっとDIOの端正な顔が近づく。
互いの息遣いを感じてしまうほど近い距離に名前は慌てて抗議の声を出そうとするが、至近距離でかち合った琥珀色に息を飲んだ。

「お前がこうして触れられる距離にいるのになぜ離さなければならない? なぜ逃がすような真似をしなければならない?」
「っ、」
「俺は名前を絶対に離さん」

睨み付けるように向けられた目はギラリと獰猛に光り輝いていて、その強い光の中にDIOの切実な想いが浮かび上がっていた。
今まで余裕綽々として微笑んでいた男の真剣味を帯びた目と声に、名前は困惑したように眉を下げる。

「…どうして…、」
「……」
「…どうして、なんでそこまで私を…?」

近くにある琥珀色から目を逸らすことなく、名前は旅を続けてきてずっと気になっていたことを恐る恐る口にした。
自分はDIOと出会ったことは一度もないし、ましてやジョースター家の血を引いている訳でもない。だからDIOが自分のことを知っていたこと、配下に置いたスタンド使い達に「手を出すな」と指示していたこと、そしてこんなに執着を見せる理由が名前には全く分からなかったのだ。
いや…一つだけDIOが目をつけそうなものが自分にはあるじゃないか。

「…私が、他人と違うから?」

ぽつりと呟かれた彼女の言葉は、静寂に包まれた部屋に大きく響いた。

「私が変わった体質だから興味を持ったの?」

人知を超えるような体質に興味を持ち、その珍しさゆえに側に置いておきたいのかと、どこか悲しそうに尋ねてくる名前。
そんな名前の話に黙って耳を傾けていたDIOは徐に「名前」と彼女の名を呼ぶと、顎を掴んでいた手で頬を撫でる。

「俺がそんな理由で名前を手に入れようとしていたと…本当にそう思っているのか?」
「…え、」
「くだらんな」

ふんっと鼻で笑ったDIOは「お前の体質などどうでもいい」ときっぱりと言い切った。
自分が唯一浮かんだ考えを完全に否定された名前はとうとう手詰まりになってしまい、「…じゃあ、なんで…?」と気になったものを母親に聞く子供のようにDIOへと尋ねる。

「…なんで、か…」

名前の言葉を反芻したDIOは世界の頂点に君臨しようとする吸血鬼の顔ではなく、最愛の相手を見るただの男の顔をしていた。

「名前」

優しくて穏やかな表情を浮かべたDIOは、自分でも笑ってしまうくらい甘い声で名前を呼ぶと彼女の目をしっかりと捉え、気が遠くなるほど長い時間己の中に溜めていた一つの想いを、熱い吐息と共に吐き出した。

「愛している」
「!」

甘く囁かれた愛の言葉に大きく見開らかれた名前の目は、いつの間にか紅くなっているDIOの目とかち合った。
その瞬間、強烈な睡魔が名前を襲う。

「…あ…っ、」

徹夜をした時のような瞼を開けていることが辛くなるほどの眠気に、徐々に名前の意識は深い眠りの海に沈もうとしていた。

 ――俺から、離れるなよ。

「……じょ、たろ…」

意識が沈み切る直前に名前の脳裏に浮かんだのは、夕陽が輝く船の上で体温を分かち合った、一人の男の姿だった。


* * *


ホテルの部屋の窓から音もなく地上に飛び降りたDIOは、着地と同時に真横に停められた黒塗りの高級車に視線を向ける。

「そろそろお戻りになる頃かと思いまして、お迎えにあがりました」
「…テレンスか」

車から降りてきた一人の男―テレンス・T・ダービーは洗練された動きでDIOに一礼をすると、車の後方へ回り後部座席のドアを開けた。

「相変わらず無駄のない男だな」

どこかで名前とのやり取りを見ていたかのようなタイミングの良さで現れたテレンス。
一分どころか一秒も待たずに車を横付けした仕事の出来る男に称賛の意をする言葉を放つと、テレンスは「勿体なきお言葉」ともう一度恭しく頭を下げる。
その姿を一瞥したDIOはテレンスの前を横切ると、車体と同じように汚れが一つもない真っ白なシートへと腰を下ろした。

「夜が明けるまでにカイロへ戻らなければ」

柔らかなシートに深く身を預けたDIOは、運転席に座ったテレンスに「空港へ急げ」と一言だけ告げる。
吸血鬼であるDIOは名前と同じように日光に弱い。いや、弱いだけならまだいいのだが、彼の場合は日光に少しでも当たると塵になって消えてしまうのだ。
自分で選んだ道とは言え夜しか外に出られない不便な体質に一つ溜息を零したDIOだったが、彼にとって昨夜から現在までの行動は無駄なものではなかった。
そもそもなぜDIO自身がカイロにある館を出てエドフを訪れたのか。

「…名前」

それは彼の腕の中ですやすやと眠る愛しい存在を迎えにいくため、ただそれだけだった。
ベナレスでは「自らは手を出さない」なんて名前に伝えたが、彼女がどんどん自身が身を潜めているカイロに近付いてくるにつれて逢いたいという欲求が高まってしまった。
この腕に早く名前を抱きたい。彼女の息遣いを、体温を、柔らかさを感じたいと以前よりも強く思ってしまった。
日に日に渇いていく心を誤魔化すため名前と似たような蒼い瞳を持つ女や色白の女の生き血を吸い、体に触れてきたが、DIOの中の渇きは潤うどころか益々酷くなるばかりだった。
この渇きを潤せるのは"100年"以上も前から想い続け、唯一愛した名前だけしかいない。だからDIOはカイロの館を飛び出し、こうしてエドフまで名前を求めてやって来たのだった。

「ようやく手に入れたのだ。誰にも…あの忌まわしきジョースターの血を引く男などに渡すつもりはない」

優しい手つきで名前の柔らかく指通りのいい髪を撫でていたDIOは、彼女が眠りに落ちる前に呼んでいた男の顔を思い浮かべ、冷酷な目を窓の外に向けた。
ベナレスで初めて名前と会話をした時も邪魔をされ、今回も直接的にDIOと名前の間に介入してきた訳ではないが、最後に彼女に名を呼ばれたのは承太郎の方だった。

「空条承太郎……貴様はどこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ」

やっと己が生きる世界で名前と出逢えると歓喜していた矢先、彼女に異性の幼馴染みがいることを知った。そしてその幼馴染みの男が因縁の相手であるジョナサン・ジョースターの子孫だということも。
腸が煮えくり返りそうな巡り合わせに、どれほど運命というものを憎んだか分からなかった。
しかし、もうその運命に苦しむことはない。

「名前と共に暮らすため、ジョースターの血を引く者は一人残らず排除せねばな」

DIOはエンヤ婆と出会ったおかげで吸血鬼の力だけではなく、最強とも謳われる能力を持つスタンドを得ることが出来た。
仮に承太郎達が配下に置いた全ての者達を破り、直接闘うことになったとしても自身が負けることは万に一つもないだろう。

「楽しみだな? ジョセフに……承太郎よ」

己の手で長きに渡る血の運命に終止符を打つのも悪くないとニヒルに笑ったDIOは、寝惚けているのかすりっと自身の胸に擦り寄る名前の額に口付けを落とした。

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