「名前ちゃん、遅いのぅ…」

ホテルのロビーに設置されているソファーに腰掛けたジョセフは、懐中時計で時間を確かめながら未だに姿を現さない名前に、困ったように眉を下げる。

「…もうすぐ九時になるぜ」

ジョセフ同様自身の腕時計に視線を落としていた承太郎が現在の時刻を伝えると、ソファーにふんぞり返っていたポルナレフが「なにやってんだよ名前は〜!」と少し不機嫌気味に声を上げた。

「俺は昨日ジョースターさんとアヴドゥルのおかげで夕飯食べ損なったんだぜッ!? もう腹が減って仕方がねえよ!」

早く朝食を食べに行きたいといい大人が駄々をこねる滑稽な姿に「食べ損なったのは自業自得だろう」と言うアヴドゥルと、ガムを噛むイギーの冷めた視線が突き刺さる。

「じじい…ポルナレフじゃあねえが名前のやつ、いくらなんでも遅すぎないか?」
「…うむ、」

帽子の鍔先から覗く二つの翠色に見下ろされたジョセフは、思案するように顎髭を触る。
今まで名前が朝に限らず集合時間に遅れて来ることなど一度もなかった。ましてや誰よりも食べることが好きな名前がこうやって朝食を食べに行こうとしている時に遅れるなど、普段の彼女からしたら有り得ないことなのだ。

「なにかあったのか?」
「……」

もしや名前の身に何か異常が起きているのかと、彼女のことをよく知るジョセフと承太郎に嫌な考えが浮かび上がってきた時、空腹すぎてぐったりとしたポルナレフが「ただの寝坊だろ」と呟いた。

「…寝坊、」
「承太郎だって言ってたじゃあねーか。名前が寝不足だったってよ〜」

確かにポルナレフの言う通り名前はイギーの寝相の悪さのせいで寝不足気味だった。それこそ少しでも椅子に腰掛けたら瞬く間に眠ってしまうほどに。
更にそこに加えて昨日は『アヌビス神』に体を乗っ取られたり、そのまま承太郎達と闘ったりと普通ではないことが起こりすぎていた。
名前に疲れが溜まっていても可笑しくない状態に、ジョセフは「寝坊か」とホッとしたように息を吐く。

「しかしどうします? さすがに私達も朝食を抜いてルクソールまで移動するのは…」
「もう名前は置いて飯食いに行こーぜ」
「それはダメじゃ! 名前ちゃんを一人置いてホテルを出るのは不用心過ぎる!」
「じゃあどうすんだよ!?」
「…俺が名前を起こしてくる」

人の集まるロビーで言い合いを始めようとするジョセフとポルナレフに溜息を吐いた承太郎は、ひらりと制服の裾を翻すと名前がいる部屋を目指して歩を進めた。
背後で祖父が自分の名を呼ぶ声がするが何の反応も示さなかった承太郎は、名前の部屋番号を思い出しつつエレベーターへと乗り込む。
目的の階のボタンを押して閉まり行く扉を見ながら壁に背を預ければ、小さな箱は承太郎だけを乗せて上へと動き始めた。

「(…寝坊、ね…)」

やけに耳につくエレベーターの駆動音を聞きながら、シーツに包まり寝息を立てる名前の姿を思い浮かべた承太郎は少しだけ口角を上げた。
きっと彼女のことだから自分が寝坊したことを知ったら面白いくらいに慌てふためくだろう。

「(詫びくらいは貰わねえとな)」

寝癖をつけながら必死に謝る名前の姿が容易に想像できた承太郎は、待たせられた分何か彼女にしてもらおうと意地の悪い笑みを浮かべる。
そうこうしているうちに目的の階に到着したエレベーターは、小気味いい音を立てて扉を開けた。窮屈に感じる空間から廊下へと出た承太郎は迷うことなく左に曲がり、真っ直ぐと名前がいる部屋に向かって行く。しかし、不意に承太郎の足がその場に止まった。

「…ドアが、開いている…?」

廊下に等間隔に並ぶいくつものドア。
そのうちの一つのドアが不自然なほどに大きく開かれているのが承太郎の目に映る。
このホテルの部屋の並び順から察するに、あのドアが開きっぱなしになっている部屋こそ名前がいる部屋で間違いなかった。

「……」

ホテルに宿泊するにあたって部屋のドアを開けたまま眠る人間など余程の変人じゃない限りこの世にいないだろう。
だからこそ眼前に広がる異様な光景に、承太郎の脳裏には嫌な考えが浮かび上がってくる。

 ――いずれ名前様はお前の元を去り、DIO様のモノになる。

「っ、名前…!」

消し去ったはずのンドゥールの声が再び脳内に響いてきた承太郎は脱兎の如く駆け出すと、勢いよく部屋の中へと足を踏み入れる。
その瞬間、承太郎の目がカッと開かれた。

「……名前…」

床にはいつも名前が履いているパンプスと、新調したばかりの番傘が転がっていてた。
外に行くには欠かせないそれらが室内に残されているということは名前の姿があって当然のはずなのに、承太郎の目には彼女の姿は映ってこなかったのだ。
代わりに映り込んできたのは乱れたシーツを乗せたベッドと、ドアと同じように大きく開かれた部屋の窓だけ。

「……んで、いねえんだよ…っ!」

バスルームにもトイレにも……このホテルのどこにもいない名前に、承太郎はギリギリと彼女の番傘を握りしめる。
あまりにも不自然すぎる部屋の様子と、残された外靴と番傘から、名前が攫われたのは明白であった。

 ――私は承太郎から離れたりしないよ。

「勝手にいなくなってんじゃあねえぜ!」

突如として奪われた愛しい存在に、承太郎の悲しげな咆哮が小さなホテルに響いた。


* * *


ひんやりと冷たい空気が流れる一つの大きな部屋は、太陽の光を差し込む窓も明かりを灯す照明もないせいか、自然な夜よりも暗く深い闇に包まれていた。

「………」

その部屋にどんっと置かれた天蓋付きの豪華なベッドの上に、ぼーっと暗闇の中にあるその天蓋を見上げる名前の姿があった。

「……ここ、は…?」

眠りから目覚めたばかりのぼんやりとした頭と寝ぼけ眼で辺りを見渡す名前は、徐々に意識がはっきりしてきたのかハッと目を開くと、勢いよく体をベッドから起こした。

「わたしっ、DIOに…!」

何の前触れもなく目の前に現れたDIOと、血のように紅く光っていた瞳を思い出した名前。
その紅い瞳を見てから全く記憶はないが、宿泊していたホテルとは似ても似つかないほど暗く広すぎる部屋に、名前は自身がDIOによって彼の館に連れてこられたのだと察しがついた。

「ど、どうしよう…」

あまりにも唐突な出来事に承太郎達へ何も伝えられず、DIO本人により旅の目的地へと連れて来られてしまった名前は顔を蒼褪めさせる。

「…戻らなきゃ、」

時計もないこの部屋では現在の時間もどのくらい日が過ぎたのかも分からないが、きっと今頃承太郎達は自分がいなくなったことに気づいているかもしれない。探してくれているかもしれない。ならば自分は一刻も早く彼らと連絡を取り、彼らの元に戻らなければと名前は意を決して部屋を出ようとベッドから脚を降ろす。
幸いなことに近くにDIOの気配はないため、今なら逃げられるかもしれないと名前が大きな両開きのドアに手を掛けた時、甘くて優しい、穏やかな微笑みを浮かべたDIOの姿が脳裏に過ぎった。

 ――愛している。

「…っ、」

意識を失う前に確かにDIOから囁かれた愛の言葉を思い出した名前は、思わずドアを押す腕から力を抜いてしまう。

「…DIOはどうして私を…」

ベナレスで会話を交わしたことはあったが、実際に会うのは今回が初めてだったはずだ。
なのにDIOは昔から想っていたような口ぶりで言葉を囁き、ずっと触れたくて堪らなかったとでも言うように優しい手つきで触れてきたではないか。

「本当にDIOは、私のことを知っている…?」

手を出さないと言っておきながらホテルへ現れたDIOに、ベナレスで聞いた「お前の全てを知っている」という言葉も誘き寄せるための嘘だったのではと疑った。
しかし彼の真剣な表情をその目で見て、真剣な声をその耳で聞いた名前は、本当にDIOは自分の全てを知っているのではないかと揺らぎ始めてしまった。

「……」

DIOの気配が全くない今が逃げるのに絶好のチャンスかもしれない。もしこのチャンスを逃せば次に館を出るタイミングがいつ訪れるか分からない。しかし――。

「…自分を、知りたい…」

叔母や心ない者達に散々化け物と言われて来た、自分自身も知り得ないこの体の秘密。
ようやく積もりに積もった長年の疑問に答えが出せるかもしれないと期待に胸を膨らませた名前は、今度は逃げるためではなく、DIOを探しに向かうために部屋のドアを開けた。


* * *


コツ…コツと硬い靴裏と床がぶつかり合う音が、どこまでも暗い闇が広がる館に木霊する。

「…ちくしょう、暗いぜ」

その音を生み出している一人の男は異常なほど暗いこの空間に悪態を吐くと、ポケットから愛用しているライターを取り出して火を灯した。
すると忽ち男の周りは小さな炎で出来た暖かみのある明かりに包まれ、そのせいか男の姿だけが暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。

「真昼間だってのに探すのに一苦労だぜ…」

面倒くさそうに溜息を吐き出しながら煙草に火を付けた男―ホル・ホースは「確かあっちの部屋だったな、DIOのいる部屋は…」とエントランスホールの右側に視線を向けると、用のある人物がいるであろう部屋へと歩を進める。

「…っ!」

廊下の先に薄っすらと見えるドアが開きっ放しの部屋を目指して歩くホル・ホース。
前だけを見据えて足を動かすホル・ホースは自身の足元に全く注意を向けておらず、そのせいか彼の爪先は何かを蹴飛ばしてしまった。
靴の先から何とも言えない感触が伝わってきたホル・ホースは、目をかっ開きながら視線を慌てて足元へと下げる。

「な、なんだ…DIOの『食料の吸いカス』か…」

ホル・ホースの目に映ったのは、DIOに血を吸いつくされ息絶えた女達の亡骸だった。
首にぽっかりと吸血された痕である穴を開けた女達は、殺されているというにも関わらず、どことなく恍惚とした表情を浮かべていた。

「(この女どもは嫌々じゃあなく自ら喜んでヤツに血を吸われる…)」

金で雇われているホル・ホースは、餌として館に連れて来られる女達や、DIOに忠誠心を誓うスタンド使いの心理というものが理解出来なかったのだ。
確かにDIOは悪のカリスマ性と言い、人を惹きつける魅力というのを持ってるかもしれないが、自身の命を懸けてまで仕える程ではないとホル・ホースは常々思っていた。

「(しかし…この財宝と美術品……一体どこから手に入れたんだ?)」

女達の亡骸が乱雑に置かれている場所には滅多に見ることのない高価な美術品や、夥しい金貨が敷き詰められていた。どれもこれもDIOを崇拝する者達からの献上品であるが、それを知らないホル・ホースは財宝から視線を外すと、奥の部屋へと足を踏み入れる。

「……」

お化け屋敷のように所々蜘蛛の巣が張ったこの部屋はよくDIOが訪れる書庫室で、今回も例に漏れなく燭台には青白い炎が灯った蝋燭が立ててあった。
しかし不思議なことにDIOの姿はどこにもなく、ホル・ホースはライターの火を消しながら辺りをきょろきょろと見渡す。

「何か……」
「っ…!」

突如として部屋に響いた冷たい声に、ホル・ホースはその声の持ち主を探そうと視線を彷徨わせる。

「用か?」
「!」

自身の頭上から声が聞こえて来ていると気づいたホル・ホースが勢いよく顔を上げると、そこには梯子に手を掛けたDIOが下にいるホル・ホースを見下ろしている姿があった。

「DIO! ………様」

DIOの刺すような威圧感にホル・ホースはぶわっと冷や汗を浮かべ、息を荒くさせる。
そんなホル・ホースには目もくれず静かに梯子から床に足をつけたDIOは、数多くの書物が並ぶ本棚を物色し始めた。

「(ち、ちくしょう…こいつの前に来るだけで背骨に氷を詰められた気分になる……)」

威圧感からなのかやけに大きく見えるDIOの背に視線を向けたホル・ホースは「圧倒されるな、なんてことはない」と自分を落ち着かせるように言い聞かせる。

「(俺よりほんの少し強いかもしれないってだけだぜ!)」
「何の用だ? と聞いたのだ…ホル・ホース」
「! あっ、うっ…そ、その…」

先程までの落ち着きと威勢はどこへやら、DIOに用件を促されたホル・ホースはしどろもどろになりながら「ほ…報告に来たんです」とカウボーイハットの鍔をくいっと指で持ち上げた。

「『九栄神』のうちの五人目と六人目のマライヤとアレッシーが倒されたようですぜ…」
「……」

ふうっと息を吹き掛けて本に被った埃を取り払ったDIOは、ホル・ホースの配下の者が倒されたという報告に対して「…それで?」とたった一言だけ返した。

「! そ、それで…それが報告です…ジョースター達は明日にはカイロへ到着しますぜ…『九栄神』も残りは三人、」
「それで…と言ったのはお前のことだよ、ホル・ホース」
「え!?」

くるりと振り返ったDIOの冷め切った瞳に見据えられたホル・ホースは、大袈裟なくらいに肩を跳ねさせる。

「お前はいつ私のために奴らを倒しに行ってくれるのだ…? ホル・ホース」
「…っ、」
「私に忠誠を誓うと言っておいて…全く闘いに行かないじゃあないか…」

情報連絡員なら誰にでも出来ると言い切ったDIOは、ハアハアと恐怖から大きく肩で息をするホル・ホースへと両手を伸ばす。

「ううっ、」

ゆっくりと自身の顔に迫りくるDIOの両手に目をかっ開き、可哀相なほど冷たい汗を流すホル・ホース。
見開かれた目に触れそうになるDIOの親指をどこか他人事のように動かずじっと見ていたホル・ホースだったが、DIOが触れたのは意外にもずっとホル・ホースが咥えていた煙草であった。

「!」

DIOはホル・ホースの口から煙草を取り上げると、あろうことか自分の人差し指に火を押し付け始めた。
ジュッと肉の焼けるような音を耳にしながらホル・ホースがDIOの唐突な行動を呆然と眺めていると、彼の眼前に丸い火傷の痕がついた二本の人差し指が差し出される。

「…っ、」
「俺の首から下はジョナサン・ジョースターという男の肉体でな…」

ジョセフ・ジョースターの祖父だった男の体だと説明するように話したDIOは、呆然とするホル・ホースに「見ろ、この両指を…」と既に傷が治り始めている指へと視線を誘導した。

「左の方が傷の治癒力が遅いだろう…? 体の左半身が弱いのだ…まだ完全に俺に馴染んでおらん証拠。不死身ではない…」

ジョースター達と闘うには準備不足というところだと話すDIOは、綺麗さっぱりと傷の無くなった指で一冊の本を棚から取り出す。

「…はぁっ、はっ…!」

まざまざとDIOの人知を超えた吸血鬼の力を見せつけられたホル・ホースは、完全なる恐怖に顔を引き攣らせその場に佇むことしか出来なくなっていた。

「ところで…いつまでそこにいるつもりだ?」
「っ!」

手に取った本に視線を落としていたDIOが不意に口を開いたことによって、ホル・ホースの肩がビクリと跳ねる。
しかし直ぐにその言葉が自分に向けらたものではないと気づいたホル・ホースは、DIOがじっと見ている書庫室の入口へと同じように視線を向けた。

「隠れていても私には分かるぞ」

蝋燭が灯る書庫室の中央より暗い入口に向かって話し掛けるDIOは、先程までホル・ホースに見せていた冷酷な吸血鬼の面影など全くなく、ただただ穏やかな表情で「おいで?」と片手を伸ばしていた。

「(なっ、なんなんだ急に…っ)」

DIOの背後にいるホル・ホースからは表情を確認することが出来ないが、初めて聞くDIOの優しい声色に彼は酷く戸惑っていた。
冷酷非道な男でもこんな声を出せるのかと、一体それは誰に向けられているのかと気になったホル・ホースは、何とか動けるようになった足で少しだけ場所を移動する。
するとDIOの背で隠れていた書庫室の入口にある太い柱から、一人の女が出てくるのが目に映った。

「おっ、おめーさんは…!」
「…ご、ごめんなさい…」

綺麗なサーモンピンクの髪色に、透き通るほど真っ白な肌が美しい女は、ホル・ホースが今まで見てきた女達の中で一人しかいない。
敵であるジョースター達と一緒に行動しているはずの彼女がなぜこんな所にいるのかと驚くホル・ホースの横で、名前の姿を目にしたDIOは愛おしそうに笑った。

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