小さな木の扉が開かれた窓から暖かな陽の光と、穏やかな風が真っ暗だった部屋へと入り込み、名前が着ているチャイナドレスの裾をひらひらと揺らした。

「………」

ひらりとドレスが風に大きく撫でられ、深いスリットから真っ白で美しい脚が足首から太腿まで大胆にも曝け出されてしまっているが、名前は気にする素振りを見せず、久しぶりに見た明るい空に眩しそうに目を細めていた。

「…承太郎、ジョセフおじいちゃん…みんな、」

館の最上階にある塔からカイロの地を見下ろした名前は、DIOが身を潜めるこの館を探しているであろう承太郎達の姿を思い浮かべる。

「…カイロに着いたんだね」

館の執事であるテレンスと、DIOの側近であるヴァニラ・アイスの承太郎達がカイロの地に到着したという会話を聞いてしまった名前は、彼らが無事に近くまで来ていることに嬉しそうにはにかんだ。
しかし笑みを浮かべたのも束の間、名前の表情は晴れやかな空とは真逆に、どんどん曇っていってしまったのだ。

「……決着の日は、近い…」

承太郎達は旅の目的なのだから当たり前にDIOを倒すため、この館へと向かって来ている。そしてDIOも彼の配下の者も当たり前に承太郎達を倒すため、この館で待ち受けている。そんな互いに闘志を燃やす者達が顔を合わせれば、壮絶な闘いが始まるのは火を見るよりも明らかであった。

「…どうしよう、」

今までの名前であれば大切な幼馴染みのため、祖父のため、仲間のために迷わずDIOと闘うだろう。しかしDIOの過去と想い、そしてこの世界で自分が生きているのは彼の想いがあったからだと知ってしまった名前にとって、もはやDIOは倒すべき相手ではなくなってしまったのだ。

「…DIO…、」

DIOが今まで行ってきた悪行の数々は許せるものではないし、肯定出来るものでもない。それは名前も重々承知しているのだが、自分をひたすら想ってくれていたDIOを、命の恩人とも呼べるDIOを敵と認識して闘えるほど、名前は強靭な精神を持ってはいなかった。

「…でも…、」

だからと言って名前は完全にDIOの味方になった訳ではない。
DIOが承太郎達を攻撃しようとすれば、名前は躊躇いなく彼らを守るために盾になるだろう。なぜなら承太郎達には絶対に死んでほしくないからだ。

「……承太郎…、」

陽の光を浴びてきらりと光る指輪を見た名前は、それを贈ってくれた承太郎の温もりを思い出そうと、ぎゅっと目を瞑った。

「名前様」
「!」

しかし背後から聞こえてきた声に名前はすぐに目を見開くと、慌てて後ろを振り返る。

「…ア、アイスさん…」

驚きに開かれた名前の蒼い瞳に映ったのは、塔に続く階段を上り切った所に佇むヴァニラ・アイスであった。
ヴァニラ・アイスは何を考えているのか分からない程の無表情で名前を見ると、「あまり窓を無暗に開けるのは感心しません」と淡々と告げた。

「…あ、あの…これは、少し外を見たくて…」
「DIO様のお体には日光は毒です。それに名前様のお体にも障りますので、今後は控えて頂けるようお願いします」
「っ、ご…ごめんなさい…!」

無表情ながらも鋭いヴァニラ・アイスの視線に、名前はたじろぎながらも急いで木の扉を閉める。すると塔にある部屋は忽ち暗闇に包まれ、名前の視界は黒一色に染まった。

「DIO様が探しておられましたよ。今は主寝室でお待ちになっておりますが」
「…い、今すぐ戻ります…」

名前の返事を聞くや否や一礼をしたヴァニラ・アイスは、もう用はないと言うように颯爽と階段を下りて行ってしまった。

「っ、…はぁ…」

妙な威圧感から解放された名前は大きく息を吐き出した。
執事のテレンスは名前にもDIOと同じように物腰柔らかく丁寧に対応するのだが、DIOに凄まじい程の忠誠心を誓うヴァニラ・アイスは、自分が崇拝するDIOに寵愛されている名前に少しだけ当たりが強い部分があったのだ。そのため名前は少しだけヴァニラ・アイスのことが苦手なのである。

「……」

名前はもう二度と開けられないであろう塔の窓にちらりと視線を向けると、コツリとヒールの音を響かせながらDIOが待つ主寝室へと行くため階段を下りた。


* * *


ルクソールではジョセフとアヴドゥルが『バステト女神』のスタンドを持つマライアに、承太郎とポルナレフが『セト神』のスタンドを持つアレッシーに同時刻且つ、別の場所で襲われる事態が発生したが、彼らは持ち前の頭脳と度胸を生かしてそれぞれ無事にスタンド使いを倒すことが出来た。
そして日本から約三万キロ、ようやくカイロの地に足を踏み入れた承太郎達は、DIOの館がある場所の情報を賭けて『オシリス神』のスタンドを持つダニエル・J・ダービーと賭け勝負をしたのだが、結局勝負に勝ったにも関わらず承太郎の圧によりダービーは気を失ってしまい、館の場所とDIOのスタンドの秘密は分からずに終わってしまったのだった。

「わしは40年もこのカイロで屋根の修理をしとるけど知らんねえ、こんな館は…」
「………」

建築物に詳しい大工ならこの館の場所が分かるのではと屋根の修理をしていた男に望みをかけたポルナレフが、ジョセフの念写によって写し出されたDIOの館の写真を見せるが、男は難しそうな顔で頭を搔くだけであった。

「…でも建物の雰囲気だと建てられたのは百年以上も前だにゃ。ということはこの辺りから南の方を探していけばいずれ見つかるよ」

苦い顔をするポルナレフに大工の男は参考にならなくて悪かったと謝り、渡されたDIOの館の写真を返した。

「いや……ありがとよ、邪魔したな…」

ポルナレフは男から写真を受け取ると腰のポーチに仕舞い、カンカンと甲高い音を立てて梯子を降りていく。
気持ちとは裏腹にとんっと軽やかに地面に足を着いたポルナレフは、自分と大工の男のやり取りを神妙な面持ちで見守っていた承太郎達に、ダメだったと首を横に振って見せた。

「………」
「…何か感じるんじゃ、この近くだ…」

しかし、また空振りだったと悔しそうにするアヴドゥルとポルナレフの横で、承太郎とジョセフだけはDIOの気配を感じ取っていた。
それはやはりDIOの首から下が自分達の祖父であり、先祖であるジョナサン・ジョースターの体だからであろうか。

「この近くにやつが潜んでいる感覚がする」

カイロを歩き回ってみて今まで一番強く感じるDIOの悪の空気に、ジョセフは自分達がいる場所から近い所にDIOの館はあると確信を得ていた。

「………」

絶対にこの近くにいると言い切るジョセフを余所に、自分の祖父と同様に全身でDIOの気配を強く感じ取っている承太郎は、彼が持つには可愛らしすぎる番傘をぎゅっと力強く握りしめた。

「…名前、」

この番傘の持ち主である名前は自分のすぐ近くにいる。もう少し、あと少しで彼女が囚われている館に手が届きそうなのに、その後一歩が何者かに邪魔されているように届かない。
そんな苛立ちを覚えるようなもどかしさに、承太郎はギリッと奥歯を噛み締めた。

 ――……承太郎…。

「っ、…名前…!」

不意に鼓膜を揺さぶった自分の名を呼ぶ聞き慣れた声に、承太郎は勢いよく辺りを見渡した。
しかしどれだけ注意深く周りを見ても、求めていた名前の姿はどこにも存在していなかった。

「…どこにいんだよ…っ」

確かに聞こえてきた名前が寂しそうに自分を呼ぶ声に、承太郎は憎いくらい清々しく晴れた空を睨みつける。そんな承太郎の背後に他の建物に隠れるようにして建つ一邸の館があった。

「行くぞ承太郎……聞き込みを続けよう」
「……ああ、」

ジョセフに声を掛けられ帽子の鍔を深く下げた承太郎は知らない。その館の最上階にある塔の窓が、真っ白な手によって閉められたことを。


* * *


カイロには有名で歴史ある遺跡や建築物が幾つも存在している。
ギザのピラミッド然り、アズハル・モスク然り、アブディーン宮殿然り。他にも挙げていけばきりがない程観光名所がたくさんあるカイロは、いつも様々な国から訪れる観光客で大層賑わっていた。

「わあっ…!」

そんな観光客やカップル達で賑わう、ナイル川に浮かんだゲズィーラ島にあるカイロタワー。
高さが187mもあるそのタワーの展望台に、目をきらきらと輝かせた名前の姿があった。

「すごいきれ〜!」

眼前に広がるカイロの夜景に名前は何度も「凄い」と「綺麗」の二つの単語を繰り返し、身を乗り出しそうな勢いで街を見下ろしていた。

「名前、あまり身を乗り出すなよ」

展望台に出た途端子供のようにはしゃぎ、駆け出して行った名前の後を悠然と歩いて追い掛けるDIOは「落ちたら俺が困る」と名前の背中を見つめながら苦笑を漏らした。

「DIOも早くおいでよ!」

背後から聞こえてきたDIOの優しい声に振り向いた名前は、満面の笑みを浮かべてゆっくりと自分の方へ向かって歩いてくるDIOに手招きをする。

「ふふ、そう急かさんでもすぐに行く」

互いの過去の話をしてから大分心を開いてくれた様子の名前に嬉しそうに口角を上げたDIOは、可愛らしい笑みに誘われるように名前の隣へと身を寄せた。

「見てみてDIO!」
「ん?」
「あそこの橋、光の道って感じですごく綺麗じゃない?」

隣にDIOが並んだ途端とある一点を指差した名前。そんな彼女の指先に釣られるようにゆっくりと視線を動かしたDIOは、映り込んできた景色に「なるほど…確かに光の道だな」と目を細めた。
名前とDIOの視線が向いている先には『10月6日橋』という、カイロ県内の様々な場所に繋がっている大きな高架道ハイウェイがあった。人口の半分以上の人間が利用しているという橋は、夜になっても数えきれない程の車が行き通っているようで、その何台もの車のヘッドライトによって名前の言う通り光の道が出来上っていたのだ。

「ここでしか見られぬ光景だな」

何度かカイロタワーに訪れたことはあったが、展望台に登ってこうもしっかりと夜景を見ること自体初めてだったDIOは、想像以上の美しさに感嘆の息を吐く。
偶にはこうしてゆっくりと景色を眺めるのも悪くはないと珍しい気持ちに駆られるDIOの横で、名前は嬉しそうに「こんなに綺麗な景色初めて見た!」と声を上げながら辺りを見渡していた。

「あれが博物館かな? それともあっち?」

まだまだ眠らないカイロの街は夜でも点灯している照明のおかげで、はっきりと建築物を確認することが出来る。
そのため名前はにこにこと楽し気に、他の観光名所を見つけ出そうとしていた。

「ねえDIO! DIOはどこにあるか分かる?」

自分よりもカイロに詳しいであろうDIOと一緒に探そうとしているのか、名前は景色から目を離さず隣に立つDIOの手を掴み、くいっと引っ張った。

「………」

名前にとっては何気ない行動だったかもしれないが、初めて彼女から触れられたDIOはじっと自身の手を掴む名前の白い手を、愛しさを孕んだ熱い瞳で見つめる。
そしてきゅっと一回りも小さい名前の手を握りしめたDIOは、一言一言噛み締めるように彼にとって何よりも大切な女性の名を呼んだ。

「どうし―――」

振り向いた名前の「どうしたの?」という言葉は最後まで声にならず、先程まで夜景を映していた蒼い瞳は零れ落ちそうな程大きく見開かれた。

「(…な、に……?)」

突然視界いっぱいに広がった金糸と端正な顔、後頭部に回された大きな手、そして唇に伝わる柔らかく少し冷たい感触に、名前は何が起きたのか分からないでいるようだった。

「……」

目を大きく開けたまま微動だにしない名前に、DIOは触れていた彼女の唇から少しだけ離れると、吐息を吐くように「名前」と囁いた。

「っ、ぁ…D、DIO…っ、」

DIOの形の良い薄い唇から吐き出された息と自分の名に、名前はびくっと肩を跳ねさせる。
ゆらゆらと戸惑いと羞恥心に揺れる名前の蒼を見たDIOは、後頭部に回した手をするりと赤らんだ頬に滑らせ、甘く蕩けた琥珀を細めた。

「何をそんなに身構える必要がある?」
「…そ、れは…」
「案ずるな。お前は俺に身を委ねていればいい…」
「っ、…DI、O…」
「愛しているぞ、名前」

夜景と展望台という雰囲気のある景色と場所がそうさせているのか。
今まで聞いた中でも特別に甘く、蠱惑的な愛の言葉に、名前はDIOに言われた通りゆっくりと瞼を閉じていった。

「……素敵、」

幻想的な夜のカイロの街を背にし、熱い口付けを交わす見目麗しい青年と可憐な娘に、周りに居合わせた者達の見惚れた溜息が響いた。

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