ナイル川の底に明らかに自然ではなく、人口的に作られた砂のシェルターが一つ、その存在を主張していた。
顔のような模様があるシェルターは呼吸が出来るように二本の管が水面から出ており、そのシェルターの中には一匹のボストンテリアが身体を縮こませ、静かに身を潜めていたのだ。
小さな体をぶるぶると震わせ、汗をたくさん流し、ぎりぎりと歯を食いしばるそのボストンテリアの左前足は、何か鋭利なもので切られたのか無くなってしまっていた。

「もう許さんからなッ! この借りは必ず返してやるぜ!」

そう言いた気な鬼気迫る表情でシェルター越しにカイロの空を睨み付けるボストンテリア。
そんな彼の大きな耳に、ドボンと水中に何かが飛び込んだ音が聞こえてくる。
飛び込んだ何かはそのまま水中を進んで真っ直ぐ自身の元へやって来ていると聴覚で感じ取ったボストンテリアは、咄嗟にシェルターの奥の方へと体を移動させる。すると――。

「うおおおおッ!!」

ついさっきまでボストンテリアが身を置いていた場所に、先端が鋭く尖った大きな氷が突き刺さったのだ。
驚愕に目と口をかっ開くボストンテリアだったが、氷柱の次に自身の目に映り込んできた『一匹のハヤブサ』に息を飲んだ。

「ニギギイイ」

水中に飛び込んで来たそのハヤブサは、動揺しているボストンテリアに猛禽類特有の鋭い目を向けると、硬い嘴をにたりと歪めた。


* * *


ぱちりと目を開いた名前が最初に捉えたのはナイル川でもなく、ボストンテリアでもなく、ハヤブサでもない、真っ暗な闇であった。

「…ゆ、め…?」

もはや慣れてきてしまった暗闇の中に、これまた見慣れたベッドに付いている天蓋を確認した名前は、今まで見ていたのは夢だったのかとほっと胸を撫で下ろす。
しかし、夢だと分かった今でもあまり気分の良くないその内容に、名前は自身の目元を腕で覆った。

「…あれは、イギーだった…よね、」

夢に出てきた黒と白が特徴の左前足を無くしたボストンテリアは、紛れもなくエジプトに着いてから助っ人として旅の仲間になったイギーだった。
そして驚愕しているイギーを見て、まるで人間のように意地悪く笑っていたのは、DIOがいる館の門番をしている番鳥『ペット・ショップ』であった。

「なんであんな夢…」

一匹の犬と一羽の鳥による壮絶な闘いの夢という、普段では絶対に見ることのない生々しい夢に、名前は妙な胸騒ぎを感じていた。

「…まさか…!」

本当にイギーに何かあったのではと、あの夢は虫の知らせなのではないかと大きな不安に駆られた名前は、ベッドから降りようとシーツを剥いだ。その瞬間――。

「っ、ひぇっ…!」

シーツを剥いで体を起こす。時間にしてたった数秒の動作をしただけの名前の前に、今までこの場にいなかったものが突然姿を現した。

『……』
「な、なに…?」

名前の目の前に現れたもの。それは全体的に黄金色をした、逞しい体つきの人間型のスタンドであった。

「…も、もしかしてDIOの…?」
『……』

顎に着いたハート型の可愛らしい装飾品とは裏腹に、三角形のマスクのようなものから覗いている視界に映す者を射抜くような紅い瞳にじっと見下ろされた名前は、無意識にごくりと固唾を飲み込む。
人語を話せないので当たり前なのだが何も喋ってくれないスタンドと彼の熱視線に、思わず名前がベッドの上で後退りをすると、にゅっと背後から太い二本の腕がお腹へと回された。

「!」
「どこへ行こうとしている?」

がっちりと回された腕と鼓膜を揺さぶる低い声に名前は「…DIO…、」と、隣で静かな寝息を立てていた男の名を呼んだ。

「ご、ごめんね…起こしちゃった…?」
「私はどこへ行こうとしているのかと聞いたのだが?」
「…っ、」

昨夜の恋人とのひと時を過ごす男のような甘い雰囲気とは違う、全ての人を支配する帝王のような威厳を真後ろで放つDIOに、名前はさあっと血の気が引いていく感覚に襲われた。

「名前」
「っ、お…お腹が空いたから!」
「……」
「だからっ、テレンスさんに朝ご飯お願いしようかなって思って!」

ちょうどお腹に回されたDIOの腕に触れながら「ほら、夜兎って燃費悪いからっ!」と、名前は何とか笑みを浮かべて顔を後ろに向ける。

「ほお…? 腹が減ったからテレンスの所に行こうとしてた、と…」
「う、うん…!」
「それにしては随分と慌てているように見えたが」
「そう、かな…」
「てっきり私はジョースター共の元へ行くのかと…思ったんだがな」
「!」

いつの間にか消えてしまっていたスタンドと同じ、射抜くような紅い瞳で捉えられた名前は、蛇に睨まれた蛙の如くぴたりと動きを止める。

「図星のようだな」
「っ、ちが…っ!」

ふんっと鼻で笑うDIOに思わず言い返そうとした名前だったが、彼女がイギーに何かあったのではと直感的に思い、承太郎達を探しに行こうとしていたのは事実であった。

「お前は本当に笑えるくらい分かりやすい」

この館に来てから「名前のことなら読めて当然」と言っていた通り、完全に名前の思考と行動を見透かしていたDIOは、彼女の行く手を阻むようにスタンドを出したのだった。

「ち…違うの…っ! 別に逃げようとしたんじゃなくて……私はただイギーが…っ!」

連れて来られた当初のような「逃げなくては」と言う思いは、この時名前の中には芽生えていなかった。ただ純粋にイギーが、仲間が心配になり少しだけ様子を見に行こうとしていただけなのだ。
しかしいくら弁明したところでDIOの言っていることに間違いは一切ないし、疑いの眼差しを向けてくるDIOにとっては言い訳にしか聞こえないだろう。

「…っ、…」

きっと今のDIOに何を言っても信じてくれないだろうと名前は口を噤み、冷たい紅い目から逃れるように顔を逸らした。
しかし、どうやらその行動がDIOの中に巣食う強い執着心を炙り出す引き金になってしまったらしい。

「――お前はこのDIOのものだ」
「! いっ…!?」

息が苦しくなる程の重い空気が漂う主寝室に突如として一際低く唸るような声が響いたかと思えば、ぶつりと名前の首筋にDIOの鋭く尖った二本の犬歯が突き刺さる。
肉を裂く痛みに名前は「やっ、やめて…!」と咄嗟にDIOから離れようとするが、いつの間にか体に絡み付くように回されていた腕によって動きを制限されてしまっていた。

「お願いDIO…やめてっ、」
「名前の体も、名前の心も、名前に流れるこの血も……全て私のものだ」
「…っ!」
「二度も奪われて堪るかっ、」

脳裏に過った名前の幼馴染みである承太郎の顔を振り払ったDIOは、指先で吸血をしてきた食料の女達には絶対にすることのない、優しい舌使いで真っ白な首筋から流れる紅を丁寧に舐め取っていく。
舌触りのいい名前の血は今まで味わってきた生き血など比べ物にならない、高級ワインですら霞むほど甘く芳醇な物であった。

「…んっ、D…DIO…ぁ、」
「っ、は…」

傷口に舌を這わせる度に痛みと小さな快感から漏れる、名前の鼻に抜けるような声を聞きながら、DIOは初めて自身の牙と舌で目の前の真っ赤な美酒を味わっていた。

「…っ、」

愛する者のこの世の何よりも美味な生き血を口にして心も体も潤ったはずのDIOだったが、名前の首筋に顔を埋めた彼の表情は、なぜだか悲しそうなものであった。

「どこにも行くな…っ」

 ――俺から、離れるなよ。

「…!」

首筋に顔を埋めて弱々しく、そして悲しそうに呟くDIOが、名前にはいつの日かの承太郎と酷く似ているように見えた。

「……ごめんねっ、」

はたして承太郎とDIO、どちらに対しての言葉なのか。
――それは名前自身にも分からなかった。


* * *


「まったく今日は厄日だぜッ! 前足は切断されるし、あの鳥公は強すぎるしよォーッ!」

自由気ままにカイロの街を一匹だけで歩き回っていたイギーは、偶然承太郎達が探し求めていたDIOの館の場所に辿り着いてしまった。
しかし元々無理やりNYからエジプトへと連れて来られたイギーにとって、DIOという人物はどうでもいい存在であった。そして名前のこともいい匂いのする抱かれ心地のいい女としか思っていなかったため、イギーは館の場所を素通りするはずだった。だったのだが――。
犬として生きている以上は犬好きの少年を見捨てることなど出来る訳もなく、DIOの館の門番を務めるペット・ショップに殺されそうになっていた少年を助けたのだ。
それを機にイギーはペット・ショップから敵と認識されてしまい、左前足を失ってしまうまでの壮絶な闘いを繰り広げることになってしまったのだった。

「じ…地面を掘って逃れるしかないッ!」

ナイルの川底に砂のシェルターを作り身を潜めたはいいが、執着とも言えるペット・ショップの追跡力の前では無意味な行動だったらしい。見事に隠れていた場所を割り出されてしまったイギーは、氷の圧力によってシェルターごと押し潰されそうになっていた。
一刻も早くこの場から逃げなくてはと残った一本の前足で必死に穴を掘っていくが、驚くことに地面はすぐに掘り終わってしまった。

「な…なんだ!? いきなり中に空洞があるぞッ!」

なぜ川底に空洞がとイギーがひょこっと穴の中を覗き見ると、そこにはイギーに反撃されて右翼を失ったペット・ショップの姿があった。

「鳥公だァーーッ!!」

ペット・ショップはイギーと目が合った途端嘴をガパッと大きく開くと、止めを刺すと言わんばかりに口内で氷のミサイルを作り始めた。

「やばいッ! オレの『愚者』は後ろだッ! 防御するヒマも、逃げる道もッ…ない!」

目の前には今にもミサイルを発射しようとしているペット・ショップが、後ろには細長い穴しか広がっていないため絶体絶命の窮地にイギーは立たされていた。

「! (そうだッ、これをやるしかないッ! やらなきゃやられるッ!)」

覚悟を決めたイギーは氷の圧に耐えようとしていた『愚者』をわざと消すと、潰れた瞬間に生じる空気圧を利用し、それこそミサイルのようにペット・ショップへと向かって行った。

「あああああ!!」

そして口を大きく開いて牙を剥きだしにしたイギーは、口内に作り上げられた氷のミサイルごとペット・ショップの硬い嘴に噛み付いた。

「ぎゃあああァァーーッ!」

イギーに嘴を閉じるように噛み付かれたことにより出口を失った氷のミサイルは、ペット・ショップの口内で爆発してしまったのだった。

「や、やった…やっつけたぞ鳥公め…ざまあみろ、」

爆発によって起こった激しい水流に呑まれ水面に浮き上がったイギーは、沈みかけの太陽を見上げながら得意気に口角を上げる。
しかし長く続いた闘いによって前足を失い、体中傷だらけになり、体力も底をついてしまったイギーに川岸まで泳げと言うのは無理な話で。

「なんのトラブルもない…人生を送るはずだったのに……ちくしょう、ミスったぜ…」

ぴくりとも動かなくなってしまったイギーの体は、ナイル川にどんどん沈んで行ってしまう。

「………」

ブクブクと小さな気泡を吐き出しながら己の死を受け入れようとするイギーに、きらりと光る指輪をした白い手が伸ばされた。


* * *


「……全く、」

青々とした芝生の絨毯と汚れのない白い石畳のコントラストが美しい庭に、赤黒い液体が意味のない模様を新たに作り出しているのを発見したテレンスは、大きな溜息を吐き出した。

「少しは掃除する身にもなってほしいですね」

門番のペット・ショップによって汚された石畳と、オブジェのように置かれた二匹分の犬の頭をこのままにしておく訳にはいかず、テレンスは「これだから鳥頭は…」と悪態を吐きながら掃除をしようと手袋を填める。

「……どうぞ」
「おや、気が利きますね」

手袋を填め終わったタイミングで横から手渡されるデッキブラシに、テレンスは「ありがとうございます」と口角を上げてそれを受け取る。
しかし聞こえてきた女性の声と、滅多にお目にかかれない程透き通る白い肌に気づいたテレンスは、ぴしりと石像のように動きを止めた。

「………」

ギギギ…、と油の切れたブリキ人形のように首をゆっくりと手が伸びてきた方へ向けると、そこには大雨に打たれたかのように全身ずぶ濡れになった名前の姿があった。

「名前様ッ!?」

館の敷地内と言えど一人で外にいることに、そして長い髪やチャイナドレスの裾からポタポタと水滴を垂らしている名前の姿に目を見開くテレンスだったが、やはりそこはDIOにも認められている仕事の出来る執事。
彼はすぐさま自分の上着を脱ぐと、名前の体を包み込むようにして羽織らせた。

「お体が冷えたら大変ですっ!」

カイロは冬季に入っても比較的暑い日や暖かい日が多いが、夜になるとぐっと冷え込むこともざらである。陽が沈みかけている現在も日中と比べて気温が下がってきているため、テレンスは「早く温かいシャワーを!」と館の中へと連れて行くために名前の背に手を添えた。

「………」

しかし名前はその場に足が縫い付けられてしまったかのように一歩たりとも動かず、ただただ自身の髪の毛から垂れる水滴が石畳に吸い込まれていくのを見つめていた。

「名前様?」
「……私、承太郎が好きなんです…」
「!」

全く動く気配のない名前を心配して髪で隠れてしまった彼女の顔を覗き込もうとしたテレンスの耳に、思いもよらない一声が届いて来た。
あまりにも突然過ぎるカミングアウトにテレンスが大きく目を見張っていると、名前は「ジョセフおじいちゃんも…典明も…」と、ぽつぽつとジョースター一行の名を呟き始める。

「アヴドゥルさんも、ポルナレフも、イギーも……みんな好きなんです」
「……」
「…とても大切な人達なんです……だからみんなが傷つくところは見たくないんですっ、」

左前足を失い、体中に傷をつけ、川に沈んでいくイギーの姿を思い出した名前はぎゅっと目を瞑り、羽織っているテレンスの上着を掴んだ。

「っ、でも……私はっ、DIOが傷つくところも見たくないんです!」
「! …名前、様…」
「…好きかどうかと聞かれれば私自身もよく分からないし、DIOが今までしてきたことは許せることじゃない…だけど…、」

 ――どこにも行くな…っ。

「っ、…あんなに悲しそうにしているDIOを放っておくことなんて私には出来ないっ!」

昼間にDIOから無理やり吸血された名前は無断で館を抜け出してイギーを助けた時、そのまま承太郎達の元へ戻ろうと考えていた。
だがDIOの今にも泣き出してしまいそうな声と、冷たい体温をどうしても忘れられなかった名前は、制止の声も無視してここへ帰って来てしまったのだった。

「…っ、もう…私は自分が何をしたいのか分からないんです…」

承太郎が…ジョセフ達が大切だと言っておきながら、今の自分は彼らを裏切る真似をしているのと何ら変わらない。それでも本来倒すべき相手であるDIOのことが放っておけないのだ。
しかしこの世界よりも戦が多かった時代と世界で生きていた名前は、命を懸けた闘いというものには『勝者』と『敗者』の両者が存在することを誰よりも知っていた。
必ず訪れる決着の時までどちらを選ぶか決めなければいけないと、名前は悲痛な面持ちでテレンスに自身の思いを吐き出した。

「私はDIO様にお仕えしている身ですので、承太郎やジョースター共には何の思入れもありません。だから迷うことなく彼らを打ちのめすでしょう」
「…っ!」

DIOのカリスマ性に惹かれて自ら彼の下に就き、執事まで任される立場になったテレンスには、当たり前だがDIOのために承太郎達を倒すという一つの選択肢しかないのだ。
淡々と話すテレンスにやはり話す相手を間違えたかと名前が俯いていると、「ですが…これはあくまでこの館の執事としての意見です」と笑う声が聞こえてきた。

「ここからは一人の男としての意見ですが……何も無理やり一つに絞ることはないんじゃあないですか」
「…え…?」
「確かに目の前に欲しいものが二つあったらどちらか一つを選ばなければいけない、そう思うのは普通のことだと思います。きっと大多数の人がそうでしょう」
「……」
「しかし…私は目の前に欲しいものがあれば両方選びますね」
「!」

話の根本を覆すような意見に名前が目を丸くすると、テレンスは「こう見えても結構強欲ですので」と笑いながら肩を竦める。

「で、でも…それだと…っ」
「ええ、名前様の仰りたいことは分かりますよ。二つとも選べば欲張りだの、意地汚いだのと他人からはあまり良い印象を受けません」
「…っ、だったら…」
「ですが、所詮他人は他人です。私は自分が欲しいと思ったから選んだのです。自分で決めたことなので何と言われようが気にしません……それが例え家族や友人に言われたとしても」
「!」
「DIO様からお聞かせ頂いていた通り、名前様は良くも悪くも他人を気にし過ぎです。偶には他人を気にせず自分の思うままに行動するのもいいのでは?」
「…自分の、思うままに…」

言葉を覚えようとするオウムのようにゆっくりと反芻する名前に、テレンスは「あなたのような可愛らしい女性が掌で男を転がすところを見てみたいものですね」と冗談っぽく笑った。

「…テレンスさん…!」
「はい?」
「ありがとうっ!」
「…おや」

どうやら自分は彼女の悩みを解決してしまったらしいと、テレンスは満面の笑みを浮かべる名前を優しい表情で見下ろした。

「DIO様なら書庫室にいらっしゃいますよ」
「!」
「きっと名前様を心待ちにしているかと」
「っ、行ってきます!」

仕事の出来すぎる執事によっていつもの明るい笑みを取り戻した名前は、軽くなった足取りで館の暗い廊下を駆ける。

「いた…!」

そしてテレンスが言っていた通り、扉が開いたままの書庫室に闇の中でも輝く金色を見つけた名前は、彼の名を呼びながらその逞しい背中に思い切り飛びついた。

「! ……名前…?」

珍しく丸くなっているDIOの琥珀色の目とかち合った名前は、ぎゅっと大きな体躯の割には細い腰に腕を回して「ただいま!」と、DIOが好きだと言っていた笑みを向けたのだった。

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