一台のタクシーが大きな鉄塔を通過した直後、今まで無音を貫き通していたラジオからザザッとノイズが走り出し、やがて静寂に包まれていた車内には軽快な音楽が流れ始める。

「おっ、入った入った」

突然聞こえてきた今流行りの洋楽に「大体あの鉄塔過ぎると入るんですよ」と、運転手はルームミラー越しに後部座席に座っている一人の男にちらりと視線を向けた。

「お客さん、杜王町は初めてですか?」
「……ああ。どんな町だ?」
「杜王町ですか? んー……ああ! 牛タンの味噌漬けが美味いっすよ」
「…何か変わったこと、事件とかは?」
「さあ…、」

男の質問に首を傾げた運転手は「実はそんなに詳しくないんですよ」と、申し訳なさそうに笑って首の後ろを掻いた。

「ああ、ええっと…どこでお停めすればいいんでしたっけ?」
「……いや、駅前でいい」
「かしこまりました」

改めて行き先を運転手に告げた男は長い脚を組むと、懐から数枚の写真を取り出す。
そしてその写真に写っている『もの』を一瞥した男は、小さな溜息を漏らした。

「やれやれ……面倒くさいことにならなきゃいいがな」

そう呟いた男の白い帽子の鍔先から覗いた翠色の瞳は、豊かな自然が溢れる窓の外へと向けられたのだった。


* * *


「(…今日から高校生かぁ…)」

ぱりっと糊の利いた真新しい学生服を身に纏った少年―広瀬康一は、今日から始まる新生活に胸を躍らせながら駅前の広場を歩いていた。

「(…どんな人がいるんだろう)」

まだ見ぬクラスメイト達や上級生、そして教師陣を想像して少し緊張気味に歩く康一はどうやらあまり前方に注意が向いていなかったようで、どんっと固い何かにぶつかってしまった。

「うわっ!」

同年代の少年達よりも小柄な康一の体はぶつかった反動で盛大によろけ、持っていた鞄も宙に放り出されてしまう。
ペンケースやノートが開いていた鞄の口から飛び出していく中、康一は次に襲い来る衝撃に備えてぎゅっと目を瞑った。しかし――。

「……え!?」

不思議なことに康一の体は何事もなかったように片手に鞄を持ちながら、しっかりと地に足を着けていたのだ。

「あ、あれ!? おかしいな…今ぶつかって転んだと思ったのに……鞄の中身も、」
「余所見しててすまなかったな」
「!」

困惑気味に自分の体や鞄を見ていた康一は、頭上から聞こえてきた男の声にぱっと顔を上げるが、思っていたよりも高い位置に男の顔があったことに驚いて目を見張った。

「(で、でっけぇ〜〜っ! 190以上はあるぞっ!)」

あまり自分の周りにはいない高身長の男に康一が呆気に取られていると、地図を片手に持った男は丁度いいとばかりに「一つ尋ねたいんだが…」と康一を見下ろした。

「この町で『東方』という姓の家を知らないか?」
「『東方』……? さあ…、」
「ならば住所ならどうかな?『定禅寺1の6』なんだが…」
「(…空条、承太郎…)」

取り出された手帳の裏に綺麗な字で書かれている男の名前をぽけーっと見ていた康一は、男の視線にはっと我に返ると「定禅寺なら…!」と一つのバス停を指差した。

「あそこの三番のバスに乗れば行けます! ちょっと待ってればすぐに来ると思いますよ!」
「ありがとう」
「(…なんか、ワイルドで迫力あるのに知的っていうか……かっこいい…!)」

着る人を選びそうな白いロングコートを見事に着こなしている承太郎を、康一がきらきらとした眼差しで見つめていると、突然背後から「こらっ!」とドスの効いた声が響いてきた。
慌てて康一が後ろを振り返ると、そこにはいかにも不良ですといった出で立ちの男が数人立っており、その男達は同じ高校の学生服を着ている康一見るや否や「挨拶せんかいッ!」と言い放ったのだ。

「はっ…はいッ! 新入生の広瀬康一です! おはようございますです先輩ッ!」
「よしッ! いい声だッ!」

直角に頭を下げて大きな声を張る康一に、不良達は満足そうにこの場を離れていく。
そんな不良達の背中を承太郎が帽子の鍔先の影に隠れた目でじっと見つめていると、康一が不良達に聞こえない小さな声で「大丈夫ですよ」と囁いた。

「あの人達は違うバスに乗りますから」

要らぬ気遣いではあるが、親切に不良達とは違うバスだということを教えてくれる康一に、承太郎はちらりと視線を向ける。
しかし再び聞こえてきた「何しとんじゃ貴様ァッ!」という怒鳴り声に、承太郎の視線はその方向へと向けられた。
向いた先にはやはりと言うべきか先程の不良達がいて、彼らは噴水の近くにしゃがみ込んでいる一人の少年を取り囲んでいるようだった。

「なんのつもりだ貴様ッ!」
「なにってその…この池のカメが冬眠から覚めたみたいなんで見てたんです」

不良達に囲まれた少年は池の縁にいるカメをちらりと見ると、実はカメが苦手で触るのも恐ろしいのだと苦笑を浮かべた。

「その怖さ克服しようかなァ〜と思って」
「……なこたァ聞いてんじゃあねーッ!」
「立てボケッ!」
「………」

恐る恐るカメの甲羅に触れようとしていた少年は不良達の声に一瞬眉を顰めるも、立てという指示に素直に従いゆっくりと立ち上がる。
立ち上がった少年は高校一年生にしては随分と身長が高く、そのことにリーダー格の不良は少なからず関心を持つが、少年が着ている改造された制服を見て「けどなァ…」と眉を吊り上げた。

「そんな生意気な恰好する前にまずは! わしらに挨拶がいるんじゃあッ!」
「ちょっ…ちょっと爬虫類って苦手で…っ、」

苦手なカメを鷲掴んで突きつけてくる不良に、少年はひくっと頬を引き攣らせながら「こ…怖いです〜」と両手を前に出して少し仰け反る。
しかしそれがどうもいけなかったようで、少年は何をニヤついているんだとキレた不良によって頬を打たれてしまった。
つう…っと少年の口端から流れる血に、成り行きを心配そうに見ていた康一は「あっ!」と小さな声を上げる。

「ごめんなさい。知りませんでした先輩」
「知りませんでしたと言って最後に見かけたのが病院だったってヤツぁ何人もいるぜ……てめーもこのカメのように…してやろうかコラッ――!」

少年を脅すように声を上げた不良は、あろうことか掴んでいたカメを近くの柱へと思い切り叩きつけたのだ。
砕けた腹甲から血を流し痙攣しているカメを目の当たりにした康一は最低と不良を批難するが、不良に頭を下げた少年はただそのカメをじっと感情の窺えない瞳で見つめていた。

「今日のところは勘弁してやる。その学ランとボンタンを脱いで置いていきなッ!」
「それと銭もだッ!」
「はい! すみませんでした!」

再び不良達に謝り素直に制服を脱ごうとする少年を戸惑った様子で見つめる康一の隣で、承太郎は「目ェつけられるのが嫌なら、あんな格好をするなってことだ…」と淡々と言い放つ。

「…あ…、」
「逆にムカつくのは、カメをあんな風にされて怒らねえあいつの方だ」

冷めた目で頭を下げたまま制服に手を掛ける少年を一瞥した承太郎は、もう用はないとでも言うようにその場を去ろうと歩を進めた。
しかし不良達に名前を聞かれた少年が「一年B組、東方…仗助です」と名乗ったことで、承太郎は驚いて振り返ることとなる。

「なにィ…東方仗助……!」

まさか不良達に絡まれている少年が目当ての人物だとは思いもしなかった承太郎は、驚愕に見開かれた目で『ジョジョ』というあだ名をつけられている仗助を見る。

「仗助! これからてめーをジョジョって呼んでやるぜ!」
「はあ…ありがとうございます」
「コラ! さっさと脱がんかいッ! バスが来ちょったろがッ! チンタラしてっとそのアトムみてーな頭も刈り上げっど!」
「……おい、先輩…あんた…今俺の頭のことなんつった!」

リーダー格の不良の言葉に制服のボタンを外す手を止めた仗助は、今まで素直に従っていたことが嘘のように鋭い眼差しで目の前の不良を睨み付ける。

「え?」
「!」

突然ガラリと雰囲気の変わった仗助に不良達や康一が呆気に取られている中、承太郎の目には仗助の背後で蠢く半透明の影が映り込んだ。

「(なにッ! スタンド!)」

右腕だけを出した仗助のスタンドは目にも留まらぬ速さで不良の顔面を殴ると、すっとそのまま静かに姿を消した。

「は、鼻がッ!」

殴られた不良はどうやら鼻の骨が折れてしまったらしく、吹き飛ばされた先に蹲りながらボタボタと血が流れる鼻を涙目で押さえている。
そんな不良にゆらりと近づく影が一つ。

「俺の頭にケチつけてムカつかせた奴は何モンだろうと許さねえ! このヘアスタイルがサザエさんみてェーだとォ!?」
「え! そ…そんなこと誰も言って…」
「確かに聞いたぞコラ――ッ!」

頭に血が昇っている仗助は、追い打ちをかけるように不良の頭を足で踏みつける。
その様子を遠巻きに見ていた康一は、突然鼻から血を流して吹き飛んだ不良にこれでもかと目を丸くしていた。

「ふ、不良が勝手に吹っ飛んだッ!」
「(…今確かに、何らかのスタンドが背後から現れた!)」

見え方の違う康一と承太郎が仗助の一挙一動を注視していると、仗助はいつの間にか傷が治っているカメを優しく持ち上げ、池の中へと戻してあげていた。
そしてその後ろでも不思議なことは起こっており、仗助に殴られた不良の顔の傷が治り始めていたのである。

「なんだあ〜っ!? 今殴られた傷がどんどん治っていく!」
「もう治っちまったぞっ!」
「で…でもなんか変な感じに治ってないか? 前の顔と何か違うぞ!」
「う、うそ…どうなってんの? な、なあ…!」
「てめーのおかげで触りたくもねーのにカメに触っちまったぜ…」
「!」

殴られる以前の鼻よりも大分潰れたような鼻に変わった不良の背後に立った仗助は、まだまだ怒りの収まらない目で「そっちの方はどーしてくれるんだ? あ!?」と不良を睨みつける。
もはや恐怖によって威厳の欠片も無くなった不良達は、バスにも乗ることなく一目散にこの場から走り去ってしまった。

「やれやれ、こいつが…」

その情けない背中を見送った承太郎は小さな息を吐くと、同じように不良達の背をじっと見ている仗助へ近づいていく。
承太郎が近づく足音と気配に気づいた仗助が振り返り、宝石のような翠色と深い海のような碧色が交差し合う。しかし――。

 ――バシャ!

「おおあっ! びっくりしたァーっ!」
「………」

睨み合うようにしてかち合っていた二人の視線は、水の跳ねる音に驚いた仗助によってすぐに外されてしまった。

「なんだ…またカメか…」

承太郎に背を向けてまたもや池の中から出てきたカメを何とも言えない表情で見つめる仗助だったが、背後から聞こえてきた「東方仗助、1983年生まれ」という初対面の相手であれば普通知らないはずの自分のプロフィールに、再び承太郎へと訝しげな視線を向けた。

「母親の名は朋子。母親はその時21歳、東京の大学へ通っていた」
「………」
「生まれた時よりこの町に住んでいる…1989年、つまり5歳の時原因不明の発熱により50日間生死の境をさ迷った経験あり。父親の名前は…」

そこで一度言葉を途切らせた承太郎は、厄介な役目を担ってしまったことに内心で大きな溜息を吐き出してから「父親の名前は『ジョセフ・ジョースター』」と、仗助の目を見てはっきりと告げた。

「………」
「現在78歳。ジョースター不動産の創始者だ」
「(聞いたことあるぞ! アメリカのもの凄い不動産王だって…!)」
「奴はまだ元気だが、遺産を分配する時のために調査をしたら…なんと君という息子が日本にいることが分かった。じじい自身も知らなかったことだ…」

物心ついた頃から大人になった現在までひたすらにたった一人、名前だけを想い続けている承太郎にとって、愛する相手がいる中他の女性に手を出すという心理と行動は理解し難いものらしく、アメリカに残してきたジョセフの姿を思い出しては「あのクソじじい…」と心底軽蔑したように乱暴な言葉を吐き出した。

「『わしは生涯妻しか愛さない』などと抜かしときながら、てめーが62歳の時浮気してできた息子を…ここに今見つけたぜ」
「………」
「おっと…口が悪かったな…」

私情が入ったとは言え何も悪くない仗助に対する言葉遣いではなかったことを承太郎は詫びると、佇まいを直して自身の名を名乗る。

「俺の名は空条承太郎。なんつーか、血縁上はお前の『甥』ってやつになるのかな…奇妙だが…」
「『甥』? はあ……どうも」

いまいちピンと来ていない様子の仗助を横目に、昔から愛用しているタグホイヤーの腕時計に視線を落とした承太郎は、まだ少し時間に余裕があることを確認する。
しかし新入生の仗助と康一を早々に遅刻させる訳にもいかないため、承太郎は「歩きながら話そう」と白いコートを翻したのだった。


* * *


仗助が駅前広場にて不良達に絡まれている頃、杜王町定禅寺にある『東方』家では、仗助の母親である朋子の盛大な溜息が木霊していた。

「入学初日から忘れ物するってほんとないわ」

リビングのテーブルにぽつんと置かれていた仗助のペンケースを握りしめた朋子は、呆れたようにもう一度大きく深い息を吐き出すと、持っていたペンケースを申し訳なさそうに玄関に立つ一人の女性に手渡した。

「本当にいいの? あの馬鹿の確認不足なんだからわざわざ届けに行かなくてもいいのに…」
「ふふっ、やっぱり初日はちゃんとしておいた方がいいと思うので! それに…私朋子さんにも仗助にも良くしてもらってるので、これくらいはさせてください」

穢れの知らない真っ直ぐな蒼い目を向けながら、きゅっと何の変哲もないただのペンケースを大事そうに握る女性に、朋子は申し訳なさそうな顔から一転して「じゃあお願いするわ!」と、明るい笑顔を浮かべた。

「はい!」

朋子の笑顔に釣られらようにふわりと笑った女性は、傘立てに立ててあった大きな日傘を手に取ると、可愛らしく朋子に手を振ってから「行ってきます!」と外へと駆け出していった。

「…仗助に名前ちゃんは勿体なさすぎるわ」

ぽつりと呟かれた朋子の言葉は、ガチャンとしまったドアの音によってかき消された。

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