「――逢いたかった」

耳元から聞こえてきた微かに震えた声に覚えがあった名前はこくりと喉を鳴らすと、恐る恐る背後から抱きしめてくる相手の名を呼んだ。

「…DIO…?」
「…っ、…」

杜王町に来てからも何度か口にすることがあった男の名を呼んだ途端、背後にいる人物は名前の首元に顔を埋めたまま息を飲む。
その反応から今この暗闇の中で自分を抱きしめている人物がDIOであると確信した名前は、体の前に回された大きくて冷たい手にそっと手を重ねて、嬉しそうに「DIO!」と再びその名を呼んだ。

「名前っ、」

この世の誰よりも逢いたくて堪らなかった愛しい存在の声と温もりに切なげに吐息を吐き出したDIOは、甘えるように名前の首筋に細く高い鼻をすり寄せながら「…このDIOを10年も待たせよって…」と己の中の不満を吐露する。
しかし、不満そうな言葉とは裏腹に名前自身から漂う甘美な香りを堪能するようにすんっと鼻を鳴らすDIOの表情は、それはもう幸福そうに緩められていたのだ。
ただ、滅多に見られるものではない緩みきったDIOのその表情は、首元にすり寄られている名前にも勿論見えてはおらず、不満の声を聞いただけの名前は「…ごめんね、」とDIOを思って申し訳なさそうにぽつりと呟いた。

「…変わらんな」

相も変わらず他人想いの名前に愛おしさが溢れ出したDIOは、ちゅっと可愛らしいリップ音を響かせながら滑らかな頬にキスを落とすと、驚きに固まる名前の体を自分に向かい合わせるように反転させる。
そして、すっと現れた『世界』がDIOの代わりとでも言うように室内の明かりを灯すスイッチを押せば、細められた琥珀色に頬を薄っすらと朱に染めて恥ずかしそうに見上げてくる名前が映ったのだった。

「お前は身も心も変わらぬ、俺が愛した名前のままなのだな」

自分の知らない名前が居なかったことに心から安堵し、散々待ち焦がれた名前の容姿をようやくその目に捉えることが出来たDIOは、今までのDIOの傲慢さを知っている者が見たらひっくり返る程に優しくて、蕩けるような甘い笑みを浮かべた。

「…っ、…」

そんな絵画のような高潔で麗しいDIOの笑みを唯一間近で見ることを許された名前は息を詰まらせ、吸い込まれそうになる程綺麗に輝く琥珀色にも紅色にも見える男の瞳を見つめた。

「ふふっ……可愛いやつめ」

まるで見惚れているように自分の瞳を、自分だけをじっと見つめてくる名前に更に気を良くしたDIOは、白磁器にも勝る真っ白で滑らかな柔い名前の頬に手を添えると、腰を少し折って自分より遥かに小さい名前との距離をゆっくりと縮めていく。
徐々に近づいてくる端正な顔にぽけーっとしていた名前もさすがにDIOが何をしようとしているのか感づき、慌てて「ちょ、ちょっと待って…!」と止めに入るが、彼女の些細な抵抗などDIOにとっては何の隔たりにもならず、いつの日かの再現の如くガシッと離れられないように体を固定されてしまった。

「っ、あ…!」
「なぜ拒む? お前とこうするのは初めてではないだろう」
「そ、そうだけどっ…あの時は、その…」
「それに俺はあの日言ったはずだぞ?『名前の全てを貰う』と……そして名前はそのことに自ら了承したはずだ」
「!!」

眠りにつく前にエジプトで交わした約束を鮮明に思い出した名前は、DIOの「名前は俺と交わした約束を破るのか?」という道徳心に訴えるような問いにとうとう何も言い返すことが出来ず、きゅっとDIOの上質な服を握りながら受け入れるように目を瞑ってしまった。
そんな丸め込まれやすい名前にひっそりとほくそ笑んだDIOは、抵抗する素振りが全くない名前の腰にするりと手を這わせると、桃色の艶やかな唇へと口角の上がった自身のものを寄せる。しかし――。

「DIO様、お寛ぎ中のところ失礼致します。実はこの船にスタンド使いが乗り込んだという話が――」
「えっ!?」
「…む、」

お互いの唇が触れ合うほんの寸前、名前にとっては何よりの悲報になる情報を運んできた一人の男―テレンスによって、DIOの至福のひとときはお預けという形で幕を閉じたのだった。
目を瞑りDIOを受け入れようとしていた名前は弾かれるように体温の低い体から離れると、主であるDIOと共にいた名前の姿に驚いているテレンスの側へと駆け寄った。

「テレンスさんッ!!」
「……名前様…お久しぶりでございます」
「あ、お久しぶりです……って、そうじゃなくてっ! 今スタンド使いが乗り込んだって言いましたよね!? それ本当ですかッ!?」
「え、ええ……先程承太郎と花京院がSPW財団の者と話していましたので、確かな情報かと…」
「っ、ジョセフおじいちゃん…!」

テレンスが持ってきた情報の出処は承太郎と花京院からであると聞いた名前は、船に乗り込んだのが仗助と康一が倒したはずの『レッド・ホット・チリ・ペッパー』の本体であるとすぐに感づき、不機嫌そうに「名前」と呼び止めようとするDIOを置いて勢いよく室内を飛び出していった。

「…WRYY…」
「…………」

自分が持ってきたスタンド使いの情報のせいで名前が飛び出していき、非常に不機嫌なDIOと客室内に残されてしまったテレンスは、背中に大量の冷や汗を垂れ流しながら恐る恐る視線をDIOの方へと向け、そして酷く後悔した。

「このDIOの邪魔をするスタンド使いなど、ただの搾りカスにしてやろうぞ」

底冷えする程の瞳を浮かべながら低く唸るように呟いたDIOは、自身の中に溜まる怒りと不満をぶつけるように室内に飾られていた生花をぐしゃりと握り潰す。

「ああ、名前様……どうか、どうかDIO様の元にお戻りください」

床にぽとりと落ちた精気を吸われて枯れ果ててしまった花々に、テレンスはそっと視線を外しながら出て行ったばかりの名前の帰りを切実に待ち望むのだった。


* * *


「ど…どっちが『本体』だッ!?」
「「こいつですッ!」」
「(ガーン! ま…また選ぶ決断かよ〜ォ!)」

DIOによって部屋に引きずり込まれた名前よりも随分先にジョセフの客室へと訪れていた億泰は、本日二度目となる重要な選択をしなければならない事態に陥っていた。

「(どっちだ!? どっちが『本体』だっ、チクショー!)」

大きく見開かれた目を忙しなく動かす億泰の前にはSPW財団の制服と帽子を身に付けた二人の男が立っていて、そのうちの一人はジョセフの命を狙った『レッド・ホット・チリ・ペッパー』の本体―音石明なのだが、残念ながら億泰は音石の顔を知らない。
どちらの男も当たり前ではあるが自ら本体だと名乗る訳もなく、億泰はジョセフを守るためには苦手な決断を自分自身で出さなければならない状況に、非常に強い焦りを見せる。
そんな億泰を嘲笑うかのようにSPW財団の職員に扮した音石は、自分が狙われていると微塵も思っていないジョセフの背後に、仗助により海水に流され電気の輝きを失い小さくなった『レッド・ホット・チリ・ペッパー』を静かに忍ばせた。

「『レッド・ホット・チリ・ペッパー』ッ!」
「え?『ポッポ、ポッポ、ハトポッポ』?」

もはや態となのではと思ってしまいそうな程の聞き間違いをするジョセフを余所に、億泰は徐々にジョセフへと迫っていく『レッド・ホット・チリ・ペッパー』に冷や汗を流す。
そして、億泰が未だに何の行動も起こせないことをいいことに、音石がジョセフを殺害しようとしたその時――。

「わかったぜ〜〜ッ!!」
「!!」

ボロボロになった『レッド・ホット・チリ・ペッパー』の細く鋭い爪がジョセフに触れる寸でのところで、億泰の自信満々な声が大きく部屋に木霊した。
その大きな声と「分かった」という台詞に音石が慌てて億泰の方へ視線を向ければ、ぐっと右手を握り拳の形に変えた億泰が「本体は…!」と拳を振り上げる姿が目に映る。そして――。

「てめえだァ――ッ!!」

振り上げられた億泰の拳は、見事音石の顔面に真っ直ぐ振り下ろされたのだった。

「…ッ!!」
『うぎゃあ――ッ!!』

遠慮なく億泰に殴られた音石は勢いよくジョセフの前にあったテーブルへと沈み、ジョセフを襲おうとしていた『レッド・ホット・チリ・ペッパー』は血を吹き出しながらパチッと弾けて消えてしまった。
その姿を睨めつけるように鋭い三白眼で見上げていた億泰は、堂々と胸を張りながら「二度もおちょくんなよッ! この虹村億泰をッ!」と散々自分を馬鹿にしてきた相手へと告げた。

「ジョセフおじいちゃ――って、えっ!?」
「おお! 名前さんやっと来たのかよォ〜!」
「名前ちゃん!? Oh my god!! 名前ちゃんがいるぞオソマツ君ッ!!」
「だ〜か〜らッ! 俺は億泰だって言ってんだろォ!?」
「ど、どういうこと…?」

DIOの元を抜け出してようやくジョセフがいる客室へと辿り着いた名前は、散らかり放題の室内で顔中血だらけになったSPW財団の制服を着た男を放置しながら和気藹々と話す億泰とジョセフの姿に、困惑した様子で首を傾げたのだった。


* * *


億泰のどっちも殴ってやる戦法によって、名前一行は今度こそ無事に音石の魔の手からジョセフを守ることが出来た。
スタンドを使えないくらい満身創痍な音石はSPW財団の職員に捕らえられ、狙われていたジョセフは名前に続いて部屋に訪れた承太郎と花京院に安否を確認された後、港に降りるため客室から連れて行かれることになった。
そして、承太郎と花京院に連れられ仗助が待つ港へ向かったジョセフの後を着いていった名前は、目の前で繰り広げられる初対面の親子のやり取りに、きゅんっと胸を高鳴らせていた。

「…足元……気をつけねーとよ、海に落っこちるぜ」
「す…すまんな。杖があればちゃんと降りられるんじゃが、今さっきへし折られちまったもんでな…」
「しょ……しょうがねえな〜〜…俺の手に、掴まんなよ」
「…え…?」

すっと差し出された手に思わずジョセフが隣を見上げてみれば、そこには気恥ずかしそうに唇を突き出しながら目を合わせないようにしている仗助の姿があった。
心なしか少しだけ赤くなっている横顔をジョセフがじっと見つめていると、手袋を嵌めているジョセフの手に無骨で大きな手がしっかりと重なったのだ。

「きゃああっ! なあに今の仗助とジョセフおじいちゃん! 可愛い……いやっ、尊いってやつだネ!?」

手を繋いで照れながらタラップを降りていく仗助とジョセフの後ろ姿を見ていた名前は、きゅっと胸を押さえながら過去に銀髪の侍に教えてもらった感情を身を持って体験していた。
初めて会った親子の邪魔をしないようにと小さな声できゃあきゃあとはしゃぐ名前に、承太郎と花京院が苦笑を漏らしながらその姿を見下ろしていると、不意に億泰の「いいアイデアが閃いたぜッ!」という嬉しそうな声が鼓膜を揺さぶる。

「この杖『クレイジー・ダイヤモンド』で直せば――」
「バ、バカッ! なんてこと言ってるのッ!」
「そうだよ億泰くんッ! それは無粋だヨ!」
「ぶすい?」

ジョセフの折れた杖を持って閃いた『いいアイデア』を仗助に伝えようと声を張った億泰だったが、その行為は血相を変えた康一と名前によって止められてしまった。
何で止められたのか理解出来ていない億泰に「もうバカだな億泰くん!」ともう一度辛辣な言葉を吐いた康一は、うるうると潤ませた瞳をゆっくりと歩く仗助とジョセフに向ける。

「今回だけはね、直さないからいいんじゃあないか……!」
「うんうん!」
「え? なに? なんでよ?」

似たような表情と似たような瞳を仗助とジョセフに向ける康一と名前の二人に、億泰は自分の頭上にたくさんの疑問符を浮かべる。

「後は…『弓と矢』を回収すれば終わりか」
「ああ。ようやくこの町にも平穏が戻ってくるだろう」

そんなほのぼのとした名前達の姿と、ぎこちないながらも共に歩む仗助達の姿を微笑ましそうに見ていた承太郎と花京院は、港に落ちている音石が愛用していたギターに視線を向けながら安堵の息を吐き出したのだった。

そして――。

「名前様ッ!」
「テレンスさん!?」
「私の平穏のためにもDIO様の所へ今すぐお戻りになってください! お願いしますッ!」
「は、はい…っ!」

泣きながら懇願するテレンスの平穏とやらを守るために、名前が承太郎と花京院の「無視しとけ」という制止の声を振り切って、不機嫌な吸血鬼がいるという船に戻るまであと数秒――。

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