「…………」
自分に充てられた部屋のベッドに腰掛け、良平が酔って買ってきたという巨大なうさぎのぬいぐるみを腕に抱えた名前は、壁に飾られた色紙をぼーっと見つめていた。
「……岸辺露伴、かぁ…」
その色紙にはつい数時間前に康一と間田に誘われて自宅まで赴いた漫画家―岸辺露伴のサインが書かれていて、名前はさらりと流れるような『岸辺露伴』の文字と、サインの横にちょこんと描かれたうさぎのイラストを目に映すと嬉しそうに破顔した。
「岸辺先生は優しくていい人だったし、ご馳走になった紅茶とクッキーも美味しかったなぁ」
突然の訪問にも嫌な顔一つせず丁寧に対応してくれた露伴と、わざわざ淹れてくれた紅茶と用意してくれた有名洋菓子店のクッキーの味を思い出して名前は至福の溜息を吐き出すが、不意に彼女の脳裏には一つの疑問が過ぎる。
「…でも、なんで私だけうさぎのイラストだったんだろう…」
名前はもう一度色紙に描かれた可愛らしいうさぎのイラストに視線を向けると、不思議そうにこてんと首を傾げる。
同じようにサインを貰っていた康一と間田の色紙には、露伴の代表作である『ピンクダークの少年』の主人公が描かれていたのだが、なぜか名前の色紙には漫画には全く関係のないうさぎが描かれていたのだった。
夜兎であることや、スタンドが白黒のうさぎであることを知っているのなら兎も角初対面の、それもスタンド使いでもない露伴は勿論その事実を知らないはずだ。
それなのにピンポイントで露伴がうさぎのイラストを描いたということは――。
「私ってそんなにうさぎが好きそうな顔に見えるのかな?」
大きなうさぎのぬいぐるみを抱えながら自身のスタンドをベッドの上に出した名前は、ぽふぽふと柔らかな布団の上を駆ける二羽のうさぎを眺めながら浮かんだ疑問を口にしてみる。
しかし、当たり前だが呟かれたそれに答えてくれる者はこの場には居らず、結局彼女の疑問は下の階から響いてきた「名前ちゃーん! お風呂入っていいわよー!」と言う朋子の声に打ち消されてしまった。
* * *
月と太陽が空に浮かぶ出番を交代し、淡く幻想的な月明かりから煌々とした眩い陽の光が降り注ぎ始めた夏間近の朝。せっせと足を動かして会社や学校へ向かう人々に紛れて、朝から珍しく町を歩く名前の姿があった。
これから来る夏に向けて購入した、彼女の白く美しい脚を際立たせるピンヒールのサンダルをこつりと鳴らし、苦手な陽の光を遮るために花柄の番傘を差して一人宛もなく歩く名前は、それは楽しそうに笑みを浮かべていた。
「偶には朝から杜王町を散歩するのも悪くないかも…!」
なぜ今日になって大好きな朝ご飯もそこそこに朝から東方家を出たのか名前自身も分かっていないが、朝特有の爽やかで気持ちの良い空気と昼間よりも強くない日差しに、名前はすっかりこの時間帯の散歩を気に入ったようだった。
「ふふっ」
鼻歌でも歌いそうなほど機嫌が良い名前が、このまま承太郎達が宿泊するホテルまで歩こうかなと、体力がある彼女だからこそ思い浮かぶそれなりの距離の散歩コースを考えていると、不意に名前の足がぴたりと動きを止めた。
「…あれ、ここ……?」
差した番傘から覗き見えたお洒落で立派な一軒家に、名前はぱちりと目を一度瞬かせる。
「…岸辺先生の…、」
東方家から気の向くまま歩いてきたつもりだったが、どうやら名前の足は無意識に前日に訪れた露伴の自宅の方角へと向かっていたらしい。
昨日は間田に着いて行っただけなのによく迷わず来られたなと、名前が記憶に新しい白を基調とした外観の岸部家を眺めていると、ふとあることに気づいてしまった。
「ドアが開いてる…」
照明が灯されていない薄暗い玄関先が外からでも見えるくらい開かれているドアに、名前はこくりと固唾を飲み込んだ。
ただ閉め忘れているだけなら不用心な人で済むのだが、もし何者かが侵入でもしていたらと、名前の脳裏に嫌な予感が過ぎる。
「な、何かあったら大変だし……岸辺先生の安否を確かめるだけだから…、」
人の家に勝手に入ることは当たり前だが良心からして憚られるもので、名前は自分自身に言い訳するように呟くと、ゆっくりと家の中へと足を踏み入れる。
「…き、岸辺先生……?」
物音どころか人の気配すらしない不気味に静まり返った室内を、名前は露伴の名を戸惑いがちに呼びながら慎重に進んでいく。
そして、ほんの小さな足音を響かせながら二階へと続く階段を登っていけば、廊下の奥にある部屋から微かに灯りが漏れ出している光景が名前の目に映る。
「…もしかして、」
職場を見学したばかりだからこそ分かるその部屋から漏れる灯りの意味に、名前が恐る恐る半開きになっているドアを開けてみれば、部屋の中には机に齧り付く露伴の姿が見て取れた。
「(…やっぱり、仕事してたんだ…)」
鬼気迫る表情でカリカリと原稿用紙にGペンを走らせている露伴を盗み見ながら、やはり玄関のドアはただの閉め忘れだったのだと名前はほっと安堵の溜息を吐き出す。
「(仕事の邪魔しちゃ悪いし、何もないみたいだから帰ろう)」
露伴の安否が確認できたことだし、勝手に上がってしまった人の家に長居する理由もなくなった名前が静かにドアを閉めようとドアノブに触れた瞬間、集中して机に向かっていた露伴が突然椅子ごと名前の方へくるりと振り返った。
「…!」
「やあ、よく来たね……待っていたよ」
「え?」
壁に掛けられた時計を一瞥して「時間ピッタリだ」と呟いた露伴は、自分の言葉に目を丸くする名前を見てにやりと口端を上げる。
「…っ、…」
その何かを含んだような笑みに、得も知れぬ恐怖と違和感を覚えた名前が無意識のうちに後退りしようとしていると、それを知ってか知らずか側に近づいて来ていた露伴によって部屋の中へと引き込まれてしまった。
「せっかく来てもらってなんだが、少しだけ待っていてくれるかな……あと二枚で来週分の原稿が完成するんだ」
「ら、来週分…?」
再び机に向かいペンを持ち直した露伴に、今週分が出来上がった昨日の今日でもう来週分を描き上げようとしているのかと、名前が露伴の背後から描きかけの原稿を覗き見たその時――。
「っ、あ…!」
突如として名前の体が崩れ落ちるように、派手な音を立ててその場へ倒れてしまった。
「…これっ…!」
全く力が入らなくなってしまった自分の体を見下ろした名前が、今自分に起きている異変に気づいて驚愕に目を見開いてると、倒れた名前を見下ろした露伴が「こいつはスゴいッ!」と、嬉々とした声を上げた。
「作品じゃあなく一コマ見ただけで『本』になっちまったぞ! 僕は成長しているッ! 漫画家としても! スタンド使いとしても!」
「っ、そうだ…思い出したっ! 人を『本』にするこの能力は……『ヘブンズ・ドアー』!」
紙に変わった自分の体と目の前にいる男の嬉しそうな言葉から、岸辺露伴がスタンド使いだという重要なことを思い出した名前は、何とか上体を起こして「名前! 君のおかげだよ!」と恍惚の表情を浮かべる露伴を睨みつける。
「名前の『体験』を見てからガンガン創作意欲が湧いてくる! 描きたくて描きたくてしょうがない! どんどん描きたい!!」
「っ、なに言って…」
「一晩で19ページも描けるなんて僕自身も初めての経験だッ! 僕は今傑作を描いている! 君の『体験』はスゴいッ! 君の『体験』をネタにしているストーリーだからだよ!!」
前日に破り取った名前の記憶を手にしながら汗が流れる程の興奮を露わにした露伴は、部屋の入り口の方へ少しずつ這って移動していた名前に跨ると、体の向きを反転させて頬に手を滑らした。
「早く次の『体験』が欲しいんだッ! 次のページを見せてくれッ!」
「触らないでッ!」
「ページを取れば取る程君の体重は減っていくけど構いやしないだろう? 君は傑作となっていつまでも生き続けられるんだからねェ――ッ!!」
「やっ、やめ……!」
成人男性くらい簡単に押し退けられる力を持つ名前を自身のスタンド能力で制した露伴が、全力で嫌がる名前を無視して彼女のページを纏めて破ろうと頬に添えた手に力を入れたその時、来客を知らせるインターホンの音が下の階から鳴り響いてきた。
朝から鳴ることは滅多にない電子音に小さく舌を打った露伴は渋々名前から離れると、ブラインドが半分降ろされた窓から外の様子を垣間見る。
「おやおや、あの顔は……『クレイジー・ダイヤモンド』の東方仗助と『ザ・ハンド』の虹村億泰じゃあないか…」
自宅の玄関先に見えたガラが良いとは言えない二人の男子高校生の姿に、露伴は「はて?」と疑問符を浮かべる。
「なぜこいつらの方から我が家にやって来るんだ? 名前が二人に僕のことを喋るはずがないし…」
人の記憶に書き込むことが出来る『ヘブンズ・ドアー』によって露伴を攻撃したり、露伴のことを他人に話せなくなっている名前からは決して情報は漏れることはない。そして、それは昨日ここに名前と共に居た康一と間田も然りだ。
それにもかかわらず仗助と億泰が揃って自宅に訪れたと言うことは、何かしらの形で知られてしまったのかもしれないなと、露伴は冷静に思考を巡らせる。
「…む!」
しかしその一瞬の隙が仇となってしまったようで、ふと露伴が気づいた時には既に名前の姿は部屋から消えてしまっていたのだ。
「…さてと。康一くんならまだしも、仗助と億泰には今のところ興味はない……来週分の残り2ページを仕上げて、名前からもっともっとネタを奪い取らないと」
だが露伴はその事実に焦ることなく椅子に腰掛けると、楽しみだと笑いながらカリカリとGペンを原稿用紙に走らせたのだった。
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