世界中に約一千種あるネズミ類のうち、人間の生活内で活動するのはたったの三種類である。
その三種類に数えられるのが『ハツカネズミ』『クマネズミ』『ドブネズミ』という種類の鼠なのだが、音石が鼠を射ったと示した農業用水路のように水が豊富にある場所を好む鼠は、その三種のうち『ドブネズミ』しかいないのだ。

「ドブネズミはよく泳ぎ、どこにでも住み、なんでも食う。大きいもので体長20乃至は30センチ、体重は1キロに達するものもいる。ジャンプ力は2メートル」
「…ネズミってキャラクターだと可愛いけど、実物はちょっと…」
「可愛くねえっスね」
「…うん、」

海洋生物以外の生き物にも詳しい博識な承太郎の話を聞きながら、彼から手渡された狩りの対象写真を見た名前は、隣を歩く仗助の直球で素直な感想に同意するように頷いた。
思っていたよりも大きくて逞しい体付きをしている相手に、名前が「大丈夫かな…」と鼠狩りに少しの不安を抱いていると、不意に前を歩いていた承太郎が足を止めてその場にしゃがみ込む姿が見えた。

「見つけたぜ」
「…足跡…?」

ある一点を見下ろす承太郎の背中越しに名前が顔を覗かせてみると、少しぬかるんだ地面に小さな足跡が付いているのが確認出来た。
細くて独特な足跡に仗助が「それ鳥の足跡じゃあねーんスか?」と承太郎に尋ねれば、承太郎は足跡の特徴から鳥ではないと首を横に振る。

「前足の指は四本、後ろ足は五本。S字に部分的に引きずっている……この線は尻尾の跡だ」
「…じゃあ、この足跡は鼠…」
「ああ。体長20センチぐらいの鼠だ……葉の裏にもダニがいるようだし、数は分からんが確実にいる」

小さな足跡と動物の血を吸血する節足動物の存在から、鼠がここにいると確かな証拠を掴んだ承太郎は、足跡の近くにある排水口の奥に巣が作られていると睨んだようだ。

「とりあえずここに罠を仕掛けて、ビデオカメラで録画しておこう」

背負っていた大きいリュックから複数の鼠捕り用の罠と、録画した映像をその場で見られるビデオカメラを取り出した承太郎は、罠の設置を名前と仗助に任せてカメラを固定するための三脚を立てる作業に取り掛かる。
はっきり映る位置を決めたり角度を決めたりと手際よく作業を進める承太郎に伴って、仗助もせっせと罠を排水溝の周りに設置していく。

「……これで合ってるのかなぁ…?」

ただ、名前だけはこうした作業に強く、手際のいい男達と違って鼠捕りの構造にどうやら四苦八苦しているようで、首を傾げながら何とか一つの仕掛けを取り付けようとしていた。

「…んー、…うわっ…!」

そんな分からないなりに一生懸命罠を仕掛けていた名前だったが、突如として一匹の蝿が目の前を横切ったせいで、集中力が切れて意識もそちらへと向いてしまった。

「こっち来ないでヨ!」

ブンブンと嫌な羽音立てて飛び回る蝿を閉じた番傘を振って追い払おうとするが、なぜか蠅は逃げていくどころか名前の近場から頑なに離れてはくれない。

「…っ、もう! いったい何な……の…?」

執拗いくらいに周りを飛ぶ蝿に、ただでさえ虫嫌いの名前が苛立ちを露わにしたその時――名前の目に見たことのない、異様な光景が映し出されたのだった。

「……なに、あれ……」

それは草むらのたった一箇所だけに何十匹と蝿が群がっている、中々に悍ましい光景だった。
ゴミが放置されていたりする都会の歓楽街でも見たことのない光景に、名前は直感的にそこに『何かヤバい物』があると分かってしまった。

"見ない方がいい"

頭では分かっている。しかし、そう思えば思う程気になってしまうのが人間の性と言うもの。
それは天人の名前も同じで、彼女は恐る恐る蝿が群がる草むらへ近づいて行くと、手前の草をそーっと掻き分けて奥の様子を見ようと顔を覗かせる。そして――。

「――ッ!!」

草むらの奥を覗き込んだ名前は、そこにあった想像の遥か上をいく『ヤバい物』に、声にならない悲鳴を上げた。

「…名前さん?」

ふらふらと覚束無い足取りで後退る名前に気づいた仗助が、一体どうしたんだとでも言うように彼女の名を呼びながら側に寄ってみる。
すると、血の気が引いた真っ青な顔で一点を見つめながら、手で口元を押さえる名前の姿が目に映ったのだ。

「っ、どうしたんスか…!?」

その尋常ならざる名前の様子を目の当たりにした仗助は慌てて「何かあったんスか!?」と問い掛けてみるが、名前は何を答えるでもなく、ただ口元を押さえている手とは逆の手で草むらを指差すだけだった。

「……蝿…?」

震えた指先が示す方へ顔を向けた仗助は、そこにある小さな草むらに蝿が何十匹と集っていることに気づく。
やたらと多いその数に名前が大の虫嫌いであることを知っている仗助が、内心で「これにビビッてたのか?」と予想をつけながら何気なく蝿が群がっている中心を覗き込んだ瞬間――。

「! …じょ、承太郎さん!」

仗助は名前と同じように口元を手で覆うと、込み上げる吐き気を抑えながら少し離れた場所にいる承太郎の名を叫ぶように呼んだ。
そして、その呼び声に反応した承太郎が気分悪そうに嘔吐きながら「これ…!」と、仗助が指し示す場所に視線を向ければ、彼もまた凛々しい顔を驚愕や嫌悪に歪めた。

「鼠の死体か…!」
「…っ、」
「見た通りっスよ――っ!」

名前達が見た物。それは、得体の知れない赤黒い物体と共に魚の煮凝りのようにぎゅっと凝り固まっている、複数体の鼠の変死体であった。

「…どうやったら、こんな…」
「…ふむ、」

自然では絶対に起こり得ることのない不可解な生き物の死に様に、名前がか細い声で柳眉を寄せながら呟けば、何を思ったのか承太郎が唐突に落ちていた木の枝をその塊へと突き刺した。

「…ひぇっ、!」
「なに突っついてんスか!?」

勇敢とも奇行とも言える承太郎の行動に、名前と仗助は引き攣った声を漏らしながら、信じられないと言いたげな目でぐちゃりと枝を動かす承太郎を見遣る。

「…これは…肉だ、」

そんな不気味な物を突くのは止めてくれと嫌悪感を丸出しにする仗助を余所に、枝を刺した箇所から流れ出る赤い液体と、枝の先に付着したピンク掛かった柔らかい塊を観察していた承太郎は、この得体の知れない物体が鼠の『肉』で出来ていることに気づいてしまった。

「この鼠らの肉が一度溶けて固まっている感じだ。しかも皮膚の内側から溶かされて死んでいる…」
「そっ…それじゃあ、これって……」
「…ああ。俺達が追っている鼠の仕業で間違いないだろう」
「そいつが、スタンドで…」
「仲間をバラして縄張りは自分だけのものってことか……となると――」

巣を作っていると睨んだ排水口の奥にスタンド能力を身につけた、仲間さえも攻撃してしまう程凶悪な鼠が確実に潜んでいる。
そう確信を得ることが出来た承太郎だったが、一つの問題が発生しかけている事実に、黒い闇が広がっている排水口の奥を見つめながら大きな溜息を吐き出した。

「問題は――ここまでやる奴が大人しくしているか、どうか……だな」

小さく呟かれた不安が杞憂で終わればどんなに良かったか。しかし現実とは非情なもので、承太郎が感じたその不安は、排水口が続いている先を確認するために登った壁の向こう側を見た瞬間に、残念ながら的中することになる。

「…排水路はどうやらあの農家に続いている」

用水路と壁一枚だけで隔たれた広大な農作物の間を縫うように走る排水路の行き着く先は、ぽつんと一軒の農家が建てられていた。
青々とした綺麗な緑色の農作物と、暖かみのある赤い色をした一軒家の風景は、一枚の絵画のように美しくのどかな風景なのだが、実際あの平和そうな農家に起きていることは平和とは程遠いものだった。

「既に遅かったのかもしれん」
「そ、そうなんスか…?」
「ニワトリ小屋があるがニワトリが一羽もいない。家にも住人の気配が全くない。外出はしておらず、玄関に鍵が掛けられていない」
「…と言うことは、まさかっ…」

双眼鏡で排水路の先にあるやけに静まり返った農家の様子を確認した承太郎は、不可解な点が多い有様に「鼠はいるな」と、名前の脳裏に浮かんだ考えを肯定するように頷く。
そして先程感じた不安の通り、草むらに隠されていた鼠達のように住人は殺されている可能性が高いと明言した承太郎は、調べに行こうと名前と仗助を引き連れて農家へと足を向けた。


* * *


「鼠は俺達をある距離まで近づかせる。人間如きノロマには捕まらないと自信たっぷりにな…我々がベアリングを飛ばすとは思っていない。そこを確実に近づいて、一発で仕留めるんだ」

農家へ向かう道中で承太郎から鼠を狩る上での心得を聞いた名前と仗助は、いよいよ渡された数発分のベアリングを手にしながら、殺伐とした空気を漂わせる室内へと足を踏み入れた。

「…確実に近づいて…、」
「…一発で仕留める」

承太郎の不安と予想通りに住人の気配が全くしない静まり返った室内を、いつ鼠と出会してもいいように気を引きしめながら家具の隙間や、物の陰といった所に痕跡がないか二人が調べていると、不意に部屋の奥から「あったぞ」と承太郎の声が木霊した。

「鼠のフンだ」

しゃがみ込む承太郎の視線の先には、しっかりとこの農家に鼠が入り込んでいると言う痕跡が残されていて、しかもその内容物は『肉』を主食としている物だったのだ。
やはりここには仲間どころか人間までを攻撃して食してしまう鼠がいると、名前は緊張からこくっと固唾を飲み込む。

「こっちの部屋に向かっている。調べるぜ」
「…分かった」

そして、点々と続く鼠の痕跡を辿って承太郎と共に一階奥の一室に向かった名前が、その部屋の中に足を踏み入れた瞬間――。

「――ッ!!」

痛いくらいの鋭い視線と、明らかな敵意が名前の肌を突き刺したのだ。

「…っ、承太郎…!」

自身の肌で感じるそれらと、戦闘民族の夜兎故か本能でこの部屋に潜んでいる鼠が普通ではないことを察知した名前は、咄嗟に承太郎の腕を掴んで引き止める。

「…名前?」
「……気をつけて。少しでも隙を見せたら攻撃されるかも、」
「! ……やはり、ここにいるか…」
「…どこに隠れてるかまでは分からないけど、確実にいるよ。すごい見られてる…」

滅多に見ない険しい表情を浮かべながら辺りを警戒する名前に、承太郎も気を張って室内全体に意識を集中させる。
そうすれば名前が言っていた通り、こちらへ凄まじい敵意が向けられていることが嫌でも分かってしまった。

「……確かに、これは気ィ抜けねえな…」
「うん…、だから仗助も気を――え?」

承太郎の空気も鋭いものに変わり、この部屋の息苦しさが先程よりもぐんと上がる。
押し潰されそうな程の重い空気感の中、冷や汗を頬に一筋流した名前が、この中で一番戦闘経験の浅い仗助の身を案じて声を掛けるが、ここまで共に行動していた少年の姿がないことに気づいてしまった。

「…っ、仗助…?」

当たり前に仗助が着いて来ていると思っていた名前は、仗助の姿が見えないことに焦り咄嗟に意識と視線を部屋の外の方へ向けてしまった。それがいけなかった――。

 ――ドシュッ!

「っ、名前ッ!!」
「!!」

少しの動揺から表れた名前の隙を見逃さなかった鼠は、身を潜めていた物の陰から己のスタンドで攻撃を仕掛けたのだった。
真っ直ぐと名前に向かって弾丸のように飛んでいく針に、承太郎が声を上げてその存在を彼女に教えるが、時は既に遅し。

「…っ、…!」

名前が承太郎の声に反応し、身を翻そうとするよりも先に鼠によって放たれたそれは、急所である喉元に刺さろうとしていた。しかし――。

「……あ、れ…?」

名前に向かって勢いよく飛ばされた針は、彼女の白い喉に刺さることは決してなかったのだ。

「! ……お前……、」
「…と…止まって、る…?」

なぜなら世界は承太郎と名前の二人を残して、完全に止まっていたのだから。

back
top