時が止まり、今までとは打って変わって静寂に包まれた室内に、二人分の息を飲む音が響く。

「……名前、」
「…じょ、承太郎…これって…、」

DIOの『世界』と同様に『星の白金』で時を止められる承太郎が、止まった時の中を自由に動けるのは当然のこと。
それ以外の人間や動物、物などは動けるはずもなく、現に鼠が放ったであろう針は空中に留まっている。それとまた同時にどこかへ潜んでいる鼠も動きを止めていることだろう。
しかし名前だけは違った。彼女は時を止めた張本人の承太郎と同じように、この静かな世界でしっかりと身動きしていたのだ。

「…なんで、わたし…」

自分自身でも戸惑っている様子の名前は、目の前で止まっている針と、それとは対照的に動く己の体。そして承太郎と彼の背後にいる『星の白金』へと順に、ゆらゆらと揺れ動く蒼い瞳を向ける。

「…………」

本来ならこの止まった時の世界に意図せず入門してしまった、動揺している名前のことを優先してあげたいところだが、生憎承太郎は体が馴染んだ完全なるDIOと一つだけ違って長く時を止めることが出来ない。

「……考えるのは後だ」

もうすぐ停止可能時間のリミットが来てしまうため、承太郎は名前の腕を掴んで引き寄せながら早口でそう告げると、自分の背後に隠すように彼女を移動させる。
するとその直後に時が動き出し、今まで名前がいた場所を針が勢いよく通り抜けた。

「今は鼠が先だぜ」

名前に刺さるはずだった針が壁に当たり弾かれる様を一瞥した承太郎は、敵意あるそれが放たれて来たであろう方向を睨むように振り返る。
しかし、振り向いた先にあった砲台のようなスタンドのスコープ越しにこちらを睨みつけている鼠の姿に、承太郎の鋭かった目が微かに見開かれた。

「っ、野郎…いつの間に……!」

時が動き出してから僅か数秒で既に次の体勢と攻撃を整えている普通とは違う鼠に、承太郎はほんの一瞬だけだが呆気に取られてしまった。

 ――ドシュッ!

その瞬間と生まれた隙を見逃さなかった鼠は、名前に向けて撃った針と同じ物を新たな標的となった承太郎にも撃ち込んだ。

「…やれやれだぜ」

だがすぐさま冷静さを取り戻した承太郎と、数センチの距離から撃たれた弾丸でも掴める『星の白金』にとって、今や自分に向かって真っ直ぐ飛んで来る小さな針など脅威ではない。
承太郎が帽子の鍔をくいっと下げて己のスタンドの名を呼べば、『星の白金』はその針をいとも容易く三本の指だけで摘んでみせた。
そして、摘み取ったついでに仕組みを調べてやろうと、承太郎が『星の白金』の手にある針に目を向けたその時――。

「! …これは…っ、」

針に直接触れた『星の白金』と、本体である承太郎の右手がドロリと溶け出したのだ。

「っ、スタンド毒か…」

勿論躱すことだって出来たのだが、何でも気になるものは調べようとする性格が今回はどうやら仇となったらしい。
道中で見つけた鼠の死体のように右手が溶けていく光景を目の当たりにした承太郎は、針に体を溶かすような毒が含まれていることを身を持って知ることになってしまった。

「やっちまったな…」
「…承太郎…?」

毒が回りじくじくと痛む右手と、好きなだけ攻撃をさせた挙句逃がしてしまった鼠に承太郎が溜息を一つ零していると、彼の背後に隠されていた名前が恐る恐る承太郎に声を掛けた。

「なにかあっ――!?」

急激に向けられていた鋭い視線と敵意がなくなったこと。そして承太郎の微かな異変を感じ取った名前は、広い背中から回り込み承太郎の前へと出て来たのだが、彼のドロドロに溶けた右手を見て言葉を失ってしまった。

「…じょ、たろ…っ、それ…!」
「……悪ぃ、」

たどたどしく声を出しながら震えた指先で承太郎の右手を差す名前に、承太郎は咄嗟にグロテスクなものに変わってしまった手を彼女に見えないようにポケットの中に隠す。
早いところ仗助と合流して治してもらおう。鼠を追跡するのはその後だ。そう次の行動を組み立てた承太郎は部屋を出ようと踵を返したのだが、その足は強い力で右腕を引っ張られたことで動くことはなかった。

「……名前?」

両の手でぐいっとポケットに入れた腕を引っ張られる感覚に、承太郎が疑問符を浮かべながら振り返ってみると、彼の後ろには泣きそうに顔を歪めながら「…早く治さないとっ!」と、白いうさぎを出す名前の姿が目に映った。

「おいっ、何して……!」

自分でも気色悪いと思ってしまう程悪化している右手をポケットから取り出し、躊躇いもせずに代償を伴うスタンド能力を使おうとしている名前に承太郎が思わず手を振り払えば、名前はとうとう大きな蒼い目からポタリと滴を零してしまった。

「ごっ…ごめんね…!」
「…は…、?」
「私があの時動揺しなければっ、攻撃の隙を与えなければ承太郎は怪我しなかったのに…!」
「…名前…」
「『気をつけて』なんて偉そうなこと言っておきながら……自分は承太郎に守ってもらって…っ、もう最悪だよ私…」

一筋の涙を火切りにボロボロと大粒の涙を零しながら自分を責め、何度も「ごめんね」と謝る名前の姿は傍から見ると痛々しいものだった。
終いにはしゃくり上げて泣き出してしまった名前を見下ろした承太郎は、無事な左腕を名前の後頭部に回すと、自身の胸元に彼女の顔を押し付けるように引き寄せた。

「落ち着け。そんなに泣くもんじゃあねえよ」
「…っ…だっ、て…!」
「…これはお前のせいじゃねえ。俺が安易に触れちゃあならねえ物に触れた罰、…ってやつだぜ」

だから名前が悪い訳ではない。気にする必要なんてないと、承太郎は小さな子供をあやす様に優しく名前に言い聞かせる。
そうすれば肩を震わせていた名前も、承太郎の優しい声と規則的に聞こえてくる鼓動に、少しずつ落ち着きを取り戻して来たようだった。
ただ、やはりまだ胸のどこかに解せていない凝りが残っているようで、名前は「…でも…、怪我…」と泣き腫らした目で承太郎を見上げてくる。

「でもじゃねえ。それ以上食い下がるようだったら、その喧しい口塞ぐぜ」
「…!」

意地悪そうに口角を上げながらぐっと顔を寄せてくる承太郎に、名前は驚きから濡れた目をぱちりと大きく瞬かせる。
そして、少し遅れて承太郎が告げた言葉の意味を理解した途端名前は照れているのか情けなく眉を八の字に下げると、再び承太郎の逞しい胸元に顔を埋めながら「……それはやだ」と小さく言葉を返した。

「……やれやれ、」

小さな声ながらもはっきりと「嫌」という意思を示した名前に、少しばかり複雑な気持ちに承太郎は襲われる。
しかし、ようやく泣き止み自分を責めることも止めた名前に承太郎はほっと息を吐くと、部屋の外から「承太郎さーんっ!」と仗助の呼ぶ声が聞こえてくるまで、腕の中の鼠よりも愛らしい兎を構っていたのだった。


* * *


「やれやれ、音石明……やってくれたな」

その後一人で台所にいた仗助と合流し、無事に溶けてしまった右手を『クレイジー・ダイヤモンド』で元に戻してもらった承太郎は、鼠を仕留めたと嬉々として話す仗助から恐るべき事実に気づいてしまった。
そして、それを確認すべく音石の尋問を担当しているSPW財団の職員であり、友人の花京院に連絡をしてみれば、なんと音石は承太郎の予想通り鼠を『二匹』射っていたことを隠していたのだった。

「自分の縄張りにいる者は人間だろうが仲間だろうが皆殺し…てめーさえ良けりゃあいいという……もはやこの地球上に生きていていい生物じゃあないぜ、奴は」

鼠の凶暴性と害悪性をその身を持って体感した承太郎は、「鼠は追跡して必ず俺達が始末をする」と花京院に宣言すると、先程用水路から農家に向かって来た道を戻るように歩き出した。

「…ねえ、承太郎……鼠を追跡するって言ってたけど、どうやって追いかけるの…?」
「そもそもこんな広い田園地帯で小っこい鼠を追えるんスか? 干し草の中から針を…ってぐらい探すのムズいんじゃあねーの?」

颯爽と前を歩く承太郎を追いかけながら、花京院とのやり取りを聞いていた名前と仗助は、互いに浮かんだ疑問を広い背中に投げ掛ける。
三人係で虱潰しに探したとしても日が暮れるどころか、夜が明けてしまいそうな程広い田園に二人が不安そうな目を向けていると、不意に前を見据えたままの承太郎が「追跡不可能な動物はいない」と静かに呟いた。

「…え?」
「『シートン動物記』の著者、E・Tシートンの言葉だ」

走るのが速い動物よりも『地形』と『風向き』や、『動物の習性』などを研究している人間の方が少しだけ有利になると、承太郎はシートンの言葉を借りて名前と仗助に説明する。
そんな彼の視線は既に狙いが定まっているかのように、真っ直ぐと一箇所へ向いていた。

「鼠というやつは知らない道は通りたがらない習性がある。つまり、奴が逃げた方向は間違いなく例の用水路だ……その証拠にこれを見ろ」

たった数十分前に通ったばかりの道に来る時には無かった荒らされた農作物と鼠のフンを見つけた承太郎は、「やった…!」と同じように目を輝かせ喜ぶ名前と仗助を連れて用水路目指して歩を進めた。そして――。

「映ってるぞ」

用水路に仕掛けていたビデオカメラの映像を承太郎が確認すれば、そこには一匹の鼠がはっきりと映し出されていたのだった。

「この用心深さ……さっきと違って『虫喰い』は俺達を20メートルなんて射程距離には寄せ付けないと予想できるな」

耳が虫に喰われた葉っぱのように欠けていることから承太郎に『虫喰い』と名付けられたその鼠は、名前や仗助が仕掛けた罠の餌には一切手を付けず、まるで目の前にある物が自分を捕らえようとしている罠だと理解しているかのように、ただただ辺りを警戒していたのだ。

「こんなに警戒されてたらベアリング当てるの難しい、よね…?」
「ああ。小さな的に狙いを定めるのもそうだが……空気抵抗のせいで球形のベアリングだと20メートルを超えると弾道が大きくブレる」
「…グレート…、めちゃくちゃハードモードじゃないっスか…」

警戒されて『虫喰い』との距離が伸びれば伸びる程不利になっていく状況に、名前と仗助は再びどうしたものかと不安気に顔を見合わせる。
そんな二人を一瞥した承太郎は徐に背負っていたバッグから『ある物』を取り出すと、色の濃さが違う蒼い瞳の前にそれを差し出した。

「…承太郎、それって…」
「ライフルの実弾だ。万が一に備えて四発だけ持って来ておいた」
「じ、実弾っスか…!?」
「狙撃用のこの弾頭なら70メートルぐらいまでは何とかなるかもしれない」
「それも、その…『星の白金』で飛ばすの?」

初めて見る実弾に緊張している様子の名前が指で弾くような動作を承太郎に見せれば、「まあスタンドの方が正確に撃てるからな」と承太郎は肯定する言葉と共に微かに口角を上げた。

「…承太郎と『星の白金』はすごいなぁ……私じゃ無理だもん、」

ベアリングのような小さな球は飛ばせるが、狙撃用の実弾となればいくら夜兎と言えど、生身の体で撃つにはさすがに難しいものがある。
自分の限度を分かっている名前が更に上を行く承太郎を尊敬の眼差しで見つめていれば、「俺もとても自信ねえっスよ〜」と仗助からも遠回しな『出来ない』と言うような台詞が漏れた。

「……だろーな」

元々昔から承太郎は名前には甘い方だが、それを抜きにしてもパワー型のスタンドを持たない彼女が「ライフル弾を飛ばすことは無理だ」と主張するのは分かる。
しかし、仗助の場合は『星の白金』にも引けを取らないパワーを誇る『クレイジー・ダイヤモンド』がいるのだ。ベアリングで確認済みだが命中率も決して悪い訳ではなかった。
そんな強い能力を持つ中でへらりと気の抜けた笑みを見せる仗助に、承太郎は大きく溜息を吐くと「俺がやるしかねーな…」と一言だけ残して仗助に背を向ける。

「ちょっと待ってください」

ただ、今の承太郎の言動は普段温厚な仗助もどうやら頭にきたようで、彼は名前を連れて先を行こうとする承太郎の背を睨みながら「何スか今の言い方…?」と、噛み付くように声を掛けた。

「結構カチーンときたんスけど……」
「…………」
「名前さん泣かしてた承太郎さんと違って、さっき俺は鼠を一匹やっつけたんスからね! 完璧には命中しませんでしたけどよォ〜〜」
「じょ、仗助…それはっ…、」

苛立ちを隠すことなく承太郎へと言い返す仗助に、名前は咄嗟に「あれは承太郎のせいではない」と、今や『クレイジー・ダイヤモンド』のおかげで治っている泣き腫らした目の真相を説明しようとする。
しかし、名前が口を開くよりも先に承太郎は仗助の言い分に反論することなく「そうだな」と頷くと、ぐっと仗助の前に握り拳の形になっている右手を突き出した。

「じゃあ二発持て」
「え!?」

唐突に手渡されたライフルの実弾に、仗助は吊り上げていた目をこれでもかと丸くさせる。

「期待してるぜ」

端から仗助にライフル弾を渡す気でいたらしい承太郎は、わざと仗助の気に障りそうな言動を取っていたようだ。
そして、まんまと自分の策に嵌ってくれた単純な少年に承太郎は口角を上げると、コートを翻して小さな足跡を追い始めていく。

「プレッシャー…ッ!」
「が、頑張れ仗助…!」

すたすたと先を行く承太郎の後ろでは、ベアリングの時よりも数倍のしかかった重圧に頭を抱えた仗助と、そんな彼を身振り手振りを加えて励ます名前の姿が見て取れたのだった。

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