誰も出入りさせないよう玄関前に薄汚れた段ボールを高く積んだ家。所々割れた窓ガラスから薄暗い埃っぽい室内を覗かせている家。可愛らしい名前が書かれた犬小屋に赤い革の首輪だけを繋いでいる家。どの家も全く人が住んでいる気配はなく、兎に角酷い有様だった。

「地図に載っていない奇妙な道にある、誰も住んでいない荒れた家。中々に出そうな雰囲気だと思いませんか?」
「で、出るってなに……」
「フフッ。それは勿論、ゆう――」
「わああっ! や、やっぱり言わないで!!」

見ているだけでそわそわしてしまう空き家を、どことなく楽しげに見つめながら"出そうな雰囲気"と評す花京院に、名前は恐る恐る何が出そうなのかと尋ねる。が、柔和な笑みを浮かべる花京院から聞きたくない単語が出て来そうになったため、名前は慌てて飛び付くように彼の口を手で塞いだ。

「だ、だめだヨ! そ、そういう話をしたら寄ってくるって昔銀さんに聞いたもん!」
「(銀さん……?)」

聞いたことのない人物名に花京院は一瞬意識をそちらに持っていかれるが、必死に"幽霊"と言う単語を言わせないようにしている名前がどうにも可愛くて、名前も顔も性別も知らぬ人物は直ぐに彼の頭の隅に追いやられた。

「だ、だから典明もそういう話絶対にしちゃだめだヨ!?」

虫に続いて本当に心霊や怪談の類が大嫌いな名前のあまりにも真剣な様子に、花京院は目尻を優しく下げながら首を縦に振る。声にしないのは勿論、名前の柔らかい手の平がしっかりと口に触れているからだ。

「ご、ごめんねっ、」

花京院の頷く仕草にホッと息を吐き出した名前は、ようやく自分が思い切り彼の口元を押さえてしまっていることに気付いたようで、咄嗟に謝りながら手を外す。

「いえ、気にしてませんよ。ただ……名前さん凄い必死でしたね」

触れていた名前の手が離れて行ってしまったことに少々寂しさを感じつつも、やっと自由に動かせる口で花京院がついさっきまでの様子を指摘すれば、彼女は恥ずかしそうに小さく呻きながら頬を押さえて目を伏せた。

「む、昔から虫とか怪談系がどうしても無理なのっ! 部屋に虫がいたり、怖い話聞いただけで一人で眠れなくなっちゃうし……こ、子供っぽいから直さなきゃって思ってるんだけど、いつも承太郎が一緒に居てくれたから甘えちゃってて……」
「……そう、でしたか」

少し頬を赤らめてモジモジと話す名前の姿は想い人と言うこともあり大変可愛らしいのだが、そんな彼女の一つの残酷さに気付いてしまった花京院は、それを乗り越えて来た友人に尊敬の念を向ける。

「(……よく承太郎は彼女といて色々と我慢出来ていたな)」

幼い頃であれば微笑ましい話で終わるが、互いに体も心も成熟し出した頃では全く話が違う。特に男の方は、だ。もしも彼女と同じベッドに眠るのが僕だったら……と、そこまで思い浮かべたところで花京院は考えるのをやめた。仮に相手が自分だったとしても無理やり手を出す度胸などないし、何よりも名前の肩に露伴が腕を回して先を行こうとしている光景が目に入ったからである。

「なあ見てみろよ名前。この地図素晴らしくないか? ここら辺の家どころか、そこの曲がり角もこの先の道も載ってないんだぜ」
「ちょっ、と! これ歩きづらいしっ、そんなに地図近付けられたら前見えないって!」
「こっちには電気の切れた自動販売機があるぞ。最早この通りは何も機能してないな」
「もうっ! 人の話聞いてヨ!」

強引に肩を引きながらあれやこれやと話す露伴に、名前は花京院に見せていたしおらしさとは真逆の反抗的な態度を見せる。もう今の彼女には幽霊が出るかも、なんて恐怖はさっぱりと消え失せていて、その代わりに全く話を聞いてくれない露伴への苛立ちが芽生えていることだろう。

「気に入っている、だけじゃあないように見えるのは僕が彼を敵視しているから……」
「おやおや花京院さん、どうしたんですか? 早く来ないと置いて行きますよ」
「……だと良いんだけどね、」

きゃんきゃんと吠える名前を見事なまで無視した露伴が、不意に後方で一人足を止めている花京院を振り返る。振り返ったその顔は、まるで生意気な子供が悪戯を成功させた時のような、それはもう愉快そうに歪められていて、花京院は思わず深い深い溜息を吐き出した。


* * *


「地図のミスを見つけると図書券が貰えることがあるんですよ」
「図書券かぁ〜……そう言えば私最近本読んでないかも、」

結局「名前さんが足を捻ったら大変だろう?」と言う花京院の手助けもあり、肩を組んでピッタリと密着してくる露伴から抜け出せることが出来た名前は、後ろで火花をバチバチと散らし始めた花京院と露伴を余所に、一番平穏を感じられる康一と肩を並べて先を歩いていた。

「もし図書券貰えたら何か買って読もうかな」
「いいですね!」
「康一くん何かおすすめある?」
「僕ですか? んー……色々ありましたけど、やっぱり僕のおすすめはピンクダークの――」
「それ以外がいいなぁ」

作者がとんでもなく変人で厄介なスタンド使いであっても、やはりリアリティを追求しているせいか露伴の描く"ピンクダークの少年"は群を抜いて面白い。独特なタッチの絵は不気味に感じることもあるが、ストーリーと相俟って読めば読む程その世界に引き込まれていく。
だからぜひ名前にも一度、と康一は自身の愛読書を彼女におすすめしようとするが、ニッコリと有無を言わさぬ笑顔で却下されてしまった。

「だ、だめでしたか……」
「ごめんね康一くん。私からおすすめ聞いといて我儘言っちゃって……ただやっぱり、露伴先生の漫画はちょっと、」
「あっ、い、いえ! 露伴先生とその……色々あった名前さんからしたら、露伴先生の漫画を手に取るのは複雑ですよね!」
「勿論露伴先生への反抗心もある、けど……露伴先生の漫画ってサスペンスホラーって聞いたから、読むの怖いかなって……」

有無を言わさぬ笑顔とは全く印象の違う、えへへと照れたような笑みを見せる名前に、康一はふと先程聞こえてきた名前と花京院の会話を思い返す。そう言えば虫と怖い話が苦手だって言ってたっけ。平気で虫を退治したり進んで怪談話を聞かせてくるうちの姉とは違って、やっぱり名前さんは女の子らしいな。そう康一が姉本人に聞かれたら不味いことになりそうな感想を抱いたのは、記憶に新しかった。

「(……でもそしたら、名前さんにピンクダークの少年を勧めたのは違ったかもなぁ)」

"ピンクダークの少年"はサスペンスホラーの名を呈すように、何とも言えない気味の悪さが際立つ作品だ。その気味の悪さが面白いと言えば面白いのだが、時には昔から購読していて雰囲気に慣れているはずの康一ですら怖い、気持ちが悪いと思うことだってある。そんな不気味さと怖さを徹底している漫画を、怖い話を聞いただけで眠れなくなる名前が一巻の最後のページまで読めるはずがないのだ。

「うーん……ホラー展開が全くないやつで、女性の名前さんも面白いと思える……あっ!」

漫画好きとしては自分のお気に入りの漫画を知らない人、もっと言えば異性に紹介して、ハマってもらえることが嬉しいことの上位に入る。そのため康一は自室の本棚に並ぶ"ピンクダークの少年"以外の漫画を一瞬にして頭に思い浮かべると、名前でも読めるような作品を絞り出した。きっとこれなら彼女もハマってくれるかもしれない。そんなワクワクとした期待を胸に抱き、康一が隣を歩く名前に視線を向ける。
しかし――。

「――あれ!?」

康一の目は真隣にいる名前ではなく、現れた曲がり角の先にある赤い色をした四角い箱に向けられてしまった。

「康一くん?」
「あのポスト……っ!」

突如として大きな声を上げた康一に、きょとんと目を丸くした名前がどうかしたのかと声を掛ける。が、康一はその声に答えることなく真っ直ぐポストへ向かっていくと、どこか焦った様子で「やっぱり!」と再び大きな声を上げた。

「こ、康一くん? 急にどうしたの?」
「名前さんッ! ここ、一番最初に曲がった角の所ですよ!」
「……え?」
「ほらっ、このポストの横! 誰かが踏んづけた犬の糞が落ちてますよね!? これ、最初の角で見た時に『うわっ、嫌だな』って思ったの僕覚えているんですッ!」
「え、っと……」

必死の形相で今居る場所は地図に載っていないこの道に入ってから、一番最初に曲がった角の所だと訴えてくる康一に、名前は困惑を隠し切れないでいた。ただそれは康一が嘘を言っているだとか、自分が揶揄われているだとか、勿論そんな疑心から来ているものではない。有り得ない事態に彼女は気付いてしまったのだ。

「じゃ、じゃあ……私達はいつの間にか最初の所に戻って来ちゃった、ってこと?」
「は、はい……どうしてかは分からないけど、ぼ、僕達確実に戻って来てます……」
「……っ、」

当たってほしくない予感や思考程よく当たるとは言ったもので、確かに首を縦に振った康一を見た途端、名前の顔から血の気が引いた。
迷わないように曲がり角を"右・左・右"と交互に、しかもまだたったの三回しか曲がっていないのに、一番最初の分岐点に戻って来るなんてそんなこと普通に、そして自然にしていれば絶対に有り得ない。では、普通でも自然でもないとなると、一体これは何が起きて――。

「何やってるんだ?」
「きゃあああああっ!?」

あまりにも特殊で不自然な恐怖心を煽るような事態に、どくどくと心臓を逸らせながらも名前が必死に思考を動かしていると、不意に差している番傘の陰から露伴がひょこりと彼女の顔を覗き込んだ。途端に甲高く、大きな悲鳴が辺りに木霊す。

「っ、こ、怖いぃ……っ!」

ついさっきまでの名前であれば、露伴先生びっくりさせないでよ、と少しムッとした顔で怒られただけかもしれない。だが恐怖心がムクムクと彼女の中で大きくなっている今では、そうもいかなかったようだ。

「お、おいっ名前!?」
「名前さんッ!?」

番傘だけでなく大好きなスイーツの入った袋すら放り投げ、耳を塞ぐように頭を抱えながらその場にへたり込む名前に、図らずも悲鳴の元凶になってしまった露伴と、露伴の行動を静かに見ていた花京院が慌てて彼女の横に膝を着く。
成人済みである大の男二人が慌てふためきながら背を丸め、泣いている一人の女性を必死に慰めようとしている姿は中々に異様な光景だ。

「ど、どうしたんだよ急にっ、」
「ああ、泣かないでください。名前さんに泣かれると、どうしていいか分からなくなる……」
「ううっ、露伴先生きらい……っ!」
「なっ!?」
「岸部くん、君……何したんだい?」
「ただ声を掛けただけじゃあないか! 第一花京院さん! あなたは僕と一緒に行動していたんだから、僕が名前に何もしていないのは知ってるだろ!」
「しかし、名前さんに『嫌い』とまで言わせるなんて相当だぞ」
「だから僕も驚いて荒らげたくもない声を荒らげているんだ!」

反抗的な態度を取ったり、嫌な顔をされたりするのは最早露伴の中では許容範囲だった。他の奴らであれば許せるはずもない言動でも、名前なら笑って流せた。その理由は単純なもので、名前に本心から嫌われていない。そんな自信が露伴の中にはあったからだった。オーソン横で握った手を払われなかったのも、肩に回した腕を叩き落とされなかったのも、つまりはそう言うことだ。そう確信めいていた露伴だったが、彼のその自信はたった今名前からのハッキリとした「嫌い」という言葉に、見事打ち砕かれたのである。

「一体僕が何をしたっていうんだ、」
「あ、あの露伴先生……実は、」

あからさまにショックを受けている露伴が、花京院に慰められている名前を顔を顰めながら見つめていると、康一が恐る恐ると言ったように声を掛けてくる。この時最高に機嫌の悪い露伴が鋭さを増した眼光で睨みつけ、康一を怯えさせてしまったのは言うまでもない。

「フム……なるほどね」

しかし彼の機嫌が悪かったのも、康一の話を聞くまでのほんの短い間だった。

「確かにここは康一くんの言う通り一番最初の曲がり角で間違いない。つまり僕達がここへ戻って来ちまってるのも、また事実……こりゃあ名前がビビるのも仕方がないな」
「ごめんね露伴先生……」
「まあ本心じゃあなかったようだし、その創作意欲を唆られる泣き顔に免じて許してやるよ」
「こ、こんな顔スケッチしないでヨっ、」
「……岸部くんは一度自分の行動を見直した方がいいと思うよ」

康一から一通りの話を聞き、一連の名前の言動はこの状況に怯えてたが故だと知った露伴は、ショックを受けていたことが嘘のように満足気な笑みを浮かべながら、恥ずかしがる名前と冷ややかな目を向けてくる花京院を無視して常備しているスケッチブックにペンを走らせる。

「よし……それじゃあ本題に入るか」

ほんの数秒でまっさらな紙に名前の泣き顔を写した露伴はスケッチブックを肩に掛け直すと、一度この場にいる全員を見渡してから康一へと真剣な眼差しを向ける。

「康一くん。君の『エコーズ』を空に飛ばしてみてくれないかい?」
「えっ? 『エコーズ』ですか?」
「別に花京院さんでもいいんだが……"波長が合わなかった"時の場合を考えて『法皇の緑』は側においた方がいいと僕は思ってね」
「なるほど。確かに僕の『法皇』を残しておいた方が緊急時に身を守る攻撃も、"相手"を探知することも出来るしね」
「……どういうこと?」
「フフッ。岸部くんは、名前さんを脅かすこの状況をスタンド使いの仕業だと睨んでいる……ということですよ」
「! ……スタンド、」
「心霊的な物の仕業の方が漫画のネタ的にも面白いんだが、なんだっけ……ああ、間田くん曰く『スタンド使いは引き寄せ合う』んだろう? だったらこれもスタンド使いの可能性の方が高いと思うぜ」
「そっ、そうか!」

露伴と花京院のお陰で得体の知れない不気味な状況が、スタンド使いの攻撃である可能性が高いと知れた名前と康一は、互いに顔を見合わせると少しだけ表情を明るくさせた。スタンド攻撃をされてる時点で不安は完全に拭えないが、それでも太刀打ち出来ないようなこの世のモノのせいでないのなら充分だ。

「じゃあ上から見てみますね!」

すっかり声色が元通り明るくなった康一が、勢いよく『エコーズ』を空に放つ。しかし――。

「ああああっ!!」

空高く昇っていくはずだった『エコーズ』は、康一が悲鳴を上げると同時に彼の首元へと怯えたようにしがみついてしまった。
再び何かに恐怖しているような、驚いているような表情で空を見上げている康一に、「どうした?」と露伴が訝しげに声を掛ける。

「な……なにか、いる……」
「えっ、」
「今、空中で……何かに触られた!」
「……気のせいじゃあないのか? 僕には何も見えなかったぞ」
「僕も康一くんの『エコーズ』を目で追っていたが、特に異変は見えなかったな……」
「でもっ! さ、触られたんですよ!」
「っ、もう、やだぁ……!」

ここには何かが居ると、一番最初の角にあるポストに気付いた時のように必死に話す康一に、ようやく落ち着きを取り戻して来た名前にも恐怖が伝染してしまったようで、彼女は嫌だ嫌だと子供のように泣きながら花京院にひしっと抱き着いた。

「何なんだ、一体……」
「スタンド使いの仕業なのか、または得体の知れない"何か"の仕業なのかは分からない。が、不思議な力が働いてることは間違いないだろうね」

自身のスタンドと共にブルブルと小動物のように震える康一と、花京院に抱き着きながらくすんと鼻を鳴らして泣く名前。本気でこの状況に怯えている二人を慰めながら、露伴と花京院が全く何も見当たらない空を同時に見上げた。その時――。

「あなたたち……道に迷ったの?」
「「!!」」

不意に彼らの後方から聞き馴染みのない、一つの声が響いてきた。明らかにこちらへ話し掛けているその声に、露伴と花京院が反射的に背後へ目を向けると――。

「案内してあげようか」

そこには、一人の少女が凛と佇んでいたのだ。

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