ピチャリ、ピチャリと大きく引き裂かれた首元から絶えず血を滴らせる一匹の大型犬。その姿はまるで、鈴美が語った創造の殺人事件に登場した女の子の愛犬に、無惨にも命を奪われてしまったアーノルドに酷く似ていた。

「っ、ぁ……う、そ……」
「この犬は、まさか――ッ!」

だからこそ。似ていたからこそ、血を滴らせながらもしっかりと自分の四つ足で立っている大型犬は、名前にとてつもない恐怖を与え、花京院に一つの非科学的な真実を教えていた。

「そう。その女の子ってのはあたしなのよ……『幽霊』なの……アーノルドとあたしは」
「ゆ……幽霊……だと?」
「あんた達は十五年前の『あたし達が死んだ場所』に入り込んだのよ。あたしと波長が合ったのね……ここは"あの世とこの世の境目"なの」
「……も、むり……っ、」

甘えるように擦り寄ってきたアーノルドの裂かれた首元を撫でながら、鈴美がこの地図に載っていない道の正体を"あの世とこの世の境目"と称せば、とうとう恐怖のキャパシティが限界を迎えてしまったのだろう。花京院達の目の前で唐突に名前の体が崩れ落ちた。

「名前さんッ!?」
「おい名前ッ!!」

血が通っていないのではと錯覚してしまう程に顔面蒼白の名前は、どうやら完全に気を失っているようだった。しかし、それも無理はない話なのかもしれない。相当怖がりである名前にとって、本物の幽霊を目の当たりにすることは想像を絶するくらいの恐怖だったに違いない。その証拠に花京院に抱き抱えられた名前は、気を失っても尚顔を恐怖に歪めていた。

「名前さん、」
「うわああああああああッ――!!」

名前が失神する様と、初めて幽霊という存在をその目で見てしまった康一から、先程の絶叫をゆうに超える叫び声が上がる。路地全体に響き渡る程の大絶叫に、その叫びの原因の一つである鈴美の肩が驚いたように少し跳ねた。が、そんな彼女の些細な反応は今の露伴や花京院の気に掛るものではなかったのだ。

「逃げるぞ花京院さんッ!」
「っ、ああ!」

露伴は叫び続ける康一の腕を掴み、花京院は気を失ったままの名前を抱え上げて脱兎のごとくその場を駆け出した。目的は勿論、鈴美から離れるため。そして"境目"から抜け出すために。

「ああああああ――ッ!!」
「まさかこんな事になるとはね……!」
「どうやら僕の『ヘブンズ・ドアー』が読んだのはあの女が"生きていた"時の記憶らしい!」
「なるほどっ、だから彼女が幽霊だなんて分からなかったのか!」
「波長が合ったか何だか知らないが、断りもなく僕らを生死の境目に連れて来るなよなッ!」
「それ、波長が合った他人の記憶を断りもなく読む君が言うのかい……っ、」

ひたすらに走りながらも流れるように会話を交わす花京院と露伴は、腕を引かれながら悲鳴を上げ鼻水を垂らす康一に比べれば一見余裕そうに見える。だが、完全に脱力仕切っている者を一人抱えながらそれなりの速さで走り続けることは、実際問題相当体力を消耗するのだろう。次第に露伴の隣を走る花京院の息は上がり、速度も少し落ち出してしまったのだ。

「っ、康一くん『エコーズ』だ!『エコーズ』を空に飛ばして道を探すんだ!」

ただ、余裕がないのは康一が宙に浮く程の力で引いて走る露伴も同じだったようで、このまま同じ道を繰り返し走っていても悪戯に体力を失うだけだと判断した露伴は、もう一度『エコーズ』を飛ばすように康一へ声を掛ける。航空写真の原理で上から路地を見下ろせば、自分達が目指す出口が分かるかもしれない。そう露伴は康一へと口早に告げるのだが――。

「さ……さっき僕が空中で触ったのは、彼女、だったんだ!」

鈴美と出会う直前、空に『エコーズ』を飛ばした時に触れられたことが康一の中で一種のトラウマと化してしまっているらしい。名前同様恐怖に染まった顔で幽霊に触ってしまったと、ブツブツ呟く康一には残念ながら露伴の声は届いていないようだった。

「ぼ、ぼく……っ、」

精神的に追い詰められている康一の有様は、傍から見ると中々に可哀想なものである。普通であれば気遣う言葉の一つでも掛けるのが正解なのだろうが、切羽詰まっている今の露伴には康一の怯えた様子などまるで関係なかった。

「いいからとにかく飛ばせ康一くんッ!」

露伴は叱咤するように康一へ声を荒らげると、徐に掴んでいた腕を離す。そうすれば、支えを失った康一の体はべしゃっ、と痛い音を立てて地面に叩き付けられた。何とも言えない康一のぞんざいな扱いに、一部始終を見ていた花京院の目が微かに開かれる。ただ、どうやら露伴の唐突な行動は康一の目を覚まさせることに成功したようで、彼は少量の鼻血をつうっ、と垂らしながらも露伴に言われた通り『エコーズ』を空に飛ばした。だが――。

「えっ!?」

空高く飛ばす勢いで放った『エコーズ』は、突如現れた壁によって行動を遮られてしまった。

「なっ……なんで!? く、空中にいきなり壁が現れたぞッ!?」

この"境目"に入って来てから最早恒例となってしまった不可思議な現象。一切慣れることのないその現象に再び見舞われた康一は、たくさんの疑問符を浮かべながら『エコーズ』でペタペタと壁を触る。

「こ、康一くん……『エコーズ』が触っているのは地面だ……」
「えっ?」

しかし、本当の不可思議な現象と言うものは、康一の知らない所で起きていたのだ。

「……気付かなかったのか? 空に飛び上がったのは君の方だぞ……」
「だが……何故康一くんが空に、」

康一本人だけが全く気付けないでいた、スタンドと本体が入れ替わるように動いた現象。その奇妙な現象を新たに眼前へと突き付けられた露伴と花京院は、再び地面にべしゃっ、と体を叩き付けられてしまった康一を見下ろしながら冷たい汗を流す。これもまた、杉本鈴美と言う幽霊の仕業なのだろうか。そんな考えが二人の脳裏に過ぎった、その時――。

「ここから出るには、たった一つの方法しかないのよ」

彼らの前に、彼らの頭を悩ませる鈴美が悠然と姿を現したのだった。

「それはあたしが知っている」

絶望とも希望とも取れる鈴美の凛とした声に、閑静な路地に二人分の息を呑む音と、「取り憑くのはやめてください〜〜ッ!!」と言う悲痛な願いを乗せた叫びが響き渡った。


* * *


「ねえ……うちの高校に出るって言う"幽霊"の噂知ってる?」
「えっ、あの学校そう言う噂あるの……?」
「私も先輩から聞いたんだけど、昔ね――」

学校帰りの道中の話題として花を咲かせるには少々おどろおどろしいものではあるが、どこの学校にも必ず存在する"怪談"について楽しそうに話す二人組の女子高校生。

「……幽霊、かぁ……」

生徒に代々語り継がれる信憑性の薄い話題に花を咲かす彼女らと偶然にもすれ違った名前は、昨日生まれて初めて自身の目ではっきりと見てしまった"少女の幽霊"の姿を思い浮かべた。
死しても尚、この杜王町で生きる人のためにたった一人、誰にも知られない場所で闘い続けてきた気丈で、優しい幽霊――杉本鈴美の姿を。

「……謝らないとな、」

何故杉本鈴美が"あの世とこの世の境目"に入り込んでしまった名前達に接触して来たのか。それは鈴美と彼女の両親とアーノルドの命を身勝手に奪った犯人が、この穏やかで平和そのものな杜王町で未だに人の命を奪い続けている、警察ですら把握出来ていない恐るべき事実を伝えたかったと言う理由だったのだ。
その現実離れした恐るべき理由を花京院から全て聞いた名前は、幽霊は無条件で怖いものと言う勝手なイメージから極度に怖がり、よく知ろうともしないで健気な鈴美の前で意識を手放してしまったことを酷く後悔していた。そして後悔すると同時に、この杜王町には幽霊よりも遥かに怖い存在かもしれない"殺人鬼"が潜んでいることに酷く恐怖し、やるせない感情に襲われていた。

「ほんとに、何も出来ないのかな……」

凶悪な殺人鬼をのさばらしにさせておく訳にはいかない。それは鈴美の話を聞いた誰もが思ったことだった。しかし、あくまで殺人鬼を捕まえて裁くのは警察と裁判所の仕事。一般人である名前達には今まで起きた事件について調べることは出来ても、捕まえて裁く権利はないし、絶対的な使命もないのだ。

「犯人がスタンド使いだったらいいのに、」

相手がスタンド使いでない限りは警察の捜査に手出しする権利も理由も我々SPW財団にはないのだと、申し訳なさそうに話をする花京院を思い出した名前は、不謹慎だとは思いながらも一つの希望的観測を頭に浮かべる。そうすれば花京院を始めとした財団の者達や、承太郎とジョセフの手も借りられるかもしれないのに。そう名前の思考がほとんど願望によって埋め尽くされていった、その時――。

「あっ!」

向こう側から歩いて来ていた少々横幅の大きい中年サラリーマンとすれ違いざまにドンッ、と名前の肩が勢いよくぶつかってしまった。
体格差がある者同士の衝突は勿論華奢な名前の方がその衝撃は大きく、彼女はバランスを崩して車道へふらりと倒れ込んでしまう。

「っ、いったぁ……」

咄嗟に手はついたものの強かに腰を硬い道路へと打ち付けてしまった名前は、体に走る鈍い痛みに顔を歪める。だが、すぐにぶつかった相手のサラリーマンのことを思い出し、名前は慌てて謝ろうと顔を上げる。

「えっ、」

しかし、顔を上げた名前の視界に入って来たのは、今し方ぶつかってしまったサラリーマンの姿でも何でもなく、自分の方へ真っ直ぐと向かって来る一台の白い車だった。

「っ、よけなきゃ……っ!」

目と鼻の先まで迫って来ている車に、何とか歩道に戻ろうと名前は体を起き上がらせようとする。が、こう急がねばならない場面に限って体は思うように動いてくれないらしい。それどころか先程打ち付けた腰の鈍い痛みも相俟って、名前の体は不幸なことにその場から一ミリも移動することは出来なかった。

 ――轢かれる。

車を避けることが出来なければ、力が入らない今の状態の体では車を受け止めることも出来ない。スタンドだって物理的な攻撃は何も出来ないため、最早万策尽きた絶対絶命的な状況に陥ってしまった。

「――っ、」

そんな名前が最後に選んで取った行動は、衝撃に備えて固く目を瞑ることだった。
視覚から情報が得られなくなった今、より機敏に働こうとする聴覚がけたたましい車の急ブレーキ音を捉えた。きっともうすぐ凄まじい衝撃と痛みが来る。そう覚悟を決めた名前が更にぎゅっと目を瞑った。だが――。

「……あ、れ……?」

想像していたような凄まじい衝撃や痛みと言われるものは、彼女の体を襲うことはなかった。

「大丈夫ですかッ!?」

その代わりに彼女の体を襲ったのは、肩を優しく包むよう暖かさと、鼓膜を擽る心の底から心配してくれているような一つの声だった。

「怪我はッ!?」
「えっ、と……」

怪我はしていないかと何度も安否を確認してくれる声に、全く状況が分かっていない名前が閉じていた瞼をそろそろと開けてみれば、金糸の髪を綺麗に整えた身なりの良い一人の男性の姿が目に映った。そして、その男性の奥には今さっきまで迫っていた車が無造作に停められている様子も見て取られ、そこで初めて名前は目の前の男性が車の運転手だと言うことに気付いたのだ。

「あっ、あの……私は大丈夫、です……」
「本当に? どこか痛むところは……」
「ほ、本当の本当に大丈夫ですっ!」

車の運転手として人を轢きそうになってしまったのだから、心配するのは当然のこと。それは充分名前も分かっているのだが、未だ執拗に安否を尋ねてくれる男性に居た堪れなくなった彼女は、咄嗟に声を張り上げながら男性の胸元をそっと手で押した。

「元はと言えば私がフラフラ歩いていたのが悪いんです。だから、少し言い方は悪くなっちゃうけど……そんなに心配して下さらなくて大丈夫ですよ?」
「……しかし、」
「むしろ、私の方があなたに大変なご迷惑をおかけしてしまって……すみませんでした」

人とぶつかってしまったのも、車道側に倒れてしまったのも故意ではなく全て偶然なのだが、それでも自分自身の、考え事に耽っていた自分の前方不注意で目の前の紳士的な男性を事故に巻き込みそうになったことに変わりはない。
そう正直に自分の行動の過ちを話した名前は、男性に向けて深々と頭を下げた。

「……いや。やはり謝らなければならないのは私の方だよ」
「っ、え……?」

だが、男性の思わぬ言葉のお蔭により、彼女の頭はすぐ様上がることになる。

「君は自分の前方不注意が招いた結果と言ったが……それだったら私にも言えることなんだ」
「あなた、にも?」
「ああ。言いづらいことなんだが、私も運転中少し余所見をしてしまっていてね……そのせいで君が倒れていることに気付くのが遅くなってしまったんだ」
「よそみ、」
「今となっては後の祭りに過ぎないが……私がしっかり前方を見ていれば、君が震える程の恐怖を与えなくて済んだかもしれないな」
「……あっ、」

すっ、と優しい手付きで男性に両の手を取られた名前は、またもやそこで初めて自身の手が震えていることに気付いた。

「な、なんで……っ、」
「倒れ込んでいる所に車が止まる気配もなく近付いてくれば誰だって恐怖心を抱くものさ。君のその反応は何も可笑しいことじゃあない」
「……っ、」
「すまなかったね」

震えを治めるようにして優しく手の甲を摩り、安心させるように声を掛けてくれる男性に、名前は心にじんわりとした暖かなものを感じながら彼の大きな手をぎゅっ、と握り返した。


* * *


杜王町の中心部から少し北上した場所にある、古くて立派な家々が並ぶ別荘地体。その別荘地体にある一軒家の中でも一際大きくて立派な数奇屋住宅の庭に、一台の白い車が駐車された。

「着いたよ。ここが僕の家だ」

きっちりと停められた車から降りてきた男は、流れるような自然な動きで助手席の方へ回り込むと、執事のように恭しくドアを開けて中にいる自身の"恋人"へと手を差し出した。

「さ、足元に気を付けて……」

穏やかに笑い掛けながら気遣いの言葉を掛ける男の手に、赤いマニキュアが綺麗に塗られた白い手が重なる。

「この週末は楽しく過ごそうじゃあないか」

少々動きは固いが、自身のエスコートに合わせてついて来てくれる恋人に、男は満足そうに笑みを深めて楽しげに週末の予定を告げていく。しかし――。

 ――あのっ、ありがとうございました!

「…………」

不意に脳裏を過ぎったつい先程出会った一人の女性の笑顔に、男の動きも言葉もピタリと止まってしまった。

「彼女はとても美しい手と顔。それに……とても美しい心をしていたな、」

思い出すは、透き通る程に白く瑞々しい肌と、傷が一つも付いたことのないような華奢で美しい手。そして、同じ日本人とは到底思えない程造形がはっきりとした美しい顔に、思いやりに長けた清らかで美しい心。
一度目にしたら強く印象に残る美しく清廉な女性を鮮明に頭に思い浮かべた男は、隣に恋人が居るにも拘わらず顔を恍惚の色に染め上げた。

 ――こんなこと言ったら不謹慎だなって分かってるんですけど、私っ、相手が吉良さんでよかったです!

「……私も、出会えたのが名前で良かったと思っているよ」

別れ際の女性、名前の可愛らしい笑顔と言葉に今更ながらに反応を返した男――吉良吉影は、恋人を『胸ポケット』に乱雑に仕舞うと、名前との運命的な出会いにゆっくりと浸るため、自宅へと歩を進めたのだった。

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