――ぶどうヶ丘高校、ある日の昼下がり。

「ぼく、由花子さんとチューしちゃった……」

放課後ということもあり、生徒や教師にも使われていない静まり返った実験室に、広瀬康一の上擦った声が大きく響いた。

「こ、こんなこと急に言われても仗助くんと億泰くん困るだろうけど……でもっ、ちょっとだけ相談したいことがあったりしてさ……!」

恋する乙女のように頬を赤らめ、チラチラと視線を彷徨わせながらファーストキスの相手である山岸由花子との相談事があると話す康一。
だが、悲しいかな。『由花子さんとチューしちゃった』という第一声以外の声は、康一が呼び出した頼れる友人の仗助には少なくとも届いていなかった。

「…………」

あまりにも衝撃的すぎる康一のカミングアウトに、意識がどこかへ飛んでしまった仗助。彼は自分が校舎の三階にある実験室の、窓ガラスが完全に開け放たれた窓枠部分に腰掛けているということを忘れ、そのまま体を後ろへと倒してしまった。そうなると、勿論仗助の体は外に放り出される訳で――。

「おわあッ!?」

突如として体に襲い来る浮遊感にようやく我に返った仗助は、わあわあと声を上げながら何とか落ちまいと腹に力を入れ腕をばたつかせる。しかし、さすがの仗助も自力では重力に逆らうことはできず、彼の体はどんどん地面の方へと引っ張られていく。が、ボトッと窓から下に落ちていったのは、仗助が意識を飛ばす直前まで飲んでいた紙パックジュース一つだけだった。

「なにをされただとォ!?」

間一髪のところで『クレイジー・D』に引き上げられた仗助は、それはそれは鬼気迫る表情で「あの女ッ、懲りずにまた何か仕掛けて来たのかッ!?」と康一に勢いよく詰め寄った。
どうやら由花子が康一に対して過去に誘拐、軟禁といった過剰な行いを起こしたことを知っている仗助は、今回も由花子が無理やり事に及んだと思ったが為に激高しているようだ。

「あ、慌てないでっ、そうじゃあないんだ!」

だが、今回はどうにも康一の反応がいつもとは違っていた。彼は、今にも由花子の元に突撃しそうな程の怒りを見せる仗助に落ち着くように声を掛けると、頬を赤く染めたまま恥ずかしそうに仗助から目を逸らした。そして――。

「ボクも、なんか……由花子さんのこと好きになっちゃったみたいなんだ」

目を逸らしたかと思えば、康一は更なる爆弾を仗助の上に落としたのだった。

「えっ!?」
「あの性格がけっこうイイかなぁーって思えたりして、あたたかい気持ちになるんだ……これって恋かな? そこんとこが自分でも……」

胸に抱いた感情が"恋"なのかどうか。女の子とキスをするだけでなく、ちゃんとした初恋もまだ経験していない康一には明確な答えが出ていないようだった。しかし、凄まじい衝撃の爆弾を再び落とされた仗助は、康一にハッキリとした答えが出ようが出まいがどうでもよかった。

「お、おい聞いたかよ億泰! スタンドも月までブッ飛ぶこの衝撃……!」

由花子が強く想いを寄せれば寄せる程、康一は身の危険を感じてより距離を置くようになる。まさに太陽と月の関係にあった二人の急激な変わりように、実験室に来てからずっと外を向いたまま一言も話さない億泰に、仗助は「あの由花子と――」と彼ともこの衝撃を分かち合おうとした。が、仗助が声を掛けたその瞬間、億泰からブワッと大粒の涙が溢れ出してしまった。

「おいおいおいっ、何も泣くこたあねーだろーがよォー!」

異性にモテたい意欲が強く、恋愛ごとに人一倍デリケートな億泰は、どうやら仗助以上に康一と由花子のことで衝撃を受けていたらしい。
イタリアンレストランの"トラサルディー"で、寝不足解消のための天然水を飲んだ時のような滝の涙を流す億泰に、仗助は若干気圧される。しかし、人間という生き物は不思議なもので、自分よりも冷静でない人物を見ると、途端に思考がしっかりと動き出し、冷静になれるのだ。それは、今まで感情豊かに康一のぶっ飛んだ話を聞いていた仗助も同じだった。

「でもよ康一。なんでそんなタマゲタ急展開になったのかは知らねーが、由花子もオメーもお互い好き同士っつーならもう問題は何もねーよなあ〜?」

意外にもしっかりと康一の話を聞いていたらしい仗助は、おめでたい報告のどこに康一の言う『相談したいこと』があるのか、不思議そうに首を傾げた。

「そうじゃあないんだよ〜〜」

もう俺達の出る幕はないだろう。そう言いたげな目を仗助から向けられた康一は、新たに発生した別の問題に大きな溜息を一つ零した。

「あれ以来由花子さん、ぼくに会ってくれないんだ……」

どこか寂しさを孕んだ声とその一言に、問題は何もないだろうと思っていた仗助と、ショックからおいおい泣いていた億泰は「えっ?」と、目を丸くさせる。

「そこがミステリーで、学校を二日も休んでるんだ。電話にも出ないし、伝言とかも……何もないんだ。プッツリ」
「そ、そのチューしちまったつぅ〜〜」
「その日以来ぜんぜん?」
「ぜんぜん……」

首を横に振って由花子から全く何の連絡もないことを表す康一に、すっかり正気を取り戻した様子の億泰が、今まで積極的だった由花子の真逆の行動に「そりゃ実に奇妙だな〜」と、しみじみ呟いた。

「俺はよー、由花子の『愛情の真剣さ』ってやつだけは尊敬していたんだぜェ〜?」
「……でもよォ、その理由は直接由花子に会って聞くしかねーと思うよ」

確かに、今まで『大嫌いだ』と言われても尚、一途に康一だけを想い続けていた由花子が取る行動としては、今回の件は可笑しいところだらけである。しかし、二人が両想いという関係に変わった今、康一と由花子の間に発生した恋愛面の問題に他人が首を突っ込み、とやかく言うのは余計なお世話でしかないのだ。
その事を仗助が康一にやんわり伝えてみれば、康一は少々不安そうにしながらも「……うん」と、仗助に同意するように首を縦に振った。

「でも何か危機が迫ったら知らせてくれ。スッ飛んで行っからよォッ!!」
「ありがとう! じゃあぼく行くね」
「おう。じゃあな」

解決するまではいかなかったが、頼りになる友人達のおかげで、相談を持ち掛けた時より幾分か表情が柔らかくなった康一。彼は真摯に自分の話を聞いてくれた仗助と億泰に礼を言うと、『由花子さんに会ってみよう』という思いを胸に抱いて教室を後にする。

「康一のヤローごときがチューなんぞをっ……うううっ〜〜!」
「だから何も泣くこたあねーだろーがよォ!」

その後ろでは格好良く決めていた億泰が再び大粒の涙を流したり、そんな億泰を呆れたように慰める仗助がいたのだが、既に由花子のことで頭がいっぱいな康一が気づくことはなかった。


* * *


「ったく、億泰よォ……いつまでショック受けてるつもりだよ?」

改造した学生服を着た少々厳つい見た目の男子高校生二人組は、ただ歩いているだけでも人目を引きやすい。登下校中に行き交う人の視線がチラチラと集まるのは、もはや二人組の片割れである仗助にとっては日常となりつつあった。

「オメーにいつまでも泣かれてっと目立って仕方ねーんだけど」

しかし、いくら人の視線に慣れた仗助でも、いつもより多く集まる好奇の目にはどうにも落ち着かないようで、彼は注目を浴びる原因となっている億泰に『いい加減にしろ』と言いたげな目を向ける。

「でもよ仗助ェ! あの康一が由花子とチューしたんだぞォッ!?」
「あのなぁ億泰……康一だって健全な男なんだしよォ、好きな女とキスの一つや二つくらいしたって可笑しくねーだろ」

これが泣かずにいられるかと泣き喚く億泰に、仗助は「確かに最初は俺も驚いたけどよォ」と億泰が受けた衝撃を否定はせずに、それでも何も可笑しいことは起きていないと説いていく。

「それは俺だって分かってんだぜェ〜? 分かってんだけどよォ……康一に先越されたってーのが腑に落ちねーんだよなァ〜〜!」
「分かった。億泰、オメーはもう何も言うな」

大いに悔しがる億泰の目の前に、仗助はバッと手のひらを差し出す。それはこれ以上仲の良い友人の生々しい恋愛事情を知りたくない、聞きたくないという意思の表れであった。

「なんだよ仗助ェ〜」
「オメーの気持ちはよーく分かったっつーことだよ」
「……ホントにぃ〜? 女にモテモテで相手に困らねーだろう仗助くんが俺の気持ちを〜?」
「おいおい億泰よォ、人聞きの悪ぃこと言ってんじゃあねーよ。俺はこう見えて結構純愛タイプなの。誰でもいいわけじゃあねーんだぜ」

普段は見せない優しい微笑みを浮かべながら、『好きな人とじゃなきゃ意味がない』と話す男前な仗助に、億泰は「へえ〜」と感心したような声を上げる。そして一つ、仗助の純愛さを思い出した。仗助はどんなに可愛い女の子から告白されても、答えは全部どストレートな『好きな人がいるから無理っス』だと言うことを。

「(まあ……すぐ近くに年上の美人なおねーさんがいりゃあ、無理もねーわなァ〜)」
「っつーわけで、俺はそんなに軽い男じゃあねーのよ。分かったかい億泰くん?」
「だァーッ! もうわーったよォ!」

立場逆転。途端に面倒くさい絡み方をしてくる仗助に、億泰はシッシッと追い払うように手を動かす。

「仗助が一途で純愛タイプなのは俺もよーく分かったぜェ〜。そりゃあもうひしひしとなァ」
「そーかい。なら良かったぜ」

多少の投げやり感は否めないが、うんうんと納得するように頷く億泰の姿をその目に映した仗助は、自分の恋愛観を正せたことに満足そうに口角を上げる。が、しかし――。

「だからよ仗助ェ〜。康一と由花子の話を思い出して羨ましくなっても、大好きな名前さんを襲ったりはするなよなァ?」
「はァ!?」

二人が別れる場所となる虹村家の前に差し掛かった瞬間、仗助の表情は別れ際の億泰の言葉により、余裕のないものに変わってしまった。

「なっ、なに言ってんだてめーッ!」

思いもよらぬ億泰からの言葉に、純情少年である仗助は頬を赤く染めながら「変なこと言ってんじゃあねーよッ!」と、億泰に掴みかかろうとする。が、すんでのところで仗助が伸ばした手は空を切り、目の前でニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる億泰を、彼の自宅へと逃がしてしまった。

「じゃあなァ、仗助ェ〜!」
「億泰の野郎……ぜってぇ覚えとけよ……!」

玄関のドア越しから微かに聞こえてくる陽気な億泰の声に、仗助は明日必ず仕返ししてやると誓うようにギリッと拳を強く握り締める。

「……帰るか」

だが、何の返事も返ってこない状況にすぐ様冷静さを取り戻した仗助。彼は『何やってんだ、俺』と言いたげな溜息を一つ零すと、虹村家から目と鼻の先にある自宅の方へ足を向けた。

「ったくよォ〜……俺が名前さんに『好きだ』ってコクる覚悟がまだ出来てねーこと億泰だって知ってるくせによォ……名前さんを襲うなとか訳分かんねーこと言いやがって……そもそも覚悟あっても襲わねーし……そりゃあ名前さんとそういうこと出来たらとか、少しも考えなくはねーけどよォ……って俺は一人で何を言ってんだッ!」

距離にしてたった十メートル足らず。その間ブツブツと呪文のように億泰への愚痴を呟いていた仗助は、ポロッと出てしまった本音に一人玄関の前で頭を抱えて悶える。傍から見ればどう足掻いても不審者なのだが、仗助は体裁など気にする様子もなく何度も大きく頭を振った。

「落ち着け。平常心だ、平常心……よしっ、」

自慢の髪型に纏めた髪をふるっと揺らしながら形振り構わず邪念を振り払った仗助は、一度深呼吸をするように大きく息を吐き出してから自宅のドアを開いた。が――。

「ただい――」
「仗助!」
「ぅおッ!?」

どうやら仗助の平常心を取り戻すための深呼吸は、玄関口に仁王立ちで佇む名前の大きな声のおかげで無駄に終わってしまったようだ。

「名前、さんッ……え、なんでそんな所につっ立ってんスかッ!?」

ついさっきまで煩悩塗れる脳内に浮かんでいた名前本人の、まるで母親の朋子が叱ってくる時のように待ち構えている立ち姿に、仗助は顔を青くさせる。もしやあの本音ダダ漏れの独り言を、もしくは億泰と交わした会話のどちらも聞かれてしまったのかと。

「(だとしたらマジでやべーぞ……ッ!)」
「…………」
「(ぐ、グレート……名前さん、見たことねーくらい不機嫌じゃあねーかよ!)」

ここで想い人の名前さんから冷めた目で「気持ち悪い」とでも言われてみろ。確実にショックで寝込む自信がある。そう仗助がマイナスにして、彼にとってグレートに最悪となる思考を展開させていると、不意にムッとしていた名前の顔が明るい笑顔に変わった。

「おかえりなさい!」
「……へあ?」

頭の中を占領しかけていた冷え切った目をした名前の台詞とは似ても似つかない一言に、仗助からは聞いたこともない何とも素っ頓狂な声が漏れた。

「『へあ?』って、何それっ!」
「ど、どういうことっスか? 名前さん怒ってたんじゃあねーの?」

垂れ目がちの目をこれでもかと真ん丸にした仗助は、その目でくすくすと楽しそうに笑っている名前を見つめる。そうすれば、目尻に滲んだ涙を指先で拭っていた名前が「まさか!」と、疑問符をたくさん浮かべている仗助に肩を竦めて見せた。

「帰って来てる仗助の姿が窓から見えたから、ちょっとしたサプライズをと思って玄関で待ってただけだよ!」
「……サプライズ、」
「この感じだと大成功! ……かな?」

すごい驚いてたもんねと、先程の仗助の慌てようを思い出して再びくすっと笑う名前。
悪戯が成功した子供のような名前のその姿に、ようやく状況を理解することが出来た仗助は、「はァ〜〜」と一際長い溜息を吐き出しながらズルズルとその場にしゃがみ込んでしまった。これには笑っていた名前にも「仗助!?」と、焦りの色が浮かび上がる。

「だ、大丈夫っ?」
「全然大丈夫じゃあないっスよ〜! おかげで今でもすんげー心臓うるさいんスけど……!」
「そ、そんなに?」
「そんなにっスよ! だって俺はてっきり名前さんが――」

大袈裟すぎじゃないかと言いたげな名前の声色に反応し、仗助は俯けていた顔を弾かれるように上げる。だが、自分が今まさに墓穴を掘ろうとしていることに気づいた仗助は、「私がどうしたの?」と不思議そうに見下ろしてくる名前から目を逸らすと、グッと言葉を飲み込んだ。

「…………」
「仗助? おーい?」

気になるところで言葉を止めたきり黙り込んでしまった仗助に、名前は一体どうしたのだろうと更なる疑問を抱きながら、仗助の隣にしゃがみ込む。そして、隠すように再び下を向いてしまった仗助の顔を名前が覗き込もうとした、その時――「隙ありっ!」という言葉と共に名前の脇腹が大きな手によって掴まれた。

「ちょっ、仗助!?」
「やられっぱなしは気に食わねーんで仕返しさせてもらうっスよ!」
「仕返しって……、」
「名前さんが擽りに弱いっていうのはリサーチ済みなんスよ! この仗助くんは!」

驚きと困惑の板挟みに合っている名前を余所に声高らかに宣言した仗助は、くびれたウエストをがっちりと両の手でホールドしたまま、器用に指先を使って名前の脇腹を遠慮なく擽り始めた。その途端、名前からは悲鳴にも似た笑い声が上がる。

「あはははっ!」
「どらぁ!」
「やめっ、くふふっ! やめてよ仗助ぇ!」
「だめっスよ! これは仕返しなんスから俺の気が済むまでやらせてもらわねーと!」
「いやぁ〜っ!」

ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる仗助を捉えた名前は、きゃあきゃあと悲鳴を上げながら脇腹を這う指から逃げようと、仗助の腕を掴んで何度も身を捩らせる。だが、仗助が承太郎からリサーチした通り名前は本当に擽られることに滅法弱いようで、止めるように腕を掴むその力は普段の何倍も弱々しいものだった。

「もっ、もう……許し、て……っ!」

擽りに弱すぎるが故に、笑いすぎて息も絶え絶えになっている名前。ここまで来ると言葉を発することすらキツそうな名前の姿に、楽しそうに仕返しをしていた仗助は「しょうがないっスね〜」と、彼女の脇腹からパッと手を離した。

「っ、はぁ……ひっ、ひどいよ……仗助っ、」

地獄のような苦行から解放された名前は、ぐったりとその場にへたり込みながら、生理的に浮かんだ涙で濡れた目で仗助を睨みつける。が、全く迫力も怖くもない名前の眼力は仗助には通用しなかったようで、「おっ、名前さんの泣き顔ってレアっスね〜」と、逆にニヤつかれてしまった。

「もうっ、誰のせいだと……!」
「んー、でもよォ……最初に仕掛けてきたのは名前さんの方なんだぜ? 俺はやられたからやり返しただーけ」
「そっ、それはそうなんだけどさぁ……いやでもなぁ……ちょっとだけやり過ぎな気も、」
「(グレート。やっぱり名前さんチョロすぎ)」

これはリサーチをするまでもないが、名前はこれまた非常に押しに弱い。もちろん一度や二度は言い返そうとしたり、反抗的な態度を取ったりするのだが、相手の意見がどんなに理不尽なものであっても、強く押されれば押される程名前は流されてしまうのだ。

「(……でも、そのチョロいところが可愛いんだよなァ〜……)」

そんな良いところであり、悪いところである名前の素直さが初めて会った時から好印象だった仗助は、「やっぱり仗助の言う通りかぁ……」と案の定流されている名前を見て愛おしそう微笑んだ。そして、微笑むと同時に彼の胸の中では、ひとつの感情が大きくなっていた。

「(ああ。やっぱり俺――)」

「名前さんのことすげー好きだわ」

とある日の午後。穏やかな日常の時間が流れる東方家に、仗助の声がやけに大きく響いた。

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