――杜王町、グリーンロード。

よく手入れされた芝生や木々の青々とした緑が美しい、杜王駅からぶどうヶ丘高校方面へと伸びる一本の通りは、都会や街の中心部では味わえない穏やかな時が流れていた。
余計な建造物などは一つもない。杜王町ならではの綺麗な景観のグリーンロードを憩いの場として選ぶ者は結構多いようで、お昼時になると持参した弁当や近くにあるパン屋の紙袋を持った人々が、大きな木に背中を預けて至福の時間を過ごす姿が頻繁に見て捉えられた。

「……はぁぁ、」

誰にでも癒しを与えてくれる優しい場所。
そんなグリーンロードに、大きな溜息が一つ。

「……なんてこっただヨ……」

晴れ晴れとした青い空と、爽やかな緑が広がる場所には到底似つかわしくない重たげな溜息をついた名前。彼女は嘆くようにボソリと呟いたかと思えば、それはそれは深い溜息をもう一度吐き出してから、抱えた両膝に顔を埋めた。

 ――名前さんのことすげー好きだわ。

「っ、仗助……」

名前の頭の中をグルグルと駆け巡るのは、つい昨日仗助から突然告げられた、彼のひとつの気持ちだった。心から相手を想う、甘くて真っ直ぐな『好き』という気持ち。

 ――承太郎さんと比べたら俺なんてまだまだガキだし、名前さんもこんなガキのこと全然意識してねーと思うけど、俺はそれでも名前さんのことが好きっス。

「もうっ……そんなこと言われたら意識しないわけないじゃん……っ、」

本当はあの場で告白するつもりなど、あの時の仗助にはなかった。ただ名前が好きだと、密かに想うだけで彼は十分だったのだ。だが、その想いを貯めるコップはどうやら既にいっぱいに満ちていたようで、仗助の意思とは関係なくついには外へと溢れ出してしまったようだ。
しかし、予定していなかった告白と言えど、一度口にした自分の想いをなかったことにする程いい加減な男でも、名前への想いが軽い訳でもなかった仗助は、あまりの衝撃に驚き固まる名前へとハッキリと自分の想いを伝えたのだ。
その結果、ジョースター家特有の真っ直ぐで誠実な彼の気持ちに、名前の心は昨日から落ち着きなく大きく揺れ動いていた。

「……なにこのモテ期」

新たに東方仗助という少年からも告白を受け、現在四人の異性から『好きだ』と好意を向けてもらっている何ともハーレム的な状況に、己の膝に顔を埋めながら切なげに目を伏せる名前。
そんな彼女の脳裏にふと浮かんだのは、数日前にエステ"CINDERELLA"のオーナーである『辻彩』に貰った一つの口紅だった。

 ――まだ試作の段階だけれど、この口紅はこれを塗った人の恋に『新たな展開』をもたらしてくれる物なのよ。

「確かに新展開だけどさぁ、」

どんなときもずっと隣にいた幼馴染みとの恋。
時も世界も超えた深愛をくれる吸血鬼との恋。
過酷な旅を一緒に乗り越えてきた友人との恋。
隣に並ぶにはあまりにも魅力的すぎる三人の誰と自分は想いを寄せ合うのだろうか。一体自分は誰のことが家族でも恩人でも友人でもなく、『一人の男のひと』として好きなのだろうか。
恋する気持ちが未だ迷子のままの名前は、少しでも彼らとの恋を前向きに、そして真剣に考えられるような進展があれば今の有耶無耶な関係から抜け出せるかもしれないと思い、彩の魔法が掛かった口紅で自分の唇に色をつけた。
その結果仗助から告白されるという、所望していた展開とは少し違ってはいるが、彩の嘘偽りない言葉通り『新たな展開』を名前は迎えた訳である。

「……よく効く魔法だな」

優秀な魔法使いの強力な魔法が掛けられた口紅をポーチから取り出した名前は、それを手でクルクルと弄びながら「暫くは塗るのやめよう」と小さく決心する。これ以上恋の悩みが増えでもしたら頭が熱で浮かされ、沸騰しかねない。

「はぁぁぁ、」

告白されたことだって、誰かと想いを寄せ付き合うことだって名前は何もこれが初めてだという訳じゃない。それこそ前世の分も含めるのならそれなりに経験はしてきた方だろう。だが、今回のように複数の。それも名前が大切にしている身近な異性から真っ直ぐで、深い愛情を向けてもらうことは生まれて初めてだった。
生まれて初めてだったからこそ、思考回路がショート寸前の名前は、本日三回目となる大きく、深い溜息をついた。

「幸せが逃げてしまうよ」

その瞬間、ぼーっと魔法の口紅を眺めていた名前の頭上から彼女以外の声が響いた。

「――ッ!!」

明らかに自分に向けて発せられた一言に、まさか近くに人がいると思いもしなかった名前は大袈裟に体を跳ねさせる。そして――。

「あっ、あなたは……!」
「やあ。また会ったね」

顔を上げて声の主の正体を目に映した名前は、そこにいた思わぬ人物の姿に息を呑んだ。


* * *


陽の光を浴びてキラキラと輝く金糸の髪を後ろに撫でつけ、高級ブランドスーツとシャツを身にまとい、印象に残る特徴的な柄のネクタイで襟元をスマートに締めた一人の男性。

「――吉良さん」

忘れたくても忘れられない。それ程衝撃的な出会いを果たした男性――吉良吉影との予期せぬ再会に、名前は彼を見上げながらポツリと覚えていたその名を呟く。

「隣、いいかい?」

耳に届いたこの世に生を受けてから三十年以上付き添っている己の姓に、嬉しそうに目を細めた吉良は、徐に名前の横を指し示した。

「……?」
「今日は天気も良いし、外で昼食でもと思ってこのグリーンロードに来てみたら偶然君を見つけてね。一人で食べるよりは……と勝手ながら声を掛けさせてもらったんだ」

きょとんとする名前に理由を説明した吉良は、もちろん無理強いはしないよと、肩を竦めて少しだけ申し訳なさそうに笑う。その姿にハッと我に返った名前は慌てて持っていた口紅をポーチに入れ、体の横に置いてあったバッグを退かすと、吉良が座れるようにスペースを空けた。

「ど、どうぞっ!」
「ありがとう」

唐突の声掛けに嫌な顔をせず快く受け入れてくれた名前に、今度はハッキリ「嬉しいよ」と言葉にした吉良は、笑みを零しながら柔らかな芝生の上に腰を下ろした。

「(わぁ……いい匂い、)」

隣に吉良が座ったことで、ふわりと鼻腔を擽るベルガモットの爽やかな香り。

「(なんか大人って感じだなぁ……)」

甘すぎないその上品な香りは吉良という男性によく似合っていて、名前の胸をときめかせた。

「――名前」
「っ、ひゃ!?」

まだまだ未熟な自分自身とは違い、余裕のある大人が隣に座っている。その状況に恋とはまた違った憧れのような感情からドキドキと鼓動を逸らせていた名前だったが、不意に耳元で聞こえてきた自分の名を呼ぶ低い声と、右手に触れた温もりに肩をも跳ねさせた。

「き、吉良、さん……?」

驚きから先程までとは違うリズムで跳ね出した心臓を左手で押さえながら、名前は恐る恐る右隣を見る。するとそこには、二度顔を合わせただけの所謂他人と接するには些か近すぎる距離に、穏やかな笑顔を浮かべた吉良の姿が。

「……あの、」
「体調はどうだい?」
「えっ?」

パーソナルスペースで言うならば密接距離と呼ばれる、家族や恋人といったような親しい相手しか許されない距離間にいる吉良に、名前は戸惑いを見せる。が、唐突に尋ねられた体調の良し悪しに目を丸くさせた。

「え、えっと……」
「どこか痛むところは?」

気にかけてもらえていることは理解できても、残念ながら吉良の質問の意図は未だ分からず。しかし、何かを思って尋ねてきているであろう吉良を無視する訳にもいかず、名前は目をパチパチと瞬かせながら現在の何の問題もない自身の体調を吉良に伝える。

「大丈夫、です?」

疑問形に疑問形で返すような、誰がどう見ても状況を理解できていない者が何とか捻り出したとりあえずの返答。だが、それでも吉良は十分に満足できたようで、彼は「良かった」と安堵の息を吐き出した。

「あの後ずっと気になっていたんだ。奇跡的に車との衝突はなかったが、万が一ってこともあるだろう? もしかしたら私と別れた後に体に不調や痛みが出てしまっているんじゃあないかってね……」

そう言って吉良は触れている名前の右手に視線を移すと、傷一つない透き通るほどに真っ白な手を見て「でも本当に良かった」ともう一度安堵の気持ちを吐露した。そして、慈しむように滑らかな肌の上を、手入れの施された吉良の指先がつーっと優しく撫でたその時――。

「ごめんなさい!」

突然の謝罪と共に、名前の手が吉良の元から離れていった。

「……名前?」

予想だにしなかった名前の言動に、ダークブルーの瞳が驚きから丸くなる。そんな吉良の瞳に映り込んだ名前は、ワタワタと何故か慌てていた。

「どうしたんだい?」
「吉良さんがそこまで私のことを心配してくださっていただなんて思わなくてっ、」
「心配もするさ。だってあの日君は――」
「いやっ! 本当なら巻き込んでしまった私の方が吉良さんに怪我のこととか、どこか体の異変がないか聞かなきゃいけないのに、私ったらぽけーっと考え事ばかりしてて何も……!」

何て無礼なことをと、まるでこの世の終わりのような悲愴感に溢れる表情で落ち込む名前。

「……フフッ!」

慌てふためく様子から一転。今度は見事な落ち込みっぷりを見せる名前に、彼女の表情がコロコロと変わる様を目の当たりにした吉良は思わず破顔した。

「ううっ、」

くすくすと吉良が笑う度、名前の肩と見えない尻尾がシュンと下がっていく。恐らく自分の不甲斐なさを笑われていると名前は思っているのだろう。だがしかし、吉良が笑う理由は彼女の別のところにあったのだ。

「本当に君は……」

初めて会ったあの日にその片鱗を薄々感じ取ってはいたが、今のやり取りで吉良は確信した。名前は『超』が付くほどの、なぜ自分が気遣われているのか分からないぐらい他人を思い遣れる人物だと。

「これだから――」

あの日盛大に道路へと転んでいたのは名前だと言うのに、心配してもらえていることに酷く驚き、挙句には相手を気遣えなかったことに酷く落ち込む。もはや聖人の域に達する程の清らかで美しい心を持つ名前に、一目見たときから彼女に好印象を抱いていた『吉良吉影』が強く惹かれるのは必然的であった。

「――益々名前が欲しくなったよ」

とある日の昼下がり。気持ちのいい晴れ間が広がる青空の下で、平々凡々な男の裏に隠された獰猛な獣が、目の前にいる極上の獲物に牙を剥いた。


* * *


その猫は偶然通り掛かった場所で見た、他とは比べ物にならないくらいに白く美しい手足と、ガラス玉のように丸い蒼色の目が特徴的な大変美しい顔を持った兎に興味を抱いた。
それから数日後。あの日からずっと美しい兎のことで頭がいっぱいだった猫は、またもや偶然通り掛かった場所で、頭の中に思い浮かべていたその兎の姿を目にすることができた。
一羽だけでちょこんと広場に座る兎の姿を目にし、この絶好のチャンスを逃す訳にはいかないと心に決めた猫は、ずっと欲していた兎の喉笛に勢いよく噛みついた。


「――グレート」

夕暮れに染まった定禅寺の一角にある広場に、東方仗助の口癖が小さく響いた。

「……ひでぇな、これ」

キュッと顰められた眉の下。ゆらゆらと揺れ動く仗助の瞳が見据える先には、四肢をだらりと投げ出して横たわる一羽の兎がいた。
その兎は元々は純白の綺麗な毛並みをしていたのだろう。だが、今この場にいる仗助の目に映る小さな姿は、赤黒い血に塗れていた。

「襲われたのか」

もっとも濃く変色した首元に、辛うじて見える鈴がついた首輪。それから察するに、どこかの家で飼われていた兎が何らかの理由で外に出てしまい、不運にも他の動物に目をつけられ襲われてしまった。

「痛かっただろーな、」

小さな体に残った噛みちぎられたような痛々しい傷跡。それを見た仗助は『クレイジー・D』でその傷を治し、血の汚れもさっぱり取り払い兎を元の綺麗な姿に戻してあげると、失くなった尊い命を悼むように持っていたハンカチを上にかけた。

「見つけてもらえるといいな」

このままの状態で置いていけば、また違う動物に傷つけられてしまうかもしれない。そうならないためにも本当は埋めてあげることが最善なのかもしれないが、きっと今頃この兎の飼い主は必死に探していることだろう。
だから仗助は敢えて兎をそのまま残す道を選んだ。望んだ形ではないが、また家族が再会できるようにと。

「……なんか、すげぇ名前さんに会いたくなってきた」

広場を後にした仗助は、どことなく重く感じる足を動かしながら家路を急いだ。
この偶然出くわした悲しい事件において名前は一切関係ないのだが、なぜか仗助の胸はざわつきを覚え始めていた。

「きっと考えすぎだろーけど」

ただの思いすごしに過ぎない。名前を表すものの一つである『兎』が、名前と初めて出会ったあの広場で血だらけで死んでいたのも全て偶然のこと。特に意味なんてない。

「……うん。ある訳ねーわ」

少しだけあの兎と、数ヶ月前に白いチャイナドレスを血に染めて広場に倒れていた名前の姿が重なって見えてしまった。しかしあの時名前は疲弊しきっていただけで、怪我なんか一つもしていなかった。それが圧倒的な違いである。兎は兎でも、最強の『夜兎』である彼女はそう簡単には居なくならない。きっと家に帰れば名前のことだ。例え昨日の気まずい件があったとしても、「おかえり」と出迎えてくれるだろう。
そう自分に言い聞かせ、嫌な光景と予感を頭から振り払った仗助は、見えてきた実家に足の歩幅を広げた。しかし――。

「――え?」

見慣れた扉を開けた先。そこで出迎えてくれた母親の朋子に告げられた一言によって、仗助の心は再び大きな不安に包まれることになった。

「名前ちゃんなら帰ってきてないわよ」

東方家に名前が来てから、何の連絡もなしに彼女が家に戻らないのは初めてのことだった。

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