――6月24日。午前8時00分。

爽やかな朝の日差しが差し込む和室の一室に、パチンッ、パチンッと何かが弾けるような音を断続的に奏でる吉良吉影の姿があった。
安眠を送るために肌触りと着心地の良さで選んだ寝間着からお気に入りのブランドスーツに着替え、さらりと流れる金色の髪を整髪剤で後ろに撫でつけ、綺麗に身なりを整えている吉良。そんな朝の支度を完璧に終えている吉良の右手には『爪切り』が一つ、握られていた。

「今回は一段と伸びるのが早いな」

だいぶ長く伸びた爪を眺めながら小さく呟いた吉良は、その余分に伸びた部分をパチンッ、という音を立てて切り落とした。どうやら今の一連の行動からして、先程から吉良が部屋に響かせていた音は爪を切る音だったようだ。

 ――パチンッ、パチンッ。

テレビもラジオもついていない静かな部屋に、ただただ吉良が自身の手先を整えていく音だけが鳴り響く。出勤前の慌ただしい僅かな時間の中で、朝食を疎かにしてまで爪切りを優先させる彼に、誰も声を掛ける者はいなかった。
父親と母親を早くに亡くし、尚且つまだ独身の身である吉良は、生まれ育った実家で一人悠々自適に暮らしていた。そのため町の中心部から少し離れた吉良家では彼自身やテレビ、ラジオ等の家電以外から声が聞こえてくることは殆ど無い。殆ど無いのだが、今朝は違った。

「吉良さーん!」

吉良しかいないはずの広い家に、彼の名を呼ぶ女性の可愛らしい声が一つこだました。
声を張っているからか耳朶に残っているものよりも少しだけ高めの声色に、無心で爪の手入れに勤しんでいた吉良の口角がゆるりと上がる。
職場でよく耳にするような甲高い声ではなく、耳障りの心地がいい彼女の声に朝から呼ばれるのはとても気分がいいと、普段とは一風違った朝にふっと表情を緩めた吉良が自身の手元から顔を上げた瞬間――。

「吉良さんいますか?」

タイミングを見計らったかのように、開きっ放しになっていた障子の陰から珍しい髪色をした頭がひょっこりと飛び出してきて、蒼く大きな瞳が吉良のものとパチッとかち合った。

「あっ! 吉良さんまだいた!」

その途端、吉良の姿を探して彼の部屋へと顔を覗かせた彼女――名前の表情が、パッと花が咲くように明るいものへと変わった。

「ちょっと手間取っちゃって、もう吉良さんが出掛ける時間になってたらどうしようと思ってお部屋を訪ねてみたんですけど……!」

スーツに着替えて身支度はきちんと整えられているが、どうやらまだまだ出社する気配のない吉良の姿に、名前は「朝ご飯間に合ってよかった〜!」と、ホッと胸を撫で下ろした。

「フフッ。そんなに心配しなくても名前の手料理なら例え就業開始時間を過ぎてでも食べてからいくよ」

勝手知らぬ人の家のキッチンで、ずっと時間に気を遣いながら朝食作りをしていたであろう健気な名前に、吉良は冗談交じりに肩を竦めながらクスッと小さく笑って見せた。
今の会社に勤めてから無遅刻無欠席を貫いてきた吉良としては、なかなかに攻めたジョーク。だが、その攻めたジョークのお蔭で名前の張り詰められていた気も完全に緩んだようで、彼女は「なんてこった!」と茶目っ気たっぷりの笑顔を吉良に向けた。

「なら尚更急ぐ必要がありましたネ!」
「おや……良かれと思ったんだが、どうやら逆効果になってしまったようだね」

吉良のジョークに乗って悪戯っ子のように白い歯を見せて無邪気に笑う名前。彼女は失敗したなと言うように首を横に振る吉良を見るや否やパンッと両手を合わせると、「遅れないためにも今すぐ朝ご飯食べましょ!」と、吉良を温かな食事が待っているリビングへと誘った。

「そうだね。せっかく名前が私のために作ってくれたんだから、冷めないうちに頂こうか」
「ぜひっ! ……あ、でも、あんまり期待しないでくださいね?」
「楽しみだな」
「あり? 聞こえてなかったのかな?」

欲しい答えの真逆をいく吉良に名前が可笑しいなと首を傾げる一方で、吉良は口元を歪めた。
誰かの、ましてや異性の手料理など久しく食べていない吉良にとって、今回の名前の『お礼』と称した申し出はあまりにも魅力的だったし、気分を高揚させるには十分なものだった。
そう、彼の気持ちは今過去最高に昂っていた。

 ――君の"すべて"が欲しい。

「ん? なにか言いましたか?」
「いいや何でもないよ。さ、早く行こうか」

名前の背中をやんわりと押す大きな手。つい先程整えられたばかりだというその両の手の爪が、この短いやり取りの間に伸び始めていることに気づいた吉良は、正直すぎる己の欲望にニヤリと口角を上げた。


* * *


――6月24日。午前8時05分。

「おーい仗助ェ! 迎えに来たぜ〜!」

虹村億泰の登校前のルーティンには、自宅から目と鼻の先にある友人宅――もとい東方家に、髪型を整えることについ熱中してしまい、遅刻するかしないかのギリギリの時間になりがちな仗助を迎えに行くというものが含まれていた。

「わりぃな億泰」

最初は『小学生じゃあねーんだからやめろ』とだいぶ仗助も嫌がっていたものだが、今ではこれが彼らの当たり前の日常となっていた。

「あれェ〜?」

だが、その当たり前の平和な日常に足りないものが一つ。そのことに気づいた億泰は、「なんだよ?」と訝しげな目を向けてくる仗助の背後に見える閉まった玄関のドアをじっと見つめながら、「なあ」と仗助に尋ねた。

「今日は名前さんいねーのかァ?」

いつもの日常に足りないもの。それは名前の存在だった。

「いつもなら『行ってらっしゃい』って見送ってくれんのによォ〜」

東方家に居候をしている身である名前は、日直当番で登校が早い日でも、うっかり寝坊をして家を出るのが遅くなった日でも、晴れの日でも雨の日でもいつでも家の外まで出てきて仗助と億泰の背中を見送っていた。

「俺はよォ〜、名前さんのあの見送りに一日のやる気を貰ってたんだぜェ? それがないってなるとどうにも調子狂っちまうなァ……」

登校日の朝に名前が言う『行ってらっしゃい。今日も頑張ってね』の言葉は、それはもう毎度億泰の心に深く染み渡っていた。慕っている名前から何度聞いても飽きることのないその一言があるかないかでは、一日のモチベーションというものが違うのだ。
だから思わず名前の見送りがないことを非常に残念がり、ついつい心境を吐露してしまった。

「……名前さんならいねーよ」

その瞬間、不機嫌そうに顔を歪ませた仗助が吐き捨てるように億泰へと言葉を掛ける。
すると、億泰は特徴的な三白眼をパチリと瞬かせながら「えぇ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「やっぱ名前さんいねーのォ?」
「だからそうだって言ってんだろ」
「なんでだよ?」
「なんでって……」

さすがと言うべきか相変わらずと言うべきか。明らかに名前が留守だという話をする仗助は不機嫌丸出しだと言うのに、そんなものまるで気にしていない――と言うよりそもそも気づいていない億泰は「なんで? どうして?」と仗助に名前がいない理由を問い詰める。
これには苛立っていた仗助も何だか拍子抜けしてしまい、痛む頭を押さえるかのように額に手を当て、ポツポツと億泰に昨夜名前が帰ってこなかったことを話した。

「へェ〜。名前さんがねェ……」
「ああ。何の連絡もなしに名前さんが帰ってこねーのは初めてだからよ、ちこっと……っていうかだいぶ心配っつーかさ」
「確かに、あの律儀な名前さんから連絡ないっつーのはちと変だなァ〜」

詳細を聞いた億泰は、「やっぱそう思うよな」と溜息混じりに同意を求める仗助にウンウンと頷いてみせる。仗助よりも名前と一緒にいる時間は少ないが、それでも億泰でさえ昨夜の名前の行動には違和感を覚えた。
どこかに泊まるにしても、彼女の性格からして世話になっている東方家にそれを知らせる連絡を入れないのは可笑しい。だが――。

「まあ、でもよォ……名前さんのことだから承太郎さん達の所にいんじゃあねーの?」

この杜王町には名前が誰よりも信頼を寄せている男が四人もいるのだ。それも皆が皆、誰が見ても明らかな程に名前を溺愛している。

「こう、安心感ってーのォ? 承太郎さんとかジョースターさん達と一緒にいるうちに和んじまって、名前さんもうっかり連絡忘れちまったんじゃねェ〜?」
「……それは、」

勿論その可能性は仗助も考えなくはなかった。実際名前は過去に何度か承太郎達が宿泊するグランドホテルに泊まったことがあるし、杜王町で頼れる人物が東方家の者しかいなかった頃に比べれば外泊することが多くなっていた。
だが、その際にも必ず連絡はあった。それが名前自身だったり、承太郎や花京院が代わりに電話を掛けてきたりとその日によって人物はまちまちだが、連絡を怠ることは一切なかった。

「俺もよく分かんねーんだけどよ、なんか嫌な予感がするっつーか……」

だからこそ仗助は、連絡の一つもなしに帰ってこなかった昨夜の名前に対して一抹の不安を抱いていた。もしかしたら彼女になにか起きているのではないか、と。

「なあ仗助ェ〜。大好きな名前さんが居なくて寂しいのは分かっけどよォ、ちょっと考えすぎじゃあねーの?」
「考えすぎ、ね……」
「あれだろ? 大方仗助の告白のせいで名前さん気まずくて帰れないのかもしんねえなァ〜」
「あぁ〜、確かに唐突だったからなァ……それはそれで一理ある、って――ハアッ!?」

億泰に指摘され、仗助はそう言えばそうだったなと一昨日の自分の行動を思い出す。同じ屋根の下に暮らす年下の高校生に『好きだ』なんて突然言われたら、顔を合わせるのも少し気まずく感じてしまうかもしれない。女心とは複雑なものなのだと、母親がよく口にしていた言葉を思い浮かべ「億泰もたまには痛いとこ突いてくるじゃあねーか」と仗助はふと空を見上げる。
だが、億泰の口から『告白』という言葉が出てきたことに遅かれながら気づいた仗助は、「億泰テメーッ!!」と思わず友人の両肩を力強く鷲掴んだ。

「おまっ、なんで俺が名前さんに告っちまったこと知ってんだッ!?」

誰も知らないはずだった。人生初の告白のことは自分と名前の二人だけの問題にしておきたかった仗助は、名前への恋心を知っていた母親や祖父にも話していなかった。だからこそ誰も知らないはずなのに、なぜ億泰はそのことを知っているのか。

「まさかオメー盗み聞きしてたんじゃあねーだろうなッ!?」

名前が億泰に恋愛事を相談をするとは思えないしと、筒抜けになった理由が皆目見当もつかない仗助は、それはもう鬼気迫る表情で億泰に詰め寄る。が、しかし――。

「え、告ったって仗助……マ、マジに言ってんのか?」

返ってきた億泰の反応は、仗助が思っていたものとは大分かけ離れていた。

「は、億泰……オメー知ってたから俺にその話したんじゃあねーのかよ……?」
「お、俺はよォ〜、ちょっとからかうつもりで言ってみただけだぜ……」
「……じゃあマジに知らなかった?」
「……おう」

仗助と億泰の間に訪れる重い沈黙。それを先に破ったのは――。

「グレートッ!!!」

見事に墓穴を掘ってしまった仗助だった。彼は本当に誰にも話していなかったし、億泰も盗み聞きなんて真似はしていなかったのだ。

「最っ悪じゃあねーかッ!!」

いつもの仗助ならまだ冷静に考え、行動していたかもしれない。しかし、今の仗助は得も知れぬ不安を胸に抱いていて少々普段見せる冷静さを失っていた。そこに秘密にしていた事柄をたとえ偶然だとしても言い当てられてしまえば、動揺するのも無理はないだろう。

「くそっ、マジかよ……!」
「へェ〜……仗助が告白……へェ〜」

悲しいかな、盛大に自分から暴露してしまったことに頭を抱える仗助。その横では億泰が羞恥に悶える仗助をぽけーっと眺めていた。が、次第に彼の表情はニヤニヤと何とも楽しげに歪んでいった。

「なあなあ仗助く〜ん。馬鹿な俺にもよォ〜、しっかり分かるよーにもっと詳しく教えてくれませんかねェ〜?」
「〜〜っ、ぜってぇ嫌だッ!!!」

全力でからかう気満々の億泰を、全力で突っぱねる仗助の声が朝の爽やかな空気が流れる杜王町定禅寺にこだます。よく通る声に彼らと同じように通学、通勤途中の人々がちらりと視線を投げるが、恋愛事に興味が湧く思春期丸出しの今の二人には全く気に掛からなかった。

「康一に続いて仗助ェ! オメーまでも俺を裏切るつもりなのかよォ〜!?」
「だから違うっつってんだろッ!!」

そう。すぐ横の広場でハンカチの下に隠されていた兎の綺麗な体に再び猫が噛みついていたことさえも、億泰とじゃれ合う今の仗助は気づかなかったのだった。


* * *


――6月24日。午前8時30分。

こくり、こくり。
すっかりと綺麗に片付いたダイニングテーブルの一角に、何度も小さく船を漕ぐサーモンピンク色の頭が一つ。

「――名前」

ブランドスーツの上に紺色のエプロンを掛け、ほんの少し前まで流し台に向き合って朝食時に使用した皿を洗っていた吉良は、ゆらゆらと不規則に揺れ動く名前の頭部に気づくと「大丈夫かい?」と声を掛ける。

「……名前?」

声を掛けても名前からは何の反応もなかった。そのためその様子を少し不審に思った吉良は、俯いているせいで長い髪の毛に隠されている名前の顔を覗いてみることにした。

「おやおや」

するとどうだろう。すっと指先で柔らかな髪を避けながら名前の顔を覗き込んだ吉良の目に、あどけない寝顔が飛び込んできたのだった。

「フフッ。本当によく眠っているね」

本来食後にすぐ睡眠を取るということは、胃や腸の働きを低下させ消化不良を起こしてしまうため健康面に良くないことである。健康に人一倍気を遣っている吉良からしたら以ての外の行為でしかないのだが、赤ん坊のようにすうすうと気持ちよさそうに眠る名前を見る吉良の表情はとても満足げだった。

「本当はすごく悩んだんだ。大事な名前の体内に医者から処方された物とは言え、薬品を取り込ませてしまうことにね」

吐息で髪が揺れる程近づいても起きる気配のない名前の頬を撫でながら、吉良は聞こえていないと分かっているはずなのに何やら名前に対して言い訳のような言葉を並べていく。

「だが、それ以上に名前が私の元を去ってしまうことがどうしても我慢ならないんだよ。君は私が求める理想そのものなんだ。だから――」

 ――私が帰ってくるまでここで良い子で待っているんだよ。

リビングルームを出て自室とは別の部屋に名前を運んだ吉良は、そこに敷いた布団の上に名前をそっと寝かせる。そして、華奢で真っ白な手を取ったかと思えばその手の甲に口付けると、彼は「行ってきます」の一言を残して出勤するために家を後にしていった。

「こんなにも早く家に帰りたいと思う日は今までにあったかな」

愛しい人が自分の家で自分の帰りを待っているという状況に、吉良は植物のような静かで落ち着いた心をいつになく浮つかせていた。

「ああ……名前のあの白く美しい肌に早く触れたいよ」

いや、そもそも吉良の心は昨日名前を自宅へと連れ込んだ時点で相当浮ついていたのかもしれない。その証拠に――。

「――吉良さんは間違いなくスタンド使いだ」

睡眠薬を飲ませてまで眠らせたはずの名前が実は寝たふりをしていたことも、吉良吉影という男に大きな不信感を抱いていたことさえも彼は知らずにいるのだから。

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