空条承太郎にとって華の高校生活最後の冬は、忘れたくても忘れられない、大切な人を失くしてしまった深い悲しみだけが残る最悪なものとして、彼の心に刻まれることになった。


――1989年、1月下旬。

この日、日本の首都である東京の空は、暗灰色のどんよりとした分厚い雲に覆われていた。
天気予報では東京に今年初となる雪が降ると予想されており、それに伴ってかいつもより一段と冷え込んでいて、痛いくらいの冷気が街ゆく人々の肌を遠慮なく突き刺す。
そんな誰も彼もが外に出ることを嫌がりそうな程低い気温の中、普段と何ら変わらない改造した学生服と制帽を身に着けた空条承太郎は、学校の屋上で堂々と煙草を吸っていた。

「…………」

意外に頑丈なフェンスに寄り掛かりながら白い吐息と共に煙を吐き出した承太郎は、ちらりと今にも雪を降らせそうな空に翠色を向ける。

「……随分と、暗えな」

明るい太陽をすっぽりと包み隠す程広がる分厚い暗灰色の雲。それはどこか"あの日"から心に掛かったままずっと晴れない喪失感と酷く似ていて、承太郎はその既視感ある冬の空を柄にもなく憂いた様子でぼーっと見上げ続ける。

 ――ギィィィ…、

どのくらいそうしていただろうか。たった1,2分かもしれないし、10分かもしれない。
未だ覇気のない姿で空を見上げる承太郎の人差し指と中指の間に放置されていた煙草の、無駄に長くなった灰が重力に耐え切れずぽとりと落ちたその瞬間、突如として屋上の少し錆びた扉が嫌な音を立てながら開かれた。

「ここに居たんだ」

滅多に人が立ち寄らないため、静かな場所を好む承太郎には憩いの場であった屋上。その重たい少々錆びた鉄の扉を開けて姿を現したのは、共に世界を回り、共に死線を潜り抜けてきた友人――花京院典明だった。

「……花京院」
「校内のどこにも居ないからもしやと思って来たんだけど……まさか本当に居るとは、」

校内よりも気温の低い外気に触れたことで寒そうにしながら、「…君、寒くないのかい?」と尋ねてくる花京院を一瞥した承太郎は、短くなった煙草を地面へと投げ捨て足で踏みつける。
ぐりっと履き慣らしたローファーの底で煙草の火を消し、ズボンのポケットにすっかりと冷え切ってしまった両手を突っ込みながら「何か用か?」とわざわざここまで探しに来た用件を促せば、花京院は白い息を吐きながら柔和に笑った。

「もうすぐ授業が再開される時間だからね。君を呼びに来たんだよ」
「……そんな時間だったのか?」
「まあね」

花京院にそう言われ、屋上に来てから全く見ることのなかった愛用の腕時計に承太郎が視線を落としてみれば、休憩時間として貰った20分が経過しようとしていたのだ。
あっという間に過ぎてしまった時間と、20分もの間たった一本の煙草を吸いながら物思いに耽っていたことに、承太郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「承太郎が全然戻って来ないからそのままフケたのかと思ったよ」
「……んなわけねえだろ、」
「ふふっ、冗談だよ。補習授業まで受けなかったらジョースターさんとSPW財団が口利きしてせっかく得られた卒業権が無くなるしね」

学業よりも大切な目的がエジプトにあった承太郎と花京院は、約50日間という決して短いとは言えない間無断で高校を休んでいたのだ。
授業には出ていない。出席日数も足りないとなれば、承太郎も花京院も留年してしまうことは火を見るよりも明らかで、確定事項だった。
しかし、留年の危機に陥っていた学生の彼ら二人に救いの手を差し伸べたのが、ジョセフとジョセフが懇意にしているSPW財団であった。

 ――わしらに任せとけばいいんじゃよッ!

頼もしい台詞を残したジョセフがSPW財団と共に学校側とどんな交渉をしたのか詳しくは聞かされていないが、何はともあれ彼らのおかげで補習授業さえ受ければ無事に承太郎は卒業、花京院は進級となる権利を得ることが出来た。
そのため首の皮が一枚繋がったような状態の承太郎は、他の三年生が自由登校期間としてほとんど学校に来ていない中、サボることなく補習授業にしっかりと参加しているのである。

「存外真面目な君がジョースターさんの善意を無駄にすることはしないって最初から分かってるよ。ただ……」

自身の将来のため。そして、手を差し伸べてくれたジョセフへ敬意を払うように真面目に補習授業に出席している承太郎が授業が開始される時間も忘れ、寒空の下何をするでもなくぼーっとしていたのか。それは――。

「名前さんのこと」
「……っ、」
「考えていたんだろう?」

"名前"
この世界に一人しかいない大切な幼馴染みであり、一途に想い続けている女性の名が花京院から飛び出した途端、承太郎の眉間にはこれ以上ない程皺が寄せられた。

「……承太郎は彼女のことになると本当に分かりやすいね」

どんなことにも動じず、いつも冷静沈着でポーカーフェイスを保つ学校一の不良である男。そんな彼が極普通の男子高校生のように誰がどう見ても分かりやすく、最早肯定しているとしか思えない反応を示した様子に、花京院はふっと少し呆れが混じったような、それでいて優しげな笑みを浮かべた。

「……でも、それじゃあ時間を忘れるのも仕方ないのかもしれないな。僕だって彼女のことを考え出したらキリがないし……よく母さんに上の空だって指摘されるよ」

DIOによって開けられた腹部の穴を治し、気が狂いそうになる程の痛みまで綺麗さっぱり取り込んでくれた命の恩人のことを、名前のことを考えるなという方が無理な話である訳で。
消え行く意識の中で最後に聞いた「必ず迎えに来るから」という優しい声と、両手に感じた優しい温もり。名前があの時確かに側にいた証であるそれらを思い浮かべた花京院は、感傷に浸るように静かに目を閉じた。

「まだお礼も、気持ちも伝えていないのにどこに行ってしまったんだろうって何度も考えてしまう……知り合って間もない僕ですら信じ難い現実にまだ戸惑ってるんだから、名前さんとずっと一緒だった承太郎はもっと――」
「やめろ」

たった三文字。その短い一言に含まれた殺気とも捉えられる怒りの感情に、花京院は言葉を紡いでいた口を引き結ぶ。この男にこれ程までの怒りと敵意を向けられるのはいつ振りだろう。
敵として対峙した日と同様にひしひしと伝わってくる怒りを全身で感じながら、花京院はそっと閉じていた目を開ける。するとその途端、映り込んできた承太郎の姿に彼の薄紫色の瞳が大きな丸に変わった。

「じょ、うたろう……きみ、」

はっきりと見えた目の前の男の顔。その表情は付き合いは長くないが、約二ヶ月の間ほとんど行動を共にしていた花京院でさえ見たことのない表情だった。だからだろうか。花京院の目はこれでもかと見開かれていたし、承太郎の名を呼ぶ声は微かに震えていたのだ。
ただ、その花京院の異変は対面している承太郎にもしっかりと伝わっていて、彼は唖然としている友人の姿を見て不機嫌そうに舌を打つと、顔を隠すように帽子を下げた。そして――。

「二度と俺の前であいつの話はするんじゃあねえ。あいつの名前も……二度と出すな」

本当に"名前"というもの全てに触れてほしくない様子で釘を刺すように花京院に吐き捨てた承太郎は、これ以上話すことはないとでも言うように足早にこの場を後にしてしまった。

「…………やっぱり、君は名前さんのことになると笑えるくらい表情に出てしまうんだね」

重量などものともせず外れる勢いで荒々しく開かれた鉄扉。その扉の奥に消えていく背中を、たった一人屋上に残された花京院は怯えでも驚きでもない。ただただ悲しい瞳でじっと見つめていた。

「今にも泣き出しそうな顔していたこと……承太郎は自分で気づいていたかい?」

静かに呟かれた花京院の言葉は本人に届くことなく、しんと降り出した雪と共に溶けて消えていった。


* * *


学校の屋上を出た後どうにも授業に出る気分も余裕もなかった承太郎は、今まで真面目に通して来た姿勢を初めて崩すことになった。補習の担当教師に具合が悪いと適当な理由をつけて学校を抜け出したはいいが、当然承太郎が教師の「気をつけて帰れよ」という言葉通りに真っ直ぐ家へと帰る訳がなかった。
少しでも同じことを、同じ人物を思い浮かべてしまう頭を冷やしたい。早く忘れてしまいたい。そんな一心で承太郎は周りの目も制服に染みていく雪も気にせず、傘も差さないでひたすら足を動かしていた。

「…っ、は……」

頭が冷えて冷静になれるなら、どれだけ自宅から離れた場所に辿り着こうが構わなかった。むしろ行ったこともないような、何の思入れもない場所の方がぐちゃぐちゃになった頭を整理するには好都合だと思っていた。
しかし彼が最終的に辿り着いた場所は、見慣れた大きすぎる日本家屋の隣。つまり、自宅の隣にある名前の家の前であった。

「……馬鹿か俺は、」

何の思入れもない、全く知らない場所へと動かしていたつもりの足は、知らないところで行き先を勝手に変えてしまっていたらしい。
頭を冷やすどころか、余計に名前のことをぐちゃぐちゃと考えてしまう場所に帰って来てしまったことに、承太郎は自分自身を嘲笑するように鼻を鳴らした。ただ、そのように自分へと矛先が向いていたのはほんの数秒の話で、彼の負の感情はここ最近毎日のように顔を合わせている友人へ向いた。

「……こっちの身も知らねえで」

ぽつりと口から出た言葉は空条承太郎という男らしくない、酷く情けないものだった。
勿論承太郎自身も己の言い分や、花京院に対して向けている感情が八つ当たりになるものだと分かってる。そして花京院が言い当てた通り、どこかへ行ってしまった名前のことを考えない日などなかった。それこそ毎度学校から帰って来る度、目の前にある名前の家の電気が点いていないかと確認してしまう程、紛れもない事実であった。
毎日毎日、来る日も来る日も隣の家を見ては空っぽなことに落胆し、明日には帰ってくるかもしれないと微かな希望を抱いて朝を待つ。我ながら中々に女々しい思考や行動をしていると自覚していた承太郎であったが、そんな彼でも一つだけ頑なに行動に移さないことがあった。

「…っ、…気安く呼んでんじゃあねえよ…」

それは"名前の名を呼んだり、名前の話を聞いたりしないこと"だった。その理由は本当に単純で、名を呼んでしまえば無性に逢いたくなってしまうから。話を聞けば名前が側にいないことをより実感してしまうから。ただそれだけ。
母親や祖父はさすが血縁と言うべきか承太郎の心境を汲み取っていたようで、帰国してから名前に関することに一切触れることはなかった。それが承太郎からすれば有り難いことであり、安心出来ていた部分でもあったのだが、彼の小さな心の安らぎは脆くも崩れ去ってしまった。
承太郎の良き理解者であり、友人ではあるが身内ではない花京院は、彼の心境を知らなかったのだから何も悪くない。ただ今の精神状態の承太郎の前で名前の名を出し、名前の話をする。そのタイミングが不味かった。

「――名前」

ギリギリの所で堰き止めていたものが屋上のやり取りで溢れてしまった承太郎は、今まで頑なに口にしなかった名を呼んだ。勿論呼んだってここにはいない名前は返事をしてくれないのだが、それでも承太郎はようやく彼女の名前を色濃い白い息と共に吐き出した。もしかしたら届くかもしれないと、微かな願いを乗せて。

「……やれやれ。いつから俺はこんな女々しくなったんだろうな」

案の定何も返って来ない悲しい事実に、承太郎は再び色濃い息を大きく吐き出す。そして自虐的に鼻で笑い飛ばし、最後に「全部てめえのせいだぜ、名前」としっかり名前にも八つ当たりをすると、承太郎はその場に根付いていた足を隣の自宅へと動かした。

 ――ガチャリ、

「!!」

しかし承太郎の長い脚が一歩踏み出したと同時に、ドアが開く音が鼓膜を揺さぶった。その音は今まさに目を背けた名前の家から聞こえてきたものだったため、承太郎は咄嗟に振り向く。すると――。

「――承太郎っ!!」
「…………名前、?」

振り向いた先。そこに居たのは、雪の降る寒い冬の日にはあまりにも薄着過ぎる。"あの日"承太郎の目の前で消えた時と同じ、少しだけ汚れた白いチャイナドレスを着た、名前が立っていたのだった。


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