青々とした、豊かな緑色の葉の隙間から差し込む初夏の白く眩しい陽射し。どことなく神秘的に感じる光の筋が幾つも差し込む一本の道に、何やら少々動きの可笑しい女性が一人。
「なんだろ?」
右にふらふら、左にふらふら。
過去に、歌舞伎町でよく見掛けた酔っ払いのように覚束ない足取りで右へ左へと歩く女性は、彼女の姿を偶然目撃した名前の興味を引くには充分な存在だった。
「……大丈夫かな、」
酔っ払いのようだと一度形容してはみたが、時折聞こえてくる苦しそうな呻き声が名前の頭に最初に浮かんだその考えを打ち消す。
もしかしたら具合が悪いのではないか。だからフラフラと足元が覚束ないのではないかと、様子の可笑しい女性に対し、名前の中で心配する気持ちが膨れ上がっていく。
「あっ、」
しかし、名前の心配は不意に聞こえてきたドサドサッと何かが落ちる音。そして、少し遅れて女性から上がった「あぁ、もうッ!」という苛立ちが含まれた声によって、杞憂であったということを知らしめられた。
しゃがみ込んで落ちた物をせっせと拾う女性の後ろ姿を見た名前は、ようやくここでホッと胸を撫で下ろした。彼女は具合が悪いわけではなく、重たい荷物を運んでいただけだったんだ。
フラフラ歩いていた理由が分かり安堵した今、名前の表情には明るさが戻る。
「よしっ!」
正午を過ぎて、名前が苦手とする日光がより強くなってきた時間帯。本来ならこのまま踵を返して居候先である東方家に帰り、先日買った人気洋菓子店の新作を頬張るのが一番の至福だ。だが、目の前で困っている人を放って自分一人だけの至福のひとときを選ぶほど、名前は卑しい人間、もとい天人ではなかったのだ。
「――あのっ!」
お前の美しい脚によく似合うと思ってな。
そう言って甘やかに笑った美麗な吸血鬼から贈られたピンヒールのレースアップサンダルが、名前の意思を示すようにコツリ、と力強くアスファルトを鳴らした。
* * *
等間隔に開いたブラインドの隙間から差し込む初夏の白く眩しい陽射し。幾重に重なる光の筋は部屋を明るく照らしており、照明いらずだ。
どこか神秘的に感じる日当たりのいい一室に、何やら変わった動きをする男性が一人。
「手首の角度は直角90°を保つ……各指は曲げずに真っ直ぐを保つ」
両腕を頭上へピンッと真っ直ぐ伸ばし、手の平を天井と平行になるように向けた珍妙な体勢を取る男性――もとい岸辺露伴。
「手の平を前へ……肘も真っ直ぐ、手首の角度は直角を保ったまま……指を一本ずつ折る」
一つ二つと順に指を折り曲げていった露伴は、再び一つ二つと順に指を開いていくと、最後の仕上げとでも言うように腕から手首全体をプラプラと振り動かす。
「以上、漫画を描く前の『準備体操』終わり」
ふうっと大きく息を吐いた露伴。どうやら彼の妙な動きは、漫画を生み出すための大切な道具の一つである『手』を解すストレッチだったようだ。
「――よし」
慣れ親しんだよく効くストレッチのお蔭で解れ軽くなった手。これなら本誌で連載中の『ピンクダークの少年』とは他に、締切が近付く読み切り短編作の方も順調に描けそうだ。
体調面、精神面。どちらも共に最高と呼べるコンディションに、きゅっと口角を上げた露伴が仕事に取り掛かろうとした。その時――。
「露伴先生〜? 集英社の泉ですけどォ〜!」
インターホンの鳴る音と共に聞き覚えのない声と名前が、玄関先から大きく響いて来たのだ。
「おいおい……間が悪すぎるぞ」
急遽担当が変わってしまったため、挨拶を兼ねて前々から頼まれていた資料を持って来たと、近所迷惑だと苦情が入りそうな声量で玄関先から話してくる"泉"という新たな担当編集者に、露伴からは大きく深い溜息が漏れる。
「……そうだな、」
ただ、大きな溜息こそ吐いたものの、露伴は何かを思案するようにぐっ、と深く椅子の背もたれに凭れながら天井を見上げる。
新しく担当になった者が挨拶にやって来て、尚且つ頼んでいた物まで持って来てくれたとなれば、今後の仕事のパートナーとして快く迎え入れるのが普通――と言うより社会人のマナーである。たとえそれが、集中して大事な仕事に取り掛かろうとしていた瞬間でもだ。
「ここの泥棒の台詞は……『クソッ!』……じゃあないな……」
しかし、岸辺露伴に世間一般で言う『普通』が通用するわけがなかった。
「……ただの無言……それのみ」
露伴は担当編集者の泉の声に応えることなく。いや、そもそも来訪者など端から居ないかのような素振りで本格的に仕事に手を付け始めた。
ペンを手に取り、インクを染み込ませ、真っ白なケント紙にいざ――。
「うっわ、もう最悪ッ!!」
「…………」
ペン先を滑らせる、という漫画家なら気分が高揚する最高の瞬間に、またもや泉の騒がしい声が書斎兼仕事場に響いて来たのだ。しかも今度はドサドサッ、と何かを盛大に落とす騒音のおまけ付きである。
「っ、おい! うるさいぞッ!」
一度ならず二度までも仕事に取り掛かるタイミングを邪魔をされた露伴は、とうとう負けじと玄関先まで聞こえるように声を張り上げる。
「今から仕事に掛かるんだッ!」
「露伴先生いらっしゃったんですか〜? 集英社の泉ですゥ〜!」
「もう聞いたッ!」
「それで資料をですねェ〜?」
「もういらないッ!」
二度も邪魔をされた鬱憤を晴らすように、露伴はことごとく泉の話をバッサリと切っていく。
「帰ってくれ」
最終的に向こうが何かを口にする前に、ありったけの思いを乗せた一言をお見舞する露伴。
しかし次の瞬間、彼の後頭部にとんでもなく重たい衝撃が走った。
「ぅ、ぐ――ッ!?」
首にまで響く重い衝撃に、露伴から蛙が潰れたような呻き声が漏れる。
「っ、い……ったい何なんだ……ッ!?」
ぐわん、と揺れる頭と視界の不快感。そして、じんわりと後頭部から侵食してくるような鈍い痛みに、これでもかと顔を歪めた露伴は椅子の回転力を味方に勢いよく背後を振り返る。
「――は?」
するとそこには"六法全書"片手に、いかにも不機嫌ですと言うようにムスッ、と頬を膨らませた名前が立っていたのだった。
* * *
「露伴先生とお知り合いだったんですね〜」
意外と世間って狭いんですねと、語尾を伸ばしながら朗らかに話す女性――泉京香は、『カフェ・ドゥ・マゴ』の看板スイーツである大きなチョコレートパフェを幸せそうに頬張る名前へと大きな目を向けた。
「まさかあんな分厚い六法全書でスパァン! って、露伴先生の頭を叩くとは思いませんでしたよォ〜!」
集英社の編集部で仕事の速さと作品の面白さ。それに何より付き合い難そうな変人奇人として有名人である岸辺露伴が、偶然町中で出会った親切で可憐な美女に容赦なく頭を殴られる姿なんて誰が想像出来たであろうか。
「もうあたしビックリしちゃいました〜!」
「あれは泉さんにめちゃくちゃ失礼な態度を取った露伴先生が悪いんです」
「ウフフフッ! 超大物な露伴先生でもあんな風に怒られちゃうことってあるんですねェ〜」
先程目の当たりにした世にも珍し過ぎる『岸辺露伴の間抜けな姿』を思い出した京香は、ニコニコと楽しげな笑みを浮かべた。
そして、これは編集部のみんなに話したら盛り上がること間違いなし。と、中々に下世話な思考までもが京香の脳裏に浮かぶ。だが――。
「笑い事じゃあないぞ」
その編集部で盛り上がること間違いなしの下世話な思考は、射殺さんばかりの鋭い眼光で睨み付けてくる露伴によって、強制的に京香の脳裏から捨て去られることになってしまった。
「それに、名前も名前だ。いくら僕の態度が気に食わなかったからと言って、重さ四キロもある六法全書で頭を殴るのはどうかと思うね」
「んー? でも、辞書の角は露伴先生にぶつけないようにしたし、手加減も充分にしたよ?」
「僕が言いたいのはそういうことじゃあない。大体な――」
「ごちそうさまでした!」
「おい、」
露伴の静かに怒気を含んだ声を遮るようにして行儀の良い食事の挨拶と、パンッと手の平を合わせた乾いた音が名前から響く。
「美味しかったぁ〜」
「そうか良かったな。それでだな――」
「あっ、私飲み物注文してくるネ!」
「君なあ……!」
わざとやっているだろうと詰りたくなるくらいの絶妙なタイミングで席を立つ名前に、露伴は思わずジトリとした視線をテラス席から店内へと移動していく華奢な背中へ向ける。
だが、露伴のある意味焦げそうな程の熱い視線は、カウンターで店員と話す名前には残念ながら届くことはなかった。
「名前の奴、いつになく反抗的だな……」
「んふふっ。露伴先生ってぇ、編集部の間では『考えが読めない人』って有名ですけどォ……本当は分かりやすい人だったんですね〜」
「はぁ? 急になんだよ」
「だって〜、露伴先生気づいてますか? あの美人さん……名前さんを見る目と顔がすんごい優しいんですよォ〜!」
「……優しい?」
思いもよらぬ京香の発言に、身動いだ露伴の耳に飾られたピアスが揺れる。
「(名前を見る目と顔が優しい、だって?)」
にわかには信じ難い話だった。名前を見ている時の自分の顔を露伴は見たことがないが、他人に分かりやすいと言われるほど優しく、穏やかな表情をしている自分が露伴には想像つかなかったからだ。それに――。
「……チッ、」
それに、露伴には学生風の男性店員と何やら楽しそうに話している名前を見て、自分が優しい目と表情をしているとは到底思えなかった。
滅多に自分に向けられることのない笑顔を、カフェの一店員である男に安易に振り撒く名前に盛大に舌を打った露伴は、再びピアスを揺らしながら京香へと向き直った。
「生憎それは君の勘違いだ。そもそも僕は名前に対して説教をしようとしてたんだぜ? そんな僕が優しい表情をしているわけがないだろ」
「うーん、でもォ……露伴先生って名前さんのこと本気で怒ろうとしてませんよねェ? もし頭を叩いたり、会話を遮ったのが私や他の人だったら……露伴先生の怒り、お説教しただけで収まりますか?」
「あのなぁ……君は僕を何だと思って、」
「それに! 今露伴先生が急に不機嫌になったのも、名前さんがあのイケメン店員と楽しそうにお話してたからですよね〜? それってぇ、嫉妬ってやつじゃあないんですか?」
「嫉妬ォ? この岸辺露伴がか?」
「フフッ、そうですよ〜! 『あの笑顔を自分にも向けてほしいッ!』って思っちゃったりしましたよね?」
「……くだらない」
何がそんなに面白いのか。ニコニコとまるでそうあることを期待しているかのように、これでもかという満面の笑みを浮かべながらじっと見つめてくる京香に、露伴は本日二度目となる大きく深い溜息を吐き出す。
「帰る」
「えっ!? 帰っちゃうんですかッ!?」
「これ以上君の的外れな推理を聞いていても時間の無駄だ。漫画のネタにもならないし、もはやこの場に僕がいる必要はないね」
「じゃあ今から打ち合わせしましょッ! あたし、今度の短編のネタになるような、面白い話を一つ持ってるんですよォ〜!」
「泉くん……だっけ? そこまで必死だと逆に胡散臭いぞ」
「本当ですってェ! 騙されたと思ってちょっと聞いてみてくださいよ〜」
「はぁ……少しだけだぞ」
ようやく変な勘ぐりではなく、漫画の編集者らしい話をする気になった京香に、露伴は渋々と言った様子ではあるが再度椅子に腰掛ける。
「えっとォ、その面白い話なんですけど――」
露伴が席に着いたことでホッと安堵の息を吐いた京香は、話に必要な物を取り出そうとしているのかゴソゴソと鞄を漁り出した。
「…………」
そんな彼女を余所に、露伴は視線をさりげなく店内の方へ向ける。するとそこには、相変わらず楽しそうに笑いながら京香曰くイケメンな店員と話している名前の姿があった。
――嫉妬ってやつじゃあないんですか?
「……そんなわけあるか」
ぐつぐつと、煮えるように腹の底から湧き上がって来る熱い何か。それは他人を羨む『嫉妬』ではなく、ただの純粋な『怒り』であると、露伴は言い聞かせるように呟いた。
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