杜王町から80数キロ程北西にある広大な森。
その森の一画には『豪邸』と呼ぶに相応しい家が11軒も建つ、一つの村が存在していた。
車が通れる道路どころか送電線の一本すら引かれていない、完全に森の中に遮断された富豪ばかりが住む村。そんな御伽噺のような、しかし実際に杜王町の近くに確かに存在している『富豪村』から、何と800坪もある別荘地の一区画が破格の300万円で売りに出されていたのだ。

「おいおいおいおい。絶対におかしいだろ」

あまりにも安すぎる驚愕の販売価格に何か裏があるのではと、疑わずにはいられない。
だが、既にこの『富豪村』に住む人々もまた、その破格の値段で別荘地を購入していたと知ったら? 今では世界的に有名な大富豪である住人達は、『富豪村』にある豪邸を買うまでは一般家庭で育った普通の人間だったと知ったら?

「先生取材してみませんか? あたしがこの幸運の別荘を買っちゃうところを……」

常日頃リアリティのあるネタを求める漫画家とすれば、興味を抱かずにはいられなかった。

「……編集部、ヘリ持ってるのか?」

この一言が最終的な決定打となり、山奥にある『富豪村』に新たな買い手と、取材者が訪ねることになったのだった。


* * *


ザーッと力強く流れる川の音を耳にしながら、舗装されていない砂利だらけの道を。山ならではの急な上り坂を。川を渡るための険しい岩場を慣れない足取りではあるが、少しずつ確実に目的地を目指すために進む人影が"三つ"。

「……はぁ、」

山頂から流れてくる透明度の高い澄んだ川の水を覗き込んだ名前は、そこに映っている浮かない自分の顔に小さく息を吐いた。

「休日だから億泰くんとスイーツ巡りするはずだったのになぁ……」

脳裏に甘い物好き同盟であり、『ゥンまああ〜いっ!』と本当に美味しそうに食べる億泰の顔が過ぎる。本来なら今頃、一緒に美味しいケーキやパフェを食べて、あの厳つい顔に可愛らしく笑顔が浮かぶ様を見ていられたと言うのに。

「なんで私まで、」

辺り一面が豊かな緑に囲まれ、雪解けの綺麗な水が生き生きと流れる、まさに秘境の地を名前はゆっくりと見渡す。目の前の景色を映すガラス玉のような瞳は憂いを帯びていて、どこかこの場に来てしまったことを後悔しているようにも見えた。

「……帰りたい」

大きく広がる青空と深い緑のコントラストは美しく、自身の肌で感じる空気も澄んでいてとても綺麗だ。しかし、この山の『恐ろしい過去』を知ってしまった名前からしたら、眼前に広がる美しさは不気味でしかなかったのだ。
それ故に、ついつい口をついてしまった本音だったが――。

「おいおいおいおい。今更何言ってんだ?」

タイミングが悪いと言うべきか、良いと言うべきか。名前の本音は、丁度対岸から渡って来た露伴の耳にしっかりと入ってしまったのだ。

「名前だって『富豪村』の話を興味深そうに聞いてただろ」

露伴は川岸にちょこんとしゃがみ込む名前の横に同じように腰を落とすと、「だから君を誘ってやったんだぜ?」と有無を言わさぬ笑顔で名前の顔を覗き込んだ。

「この僕がわざわざ誘ってやったと言うのに『帰りたい』だなんて、随分じゃあないか?」
「……よく言うヨ。私が絶対山に来るように『ヘブンズ・ドアー』で書き込んだくせに」

作った笑顔を貼り付ける露伴に、名前の生気を失ったような暗い目が向けられる。
そう、何を隠そうこの岸辺露伴。一度は『富豪村』の幸運の別荘に興味を持ったが、村がある山が昔絶対に人は立ち入ってはならぬ場所。つまり"禁足地"であったと知ってしまい、「怖いから行かない」と断った名前に対し、反則とも言える細工を施していたのだ。

「そうだったか?」
「そうだよ」

行きたくなくても行かなければならない。帰りたくても帰れない。名前の憂いの原因は真横にいる、少しも悪びれていない好奇心の塊のような男にあったのだった。
口角をクッと上げながら「そうだった気もするな」と白々しく話す露伴に、名前はもう一度小さな溜息を吐き出した。

「……はぁ……」
「まあどっちにしたっていいじゃあないか。アホの億泰と甘ったるい物を食べに行くことはいつでも出来る……が、山奥に孤立する村の取材なんて早々ないぞ」
「だって、ここ禁足地だったんだよ? 入ったら祟られるかもしれないんだよ?」
「それは昔の話だろ。今はこの通り、禁足地だった頃の面影はまるでないね」
「でもさぁ、」

 ――それでも来たくなかった。

口には出していないが、嘘がつけない素直な名前の表情にはやはり後悔の念が浮かんでいた。いや、表情を読まなくとも彼女は初めから「行かない」「帰りたい」と、否定的な本音をはっきりと零していたし、禁足地であった山にある村を漫画のネタにするための取材に、いい顔を見せてはいなかった。

「……何だよ」

状況が状況だし、場所が場所なだけに記憶の中の名前と違うのは当たり前のこと。しかし、脳裏に過ったカフェの店員と楽しそうに話す名前の満面の笑顔と、今自分の目の前にいる名前の眉を顰めた不満げな表情を露伴はどうしても比べてしまった。

「あの店員とは楽しそうにしていたのにな」

全くと言っていいほど対照的な名前に、露伴からもまたついつい本音が漏れる。それはもう苛立たしげに。

「――え?」

川の流れる音に混じって耳に入ってきた露伴の声に、揺れ動く水面を見つめていた名前の蒼色が露伴に向く。その瞳は不思議そうに丸くなっていて、どうやら言葉の意味をまだ噛み砕けていないようだった。

「あの店員って……?」

山を登るからなのか邪魔にならぬよう、高い位置で一つに結ばれた髪をさらりと流しながら首を傾げる名前に、露伴は不機嫌そうに眉を吊り上げる。

「なんだ、もう忘れたのか? あんなに楽しそうに話していたじゃあないか」
「……話す、」
「『ドゥ・マゴ』の店員だ。この前、泉くんと三人で行っただろ」
「この前……ああっ!」

ここでようやく名前の中で露伴が誰のことを示していたのか合点がいったようで、彼女は「あの大学生の!」と、ここへ来て初めて笑顔を見せた。だが、その事実が更に露伴の中に苛立ちを募らせていく。

「……へえ。彼、大学生なのか」
「S市の大学に通ってるんだって。でも家は杜王町だから朝早い時は大変だって言ってたヨ」
「……随分詳しいんだな」
「この前話した時に教えてくれて……あっ、そうそう! 彼ね、大学でサークルに入ってるみたいなんだけどね? その理由がなんと――」
「もういいッ!」

どこか嬉しそうに話す名前の声を遮るように、唐突に露伴が大きな声を上げた。
反響しやすい場所なだけ辺りに大きく響き渡った彼の声に、木の枝に止まって寄り添いながら休息を取っていた鳥達が勢いよく飛び立った。

「……露伴、先生……?」

バサバサッと鳥が羽ばたく音が木霊す中、名前から困惑気味な声が上がる。しかしそれも仕方のないことだった。話題を相手から振られたかと思えば、その話題に乗った自分の話を遮るように怒声に近い声を上げられる。これは誰だって困惑してしまうだろう。
だが、今の露伴にとって「ど、どうしたの?」と尋ねてくる名前は、彼の苛立ちの原因にしかならなかったのだ。

「ねえ、露伴せんせ――」
「僕に話し掛けないでくれないか」
「……え、」
「今の君と話していると気分が悪いんだよ」

普段の露伴なら名前に対して絶対に言わないであろう、辛辣な言葉の数々。それは言われた側の名前に相当な衝撃をもたらしたようで、彼女はこれでもかと目を大きく開いて露伴のことを凝視していた。
その姿を目の当たりにした露伴は一瞬後悔したような、苦い表情を浮かべる。が、すぐに目を逸らすと少し離れた場所で地図を確認している京香の元へと歩を進めてしまった。

「男の嫉妬は醜いですよォ?」
「君には関係ないだろ」
「まあそうなんですけどねェ〜? でもぉ、素直になって謝っておいた方が私はいいと思いますよォ。じゃないと名前さん、露伴先生から離れていっちゃいますよ」
「……フン、くだらないな」

あの日のカフェでのやり取りと同様に、京香の話を『くだらない』の一言で一蹴した露伴。

「……何なんだ、」

しかし、この日は何故だか京香の釘を刺すようなその言葉は、露伴の心にズシリと重く伸し掛ったのだった。


* * *


「やっと着いた〜!」

鬱蒼と生い茂る木々の間に、突如現れた汚れ一つない真っ白な外壁。その外壁には重厚感に溢れた木製の門扉が存在を主張しており、傍から見てもこの門扉が目的地である『富豪村』に続く入口だと認知することが出来た。

「露伴先生、名前さん。ひとつ凄く重要なことを言い忘れていました」

道中に思わぬアクシデントに見舞われたが、何とか無事に『富豪村』まで辿り着くことが出来た京香は、お互い不機嫌を前面に押し出した露伴と名前にビシッ、と一本の指を突き立てた。

「売主はここの別荘地の代表者なのですけど、ここの人達は『マナー』に凄くうるさくて。無礼者には売らないと決めてるみたいなんです」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。ここでは『マナー』はとても重要です。名前さんはともかく……露伴先生〜〜、お願いいたしますよォ?」

『マナー』に厳しいと聞いて顔を強張らせる名前とは正反対に、話を聞いていないのではと言う程ぼーっと高くそびえ立つ外壁を眺めている露伴へと、京香は「ちゃんとしてくれ」と言いたげな懇願の眼差しを向ける。

「『お願い』ってなんだい? 土地を購入するのは君だろ?」
「ですからぁぁ〜〜っ!」

案の定話を聞いていない様子の露伴に、京香は「ヤバイなああ……」とあからさまに焦った様子を見せる。

「『村』の中でマナー違反した者は誰であろうと皆一緒に追い返されるんです。お金をいくら持っていようがですよ? せっかくここまで登ってきたのに出てけって言われるんです」
「ふぅん……それで?」
「先生自分が一番だ、みたいなところあるじゃないですかぁ。『オレ様』って言うかぁ〜〜」

京香の悪びれもしない物言いに、露伴は「なんだい、それェ〜」と嫌そうに顔を歪める。

「だってそうじゃあないですか〜! ねぇ、名前さんもそう思いますよねェ?」
「もうほんっっ……とにその通りだと思うヨ。理不尽の塊。わがまま。自己中心的。それにデリカシーも皆無」
「……おい、」

流れるように次々と出てくるダメ出し。と言うよりかは悪口のオンパレードに、露伴は「いくら何でも言い過ぎだろ」と名前を睨み付ける。
しかし、名前の蒼と露伴の深碧がかち合っていたのはほんの数秒間だけで、彼女は先程の一件が余程頭に来ているのか「ふん!」と大きく鼻を鳴らすと、そっぽを向いてしまった。
自分で蒔いた種とは言え、名前のその行動に露伴はまたもや腹の中がぐつりと、煮立つような感覚に襲われる。

「……チッ、」
「まあ、とにかく! 訪問者として失礼のないよう、これから会う相手への敬意をよろしくお願いいたします」

名前と露伴。どちらも正直言って『マナー』を守ったり、売主に敬意を表すどころではない気の持ちようではあるが、どうしても幸運の別荘を購入したい京香は不穏な空気を払拭するように両の手をパンッと合わせた。

「ひとつ『マナーの練習』してみましょうか」
「……練習?」
「はい! 訪問するとき、今着ている上着はどこで脱ぐのが『マナー』ですか?」
「えっと……確か、ホコリとか汚れを訪問先に持ち込んじゃダメだから……玄関に入る前?」
「素敵! 名前さん素敵です!」
「えへへっ、」

パチパチと大きく拍手をしながら『素敵』という言葉のシャワーを浴びせてくれる京香に、これ以上ない程ムスッとしていた名前から可愛らしい笑みが零れる。やはり大人の仲間入りをしても、誰かに褒められるということは嬉しいのだ。それが例え、一般的な常識問題に答えただけだとしても。

「フン。それくらい誰だって答えられる」
「もう〜露伴先生ェ!」
「……ごめんネ? 簡単な問題に答えただけで喜んじゃって」

しかし、名前に浮かんだ可愛らしい笑顔は、天邪鬼もいいところな露伴によってなりを潜めることになってしまった。

「だから言ってるじゃないですか露伴先生! 素直にならないと名前さんが――」

再び不穏な空気が流れ出してしまったことに、頑張りを無駄にされた京香が眉を吊り上げながら露伴に詰め寄ろうとした。その時――。

 ――ギギ、ギッ。

「!!」

固く閉められていた木製の門扉がゆっくりと、まるで巨大な怪物が口を開けるように開きだしたのだった。


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