――ギギ、ギッ。

腹の底まで響いてくるような、重たい音を響かせながらゆっくりと開いていく門扉。
突如として動き出した『富豪村』と外界を繋ぐ唯一の門を露伴と名前。そして京香の三人は口を噤み、少しずつ全貌を明らかにしていく様をじっと見つめる。すると――。

「……男の子?」

大きく開いた門扉の奥に、一人佇む小さな男の子の姿が名前達の目に映り込んできた。

「こんにちは」

命家の子息のように上等な服を身に着け、首元を青色の蝶ネクタイできっちりと締めた小さな男の子は、穢れなき円らな瞳で名前達を見回すと、洗礼された所作で深々と頭を下げた。

「遠路はるばるようこそおいで下さいました。本日はお天気もよろしく、何よりでございました」

男の子は幼い見た目に反し、大人顔負けの丁寧な言葉遣いで別荘の購入を検討している京香を始め、名前や露伴の訪問を快く受け入れると、すっと手の平を屋敷の方に向けて差し出した。

「どうぞこちらへ……」
「……露伴先生、名前さん」

招き入れる所作をして見せた男の子に、京香は『ついにこの時が来たか』と一つ息を吐くと、露伴と名前に再び懇願の眼差しを向ける。

「はいっ」
「……はぁ、」

京香のその目に名前は小さく頷き、露伴は面倒くさそうに溜息を吐きながら静かな動作で上着を脱ぎ始めた。そして、二人の姿に満足そうに口端を上げた京香もまた、静かに着ていた上着を脱ぐと、門を潜り抜ける前に「初めまして」と男の子に頭を下げた。

「わたくしは泉京香です。別荘の購入の件でお時間をいただきありがとうございます。こちらは付き添いの岸辺露伴さんと名前さん。漫画家の先生とアシスタントです」

 ――アシスタント。

京香の実にアドリブが効いた紹介に、一瞬だが露伴と名前の眉が跳ね上がる。
これがつい先程までの状況であれば「勝手なことを言うな」と、二人して京香に対して食いかかっていたところだろうが、今そんなことをしてしまえば京香の別荘購入のチャンスも、取材のチャンスも全て消し飛んでしまう。

「……よろしくお願いいたします」
「…………」

そのため、二人はやり場のない複雑な気持ちをグッと堪えながら、京香に伴い頭を下げた。

「わたくしの名前は『一究』です。正門からの案内役を務めさせていただいております」

自らを案内役だと名乗った男の子。もとい一究は「どうぞお入りください」と、もう一度屋敷の敷地内へと京香達を招き入れる。

「ただいま当別荘地の売主を呼んで参ります。お上がりになってこちらでお待ちください」
「ありがとうございます」

マナーの練習として例題に上げた上着もしっかり脱いだところで、京香は一癖ある露伴と名前を引き連れ、いよいよ一究の案内に従い『富豪村』の敷地内へと足を踏み入れた。


* * *


応接室だという広い和室に露伴と京香と共に通された名前は、その部屋の奥にあるアンティーク調の長ソファーに縮こまって座りながら、目の前の背丈の低いテーブルの上にセットされたティーカップを眺めていた。

「……紅茶だね」
「ああ。紅茶だな」

ティーカップに注がれた綺麗な赤橙色のお茶の名称を名前がポツリと呟けば、隣に座っている露伴も復唱するように呟いた。
彼は障子と畳が特徴の和の空間に、英国式のもてなしという和洋折衷の異様な応接セットに眉を顰めると、名前と同じようにティーカップを凝視している京香に「で?」と声を掛けた。

「君、知ってるの?」
「え?」
「『マナー』のことだよ。これ試されてるんじゃあないの? 君、これの正確な答え知ってるの?」
「……それが、」

京香は露伴の問いに気まずそうに言い淀む。
あれだけ『マナー』を守るよう、露伴や名前に釘を刺していた京香だったか、いざ『マナー』を試される側に回ってみたところ、自分が無知であると思い知らされてしまったようだ。
表情に焦りをこれでもかと浮かべ、黙り込んでしまった京香を横目で一瞥した露伴は、「何か知らないか?」と今度は名前に深碧を向けた。

「えっ、わたし……?」
「名前の側にいるだろう? 英国生まれ英国育ちの、英国貴族の元で育った『マナー』の完璧なDIO様とやらが」

確かに露伴の言う通り、DIOの出身国はアフタヌーンティーの起源でもあり、貴族階級が多く存在しマナーにも厳しい国、イギリスだ。
DIOも例に漏れず、貧民街にいた幼い頃に上流貴族出身だった母親に『マナー』というものを叩き込まれ、名家であるジョースター家に養子として迎えられた後も立派な英国紳士になるようにと、徹底的に教えられて来ているのだ。

「一番近しい名前ならDIO様とお茶くらい何度も飲んだことあるよな?」
「いやっ、でも『マナー』とか気にして飲むような畏まったお茶会じゃないよ?」
「一度染み付いた『マナー』は癖と同じだ。ちょっとした所作とか、DIO様の行動を思い出してみろよ」
「ええっ、思い出すって……」

唐突な露伴からの無茶振りに、名前は困惑しながらも視線を宙に彷徨わせた。今、彼女は必死に思考を働かせ、過去にアフタヌーンティーを共に楽しんだDIOの姿を思い出そうとしていることだろう。そして数秒後――。

「……あ、そう言えば」

優雅にソファーに腰掛け、左手にソーサーを持ちながら右手でティーカップの取っ手をそっと摘み、静かに口元に添えるDIOの姿が名前の脳裏に浮かんだ。更にあの時も背丈の低いテーブルにティーカップがセットされていた、ということも。

「何か思い出せたみたいだな」
「うん……でも、ホントにそれが正しいかどうかは分かんないよ……?」
「僕はさっきも言っただろ? 一度染み付いた『マナー』は癖と同じだって。それに、どうぞと出されたお茶に手を付けないままこそ泉くんの言う『マナー違反』になるぜ」
「……分かった」

DIOの所作が……、というより自分の記憶に今ひとつ自信が持てない名前だったが、露伴のお茶に手を出さないこそが『マナー違反』という一言がどうやら彼女の背中を押したようだ。

「えっと、まずは――」
「大丈夫ですっ!」
「っ、え……?」

しかし、名前のDIOの力を借りたほんの小さなマナー講座は、同じく露伴の『マナー違反』の一言によって背中を押された京香の自信に満ちた声に遮られてしまった。

「……何が大丈夫なんだ?」

これから本物の『英国式マナー』を知ることができる。そんなチャンスだったと言うのに「大丈夫」の一言で遮った京香に、批難の色を映した露伴の目が向けられる。

「そのDIO様……という方が『マナー』に完璧だと言うことはお二人の会話で分かりました。ですが、別荘を購入するのはあたしなんです。あたしはあたしの力でこの『マナー』の審査をくぐり抜けてみせます!」
「泉さん、」
「ご心配なく……飲食は不快感を抱かせる音や動作がNGなんです」

京香は自分の中にある『マナー』の知識を絞り出すと、露伴の訝しげな眼差しと名前の心配そうな眼差しをその身に受けつつ、指先に細心の注意を払いながらテーブルの上からティーカップをソーサーごと持ち上げる。
そして、有言実行とでもいうように一切の音を上げることなく、京香は豊かな香りを湯気と共に立てる紅茶をゆっくりと口に含んでいった。

「……ふぅ、」

温かい液体が喉を通り、胃にじんわりと広がっていく優しい感覚に緊張が緩んだ京香は、訪れた安心感に思わず小さく息を吐き出した。

「――失礼いたします」

だが、現実というものは全く非情なもので、やっと感じ得られた安心感はピッタリと閉められた障子の向こう側に映る、もはや見慣れてしまった小さな影によって打ち壊されてしまった。

「まことに残念ではございますが……当別荘地の売主がお会いすることはもうありません」

スッと開かれた障子の奥に両膝を着く一究は、何の感情も読み取れない表情と、抑揚のない声で「本日はお引き取りください」と今度は出て行くことを促した。
売り手側のあまりに突然すぎる手の平返しに、京香からは驚愕の声が上がる。しかし、一究は京香の声に何の反応も示すことなく淡々と買い手である京香と、付き添いの露伴と名前を引き取らせるにあたった理由を話し始めた。

「この時点ですでに二つの『マナー違反』が泉様にございました。無礼なる者にお売りする土地はございません」
「なんですって……あたし? あたしに『マナー違反』が二つも……?」

『マナー違反』が二つも自分にあったと指摘された京香は、信じられないといった面持ちと、一体どこに違反があったのかと教えを乞う眼差しで一究を見つめる。すると、またもや一究は淡々と機械のように彼女の犯した違反を説明し出した。

「一つ目は『下座』でございます。いくらお客様と言えども、勧められるまで入口に対し図々しく『上座』に座ってはいけません」
「あっ、」

一究の指摘に慌てて自分の座る位置を確認した京香は、可哀想なくらい顔色を青くさせる。部屋に通された時に何気なく座ってしまった場所こそ、上座の中でも最も高い身分の人が座る場所だったのだ。
やってしまったと、京香の顔にあからさまな後悔の色が浮かび上がってくるが、一究はその様子に見向きもせず「二つ目は……」と無情な答え合わせを進めていく。

「テーブルが膝の高さより低い場合――受け皿を持って召し上がるのは正しいのですが、ティーカップの取っ手に指を突っ込んでお持ちになるのはこの上なく下品な行為です」
「ああっ!!」

普段であれば全く気にしないことでも、『マナー違反』となる厳しい現実に、悲痛な声を上げる京香。そんな彼女の脳裏には、やはり名前から"DIO様"と呼ばれる人物の完璧な所作を聞いておくべきだったと、今となっては後の祭りでしかない思考が過ぎる。

「『マナー』は正しいか正しくないかのどちらかです。寛容はございません……どうぞ、本日はお帰りください」
「……そんな、」

『マナー違反』をしてしまったことに変わりはないのだが、たった二つの間違いだけでこうもあっさりと別荘購入の話をなかったことにされしまうのは、あまりにも京香が可哀想すぎる。

「あっ、あの……!」

険しい山道を共に登ってきたからこそ、京香の『絶対に購入するんだ』という強い意志を知っている名前が、何か一究に慈悲をと思い声を掛けようとする。が、それよりも先に露伴の「あれ〜?」とどこか煽るような声が静かな部屋に響き渡った。

「まさか、これでもう終わりなのか? ここの主人の姿も見ずにこれで帰るのかい?」
「ちょっと、露伴先生……!」
「だって本当のことだろ? ここまで苦労し、君と喧嘩までして登ってきたと言うのに何も収穫がないなんて、とんだ無駄足じゃあないか」
「っ、それでも! わざわざ言わなくてもいいでしょ!」

言い分は分からないでもないが、全くと言っていい程京香に対して気遣いの微塵も無い露伴の辛辣な言葉の数々に、名前はきゅっと眉間に皺を寄せながら露伴に詰め寄る。

「……何だよ」

そして、屋敷に入ってからと言うもの落ち着いていた露伴の中にある"怒"の感情が、名前の普段他の人間……、特に近しい者には見せない反抗的で不機嫌な姿に、またもやぐつりと煮立ちそうになった。その時――。

「ああああっ! うそっ!!」

睨み合っていた露伴と名前の鼓膜を、叫びにも似た京香の大きな声が激しく揺さぶった。

「い、泉さん……?」
「何だい急に、」

びくりと肩を震わせた名前と、煩わしそうに顔を顰めた露伴が大きな声の発信源である京香の方へ目を向ける。

「あああっ、うそっ……ああ、」
「泉さん!?」
「おいっ、どうした!?」

すると、携帯電話片手に目に大粒の涙を浮かばせながら唇を戦慄かせる、尋常ならざる様子の京香が二人の目に映ったのだ。
明らかにただ事ではない『何か』が京香の身に起きている。そう直感的に感じ得た名前と露伴が慌てて京香に声を掛ければ、彼女は未だ恐怖で震える唇で「は、母が、亡くなった……」とか細く呟いた。

「……え?」
「自動車の事故で……ああっ、あたしのボーイフレンド……来年結婚する婚約者も一緒に乗っていて……車の運転中にママが心臓発作に、」
「っ、なんだと……」
「二人とも死んだっ――!!」

一度に大切な母親と婚約者を亡くしてしまった京香は、頭を抱え崩れ落ちながら慟哭する。

「泉さんっ!」
「……これは、」

絶望と表現するしかない京香の泣き喚く姿に、名前は咄嗟に側へ駆け寄り、『オレ様』と称された露伴ですら心配の色を表情に滲ませる。
だが、その中で一人。一究だけは、名前に支えられる京香の姿を真っ直ぐ見つめながら、露伴達の知らない間に京香によって申請された『マナー再試験』の許可が下りたと、場違いな報告を告げたのだった。

「さあ……続けましょう」
「っ、貴様何者だ――ッ!!」

一究が何度もいう『マナー』……、つまり常識ある人間としてはまずあり得ないこの状況下での発言に、ただならぬ気配を感じた露伴は咄嗟に『ヘブンズ・ドアー』で一究と、錯乱状態になってしまった京香を本に変える。

「ぅ、わっ……!」
「『僕は正門からの案内人。土地の意志を伝える人――』」

体が本に変わったことで全身の力が抜け、重くしなだれ掛かってくる京香を名前が己の腹筋力だけで支える横で、露伴は一究の情報を次々と口に出して読み上げていく。

 ――僕は正門からの案内人。土地の意志を伝える人。この山の土地に入る時、敬意無きマナー違反者は自身の大切なものをひとつ失う。それは『山』からの罰。マナーに寛容は無し。ひとつ得るか、ひとつ失うか。それは土地の掟であり、それは『山』からの力。土地に敬意を払う者は成功を『得』、否なる者はひとつずつ『失う』。

「この子供はスタンド使いじゃあないぞ! この子供はただの使われているだけの案内人……子供本人にはなんの能力も無いッ!」
「じゃ、じゃあそれって、もしかして……!」
「ああ……この山が『禁足地』だったというのは本当だ。泉くんの母親と婚約者が突然亡くなったのも、全ては『山の神々』の怒りだ……マナー違反を『二つ』犯したから彼女は『二つ失った』」

壮大すぎる敵の正体に露伴は「凄くまずいぞ」と冷や汗を流し、名前は本当に祟りが起きてしまったことに顔色を蒼白に変える。

「一体どうしたら――ん?」

スタンド使いではなく『山の神々』相手にどう足掻けば助かるのかと、露伴が必死に解決策を見出そうと一究のページを何度か捲っていってみると、とある一文が彼の目に留まった。

 ――さらに……人間を『本』にして他人の心の中を断りもなく読もうとするなど……それも相手への敬意に欠ける『マナー違反』!

「まずい!」

スタンドという概念と、『ヘブンズ・ドアー』の能力を見透かしているその一文に、露伴は弾かれたように一究から距離を取る。
そして、ひとつの『マナー違反』につき、ひとつの『大切なものを失う』という、先程目にした一文が露伴の脳裏に過ぎった。その時――。

「う……ぐっ、……!」
「!!」

酷く苦しそうな呻き声と、バタンと、何かが畳の上に倒れる音が露伴の背後から上がった。

「なあ、おい……ウソだろ……」

露伴の背中に冷たい汗が流れ落ちる。普段滅多に聞かない呻き声でも、何故か露伴には分かってしまったのだ。今の呻き声は京香ではなく、彼女の――。

「――名前ッ!!」

恐る恐る背後を振り返った露伴の目に、生気を失い暗く濁った名前の蒼い瞳が映った。


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