陽の光を浴びた海のように輝く、どこまでも澄んだ蒼い瞳は今やその輝きを失い、先程まで京香を支えていた細くも逞しい力を持った四肢はだらりと畳の上に投げ出されていた。

「っ、名前……!」

その姿からはどうにも"生命"を感じることができず、露伴は嫌な予感と激しい動揺に挟まれながらも名前の側へ駆け寄る。ただの気のせいであってくれと。最悪としか他に言いようのないこの嫌な予感を早く払拭してくれと、懇願するように露伴は名前を抱き起こした。

「――ッ!!」

だが、露伴の嫌な予感は非情にも払拭されることはなく、むしろ見事なまでに的中してしまったのだった。

「おいっ、冗談だろ……!」

ぐったりと露伴の両腕に重く伸し掛る名前は、生命に必要な呼吸を全くしていなかった。
自発的に止めているわけではないそれに、露伴は固唾を呑み込みながら恐る恐る手を名前の首元に伸ばす。頼むから、それだけはやめてくれと震える指先に願いを込めながら。

「……名前、」

しかし、何よりも機能していることを願った生きている証である"脈"は、名前の首に触れた露伴の指先にその動きを伝えてくれることは一切なかった。つまり彼女は、今のたった一瞬の間に"死"を迎えてしまったのだ。

「――っ、」

名前の受け入れ難い唐突な"死"に、露伴は血が滲むほど強く唇を噛みしめる。そうしていないと怒りや悲しみがぐちゃぐちゃと混ざった言いようのない感情に飲み込まれ、この場で子供のように泣き喚いてしまいそうだったから。
そんなみっともない真似は、この岸辺露伴には出来ない。そう彼が必死に己の理性を抑えながら名前の体をギュッと抱きしめていると、不意に視界の端で小さな影がゆらりと動いた。

「――名前様は、どうやら心臓が発作を起こされたようですね」

露伴の視界の端で揺らいだ小さな影の正体。
それは『ヘブンズ・ドアー』で本に変えられたはずの一究だった。

「岸辺露伴様……あなたがマナー違反をなさったので、あなたもひとつ失うのです」

珍しく激しい動揺に襲われていた露伴は、まだ『ヘブンズ・ドアー』の能力を完全に解いてはいなかった。その証拠に京香は未だ気を失ったままなのだが、一究だけは何事もなかったかのようにゆっくりと上体を起こすと、紙に変化したままの顔を露伴へと向けたのだ。

「貴様、ッ……!」

相変わらず感情が窺えない大きな黒目と目がかち合った露伴は、射殺してやると言わんばかりの眼光で一究を睨みつける。

「今すぐ名前を返せ」

名前を失うことになった元凶は自分自身のスタンド能力と、他人より強すぎる好奇心にある。そして、この土地に訪れた者にマナー違反があったかどうかという審判を下しているのは『山の神々』であるため、一究に何を言おうが無駄だということは露伴も十分に理解していた。
理解してはいたが、目の前にいるただの案内人に噛みついてやらなければ気が済まなかった。

「名前は僕が無理やりここへ連れてきたアシスタントでも何でもない、ただのお人好しな一般人にしか過ぎないんだよ。取材する気も、神々を冒涜する気も名前には最初からなかった。それに、何より僕は彼女のことなんか――」

そこから先に続く言葉は、決して露伴の口から紡がれることはなかった。

 ――名前さん、露伴先生から離れていっちゃいますよ。

「っ、クソ……!」

例えこの場凌ぎのための言葉であろうと、どうしてもその先は言えなかった。露伴はようやくここで自覚したのだ。自分がどれだけ名前という一人の天人にんげんを特別に想っていたのかを。

「……そうですか」

目は口ほどに物を言う。まさにその言葉通り、瞳に色濃く映る露伴の、露伴自身ですらかき乱される程の名前に対する強い愛情おもいを汲み取った一究は、大きな黒目を伏せる。

「――それでは再トライなさいますか?」
「!!」

しかし、その一究の目を伏せる行為は、露伴に同情してみせるなどと言った、優しさを見せるような人情味ある行動ではなかった。

「き、さま……なにを言って……」

彼の中には、ただただ『山の神々』から任された案内役という務めを全うする。その強い使命感しか宿っていなかったのだ。

「それとも、本日はお帰りになりますか?」

ひとつ得るか、ひとつ失うか。
名前を助けるのか、見捨てるのか。
それは岸辺露伴――お前次第だ。

「マナーに『寛容』はございません」

今まで全く意思の読めなかった一究の大きな黒目に、初めて挑発という形で彼の意思が浮かび上がる。そして時を同じくして、まるで愚かな人間を嘲笑うかの如く、山の木々がザワザワと大きく揺れだした。

「……っ、」

人間風情が『山の神々』に抗おうなど、烏滸がましいにも程がある。そう唱えて聞こえる山のざわめきに、露伴は思わず身を震わす。
だが、露伴はここでのこのこと尻尾を巻いて逃げる訳にはいかなかった。彼には何としてでも取り戻さなくてはならない命があるのだ。

「このまま帰る訳がないだろう」
「それはつまり……」
「続行だ」

 ――受けて立ってやる。

その強い意思を映した深碧の瞳を静かに佇む一究に向けた露伴は、腕に抱えていた名前の体をそっとその場に寝かせると、「早く始めろ」とでも言うようにソファーに腰を下ろした。

「……かしこまりました」

怯むどころか挑戦的な露伴の態度と眼差しを目の当たりにした一究は、出会った当初のように『お客様』へ恭しく頭を下げると、「ご用意致しますので少々お待ちください」と一言添えて応接室を後にしていく。
そして数分後――。

「お待たせ致しました」
「……これは、」

黄金色に輝くトウモロコシが一つ。よく磨かれたシルバーのナイフとフォークが一組。そして漆塗りの箸が一膳、一究によって露伴の前に配膳された。その瞬間露伴は察してしまった。
自分に課せられた次のマナー試験は――。

「どうぞお召し上がりください」

みっちり粒が並んだトウモロコシを『正しく』食べること、であると。


* * *


「(なかなか曲者ではあるが……)」

隙間なく横一列に並ぶトウモロコシの粒を見栄えよく、綺麗に外す方法がない訳ではない。
露伴の脳に知識として記憶されている方法は、まず下から二列ほどを外し、後は指全体を使って内側に粒を倒していく方法。またはナイフで削ぐといった、至ってシンプルな方法の二つだけだった。

「(……だが、)」

綺麗な食べ方の知識はある。が、それが本当にトウモロコシの『正しい』食べ方であるかどうかという自信は、正直なところ100%あるとは言えなかった。

「如何なさいましたか?」
「(っ、まずいぞ……!)」

紅茶のマナー試験時に京香にも指摘したが、出された温かい料理にいつまでも手を付けないでいるのはマナー違反にあたる。つまり、このまま目の前に鎮座する強敵と睨み合っていては即アウトだ。

「岸辺露伴様。お召し上がりにならないのでしたら、マナー違反として――」
「いいや」

案の定出した料理に手を付けないことを目敏く指摘してきた一究に、露伴は食い気味に否定の声を上げる。そして「食べる」の一言で急かしてくる一究を黙らした露伴は、一度そばに横たわる名前に目を向けると、覚悟を決めたように両手をテーブルの方へ伸ばした。
一究の黒目に、露伴の両の手の指先がナイフとフォークに触れる光景が映る。どうやら露伴はシルバーを使ってトウモロコシを食べる方法を選んだようだ。

「…………」

その選択が正しいかどうかを、露伴が起こすその後の行動も通して一究が見極めようとした、その時――。

「この岸辺露伴をなめるなよ」

フンと鼻を鳴らす音と共に、露伴の手が二つのシルバーから離れた。

「!!」
「『ナイフ』とか『フォーク』とか『箸』だとか……ひっかける気が満々なアイテムがプンプン臭うぜ。わざとらしすぎる」

最初からお見通しだとでも言うように一究に吐き捨てた露伴は、徐にトウモロコシを両手で鷲掴みにした。

「『手掴みだ』」

日本という国での食事の際、行儀が悪いとされてしまう直接的な『手で食べ物を掴む』方法を選んだ露伴は、微かに驚いている一究を余所に掴んだトウモロコシを口元へ運んでいく。

「――その前に」

まだまだ温かい黄金色の瑞々しい粒に露伴が齧り付く直前、彼の大胆な行動に微かに驚いている一究へと深碧の瞳が向けられた。

「言っとくが君、踏んでるからな」
「……?」

ただそれだけを簡潔に告げた露伴に、一究は意味が分からず首を傾げる。だが、一体何を踏んでいるのだろうと足元を確認した瞬間、常に平静を保っていた一究から初めて「ああっ!」と大きな声が上がった。

「えっ!?」

なぜここまで一究が狼狽えたのか。それは今まで他人のマナー違反を指摘する側であった彼自身が、『親の頭』とも言われ、和室では何よりも踏むことをタブーとされる畳の縁を、しっかりと足で踏んでいたからだった。

「君の方がマナー違反だなぁ」

普段の自分では絶対に犯すことのない大失態に激しく動揺する一究を横目に、露伴は余裕綽々とトウモロコシに齧り付く。
じゅわりと口内に広がる大地の甘みに、なかなか良い出来の物だなと目を細めた露伴は、満足気にトウモロコシを皿に戻すと、胸元から愛用しているGペンを手に取った。

「僕の能力の名前は『ヘブンズ・ドアー』……さっき君を本にした時、既に書き込ませてもらったよ」

露伴がペン先を一究に向けたその瞬間、再び一究の顔が本へと変化する。そして、パラパラとひとりでにページが捲れていったかと思えば、とあるページでその動きがぴたりと止まった。
露伴によって開かれた一究の心の扉。そこに書き込まれたものとは――。

"自分は 畳の縁が 見えなく なる"

「なぁ、また踏んでるぞ……両足だ」
「えっ!? えっ!?」
「僕のはそーゆー能力なんだよ」

畳の縁を踏んでることに気づき慌てて足を退かせば、また新たに別の縁を踏んでしまう。無敵と呼べる『ヘブンズ・ドアー』の能力によってマナー違反のループに陥った一究を、露伴は酷く落ち着いた様子で眺めていた。

「ひとつ得るか、ひとつ失うかだったよな?」

だが、一究を見る露伴の瞳だけは、勝ち誇ったような強気な色が浮かび上がっていた。

「君はマナーを犯したんだ。だから――」

 ――名前を返してもらうぞ。

「っ、……はっ!」

露伴がそうはっきりと宣言するや否や、彼の視界の端で何かが大きく跳ねた。それと同時に耳についた呼吸音に露伴が一究から音の方へと目線を移せば、足りない酸素を必死に取り込もうとして拙い呼吸を繰り返す名前の姿が映った。

「はぁっ、……はっ……ぁ、」
「――名前」
「っ、はぁ、ろ……は、っ……!」
「いいか名前。僕に合わせてゆっくりと息を吐くんだ」

息苦しいせいか、酸素を取り込むことだけに意識がいってしまっている名前に、このままでは過換気になりかねないと危惧した露伴が彼女のそばに寄る。光を取り戻した蒼い目を覗き込み、手本を見せるように露伴がゆっくりと深呼吸をして見せれば、下手に息を吸っていた名前もそれに伴う。

「ろ、はん……せんせ……っ、」
「……ああ。もう大丈夫だ」

少しずつではあるが、ようやく落ち着きを見せ始めた名前に、露伴は安堵が入り混じった嬉しそうな笑みと気持ちを思わず零した。

「……よかった、」

その潤んだ大きな目に映ることが。その優しい声で名を呼ばれることが、これ程までに喜ばしいことだったとは、当たり前だと思っていたつい数十分前の露伴では気づけなかっただろう。
だが今の彼は違う。

「さあ、一緒に帰るぞ」
「……う、んっ……」

失いかけたからこそ、その事実に気づけた露伴は壊れ物を扱うように優しく名前の体を抱き上げると、「これはイカサマだ……」とボソボソ呟いている一究に止めとばかりに言い放った。

「僕の『勝ち』だな。トウモロコシも手掴みが正解みたいだな」
「……っ、」
「ああそれと、泉くんが失ったものも返してもらうぞ。確か母親と彼氏……だったかな?」

君はマナー違反を幾つも犯したんだから、それくらいして当然だろう。そんな毅然とした態度ですっかり顔色の悪くなった一究を見下ろした露伴は、もう話すことはないと言った様子で応接室を後にする。

「イカサマは神々の怒りを買うぞ……」

だが、怒気を孕んだような震え声が耳についたことによって、露伴の足は敷居を跨ぐ前に動きを止めた。

「岸辺露伴様。再トライなさいますか? それとも本日はお帰りになりますか?」

どうしてもこのまま帰したくないのだろう。行く手を阻むように廊下に立ち、再びマナー試験の話を持ち掛けてくる一究。
露伴にとってその姿は悪足掻きをしているようにしか見えないのだが、一度理不尽な"死"を味わった名前からしたら小さな案内人の一挙一動は恐怖の対象でしかなかった。

「っ、ぅ……」

腕の中であからさまに身を強ばらせる名前に気づいた露伴は、両手が塞がっている自分の代わりに『ヘブンズ・ドアー』で家に入る前に脱いだ上着を名前に頭から被せ、外界から彼女を遮断させる。そして――。

「いいや? 生憎だが、怒りは買わずに済んでるようだぜ。マナーを犯したのはあくまで君の方なんだからな」

 ――だが帰る。二度と来るつもりもない。

こちらに全くの非はない。しかしこの場に留まる気もないことをハッキリと吐き捨てた露伴。
彼はもはや意気消沈とした一究など見えていないかのように横を通り抜け、名前と目が覚めたばかりの京香を連れて今度こそ『富豪村』を後にした。


* * *


記憶を改ざんしたおかげで『富豪村』の恐ろしい実態を何も知らない京香と、ぐったりと疲れきっている名前を背負った露伴が山を下り、見慣れた杜王町の地に戻ってきた頃には空が綺麗な茜色に染まっていた。

「……これは東方仗助に何か言われるな」

もうすぐ陽が沈むといった時間まで早朝から連れ回し、挙句顔色が悪く満身創痍の状態で名前を家に帰せば、ただでさえいがみ合う仲だと言うのに、他人が見ても分かる程名前に好意を寄せている仗助は青筋を立てて怒るだろう。最悪の場合拳の一発や二発は余裕で飛んでくるかもしれない。

「甘んじて受けるのは癪だが、」

全面的に責任があるのは確かだが、敵視している仗助に好き放題言われ、あまつさえ手を出されることがどうにも許せない露伴は心底嫌そうに顔を顰める。

「惨めったらしく言い訳するのもな……」
「仗助には私から説明するよ」
「!!」

いっそのこと出会い頭に『ヘブンズ・ドアー』でも仕掛けてやるかと、露伴がいつものように何とも狡い思考を浮かべた時、彼の耳のそばで柔らかな声が響いた。

「起きてたのか」
「うん……と言っても、ちょっと前にだけど」
「気分は?」
「大丈夫だよ、」

名前の場合「大丈夫」が本当かどうか安易に判断できないが、少なくとも会話ができるほどには回復していることは確かだと言えた。

「……そうか」

ここでまた名前が息を吹き返した時と同様の安心感を得た露伴は、ホッと胸を撫で下ろす。

「――ごめんね」

すると、そんな露伴の心情をまるで見透かしたかのように、先程よりも名前の小さな声が露伴の鼓膜を揺さぶった。

「どうした? 急に」

唐突な謝罪に露伴が少しだけ顔を後方に向けてみれば、彼の背中に背負われている名前が身動いだ。生憎肩口に顔を埋められているため表情は見えなかったが、微かに聞こえた「だって、わたし……」というくぐもった声に、露伴は彼女が何を思っているのか合点がいった。
相も変わらず他人を優先する名前に今度は溜息をついた露伴は、「お人好し」と吐き捨てる。

「……えっ、」
「この状況が僕に迷惑を掛けていると思ってるんだったら、それはお門違いだぜ」
「いや、でも……!」
「元々名前は僕に無理やり付いて来させられただけだ。こうなったのも僕がマナー違反を犯したから。だから君が謝る必要はない。むしろ謝らなければならないのは僕の方だな」
「え゙っ!?」

肝心な一言はなかったが、普段の露伴からでは考えられない素直さに、天と地がひっくり返る程の衝撃を受けた名前は、思わず露伴の肩口に埋めていた顔を上げて近くにある横顔を見つめた。

「――あ、」

少し赤らんだ露伴の頬。それが夕陽のせいではないことに気づいてしまった名前は、珍しい光景に目を大きく見張った。が――。

「あははっ!」

次の瞬間には驚いていた名前の顔に、楽しそうな笑顔が浮かんだ。

「なっ、なんだよ……?」

今までしおらしかった名前が急に笑い声を上げたため、露伴の肩がピクッと微かに跳ねる。もちろんその小さな衝撃は背負われている名前にもしっかり届いていて、それが更に彼女の笑いのツボを擽ってしまった。

「っ、んふふ……ッ!」

わがままで、自己中心的で、すぐ他人のプライバシーを侵すデリカシーのない理不尽の塊を表した岸辺露伴でも照れることあるんだ。
出会ってから初めて目にした露伴の少しだけ可愛い一面に、名前はそれはそれは可笑しそうに笑い続けた。

「おい名前、いい加減……」
「ふふっ、ごめっ……素直な露伴先生が気持ち悪いなって思ったら笑いが止まらなくてっ、」
「っ、君なあ……!」

素直になった方がいい。京香からそう口酸っぱく言われ、名前に対する特別な想いも自覚した露伴は、気恥しい気持ちを抑えて素直な言葉を口にした。が、今までのツケが回ってきたのか名前にはその素直さが気持ちが悪いと評され、大笑いされてしまった。これは彼にとってとんでもない屈辱である。

「――でも、ありがとう!」

文句のひとつでも言ってやろうと、再び背面が見えるように首を曲げた露伴。そこで今度こそ目に入った自分に向けられた名前の満面の笑みに、結局彼の口から出たのは満足そうな一言だった。

「フン。当然だろ」

そう言った露伴の表情もまた、嬉しそうに緩んでいたことは、沈み行く太陽しか知らない。


* * *


「名前さんッ!!」
「あっ、仗助! ただい――」
「てめー岸辺露伴ッ! こんな時間まで名前さん連れ回して何してやがったッ!?」
「うるさいッ! 貴様にとやかく言われる筋合いはないぞこのスカタンッ!」
「……やれやれだヨ」

東方家に着いた途端、やっぱり仗助と露伴の大喧嘩が繰り広げられたのは言うまでもない。


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