これは都合のいい夢だ。所謂"白昼夢"という類の夢に違いない。そうでなければ呼び掛けに応えるかのように、逢いたいと言う気持ちに応えるかのように名前が現れる訳がないだろう。

「(あいつが、ここにいる訳ねえ……)」

違う。今ここに、目の前にいる名前は本物ではない。こんなにすぐ、こんな簡単に彼女と逢えるのなら最初から引き裂く意味がないはずだ。だからこれは全て弱さが作り出した幻覚にすぎない。本物だと、期待するだけ無駄だ。そう承太郎は自分自身に強く言い聞かせる。

「っ、クソ…!」

だが例え本物ではなく、夢や幻覚であったとしても名前が目の前にいる。そうとなれば、承太郎が取る行動など最早一つしかなかった。

「名前ッ!!」

喉から絞り出すようにしてもう一度はっきりと名前の名を呼んだ承太郎は、こちらへ向かって来る彼女の細い腕を掴み、力任せに勢いよく引き寄せる。そして胸に飛び込むような形で近付いてきた華奢な体を、その二本の逞しい腕で閉じ込めてしまった。今度は絶対に離さないとでも言うように。それがいつかは消えてしまう、幻だったとしても。

「く…苦しいよっ……じょ、たろ…!」

しかし現実と運命の女神は実直な少年である、空条承太郎を見放してなどいなかった。

「…っ、本当に…名前なのか……?」

名前を呼ばれようが、動いている姿を見ようが本物だと素直に喜べなかった。ここで期待し、裏切られでもしたら次こそは心が折れるかもしれないと、そう思ったからだ。だが、勢いに任せた行動を取ったお蔭でようやく気付くことが出来た。腕の中にいる名前には温もりがあることを。苦しいと、抗議するようにとんっと背中を叩かれる衝撃が本物であることを。
悲観的な思考を覆す嬉しい誤算に、承太郎が胸に希望を抱きながらも恐る恐る尋ねてみれば、少しくぐもった声で「うん。名前だよ」と肯定する返事が耳に入って来た。

「どうやって此処に、」
「……私も、どうやって戻って来られたのか分からないんだけど……ただ、」

 ――承太郎に逢いたいって思ったら、いつの間にか此処にいたんだ。

思わぬ名前の返答に承太郎は息を呑む。周りが閑静な住宅街だったせいか、やけに大きく響いたそれは側にいる彼女にも勿論聞こえていただろう。だからかどうかは知らないが、名前は剥き出しの真っ白い腕を承太郎の背に回した。

「私ね、気が付いたら何もない白い空間にお母さん……夜兎の私を産んでくれた江華お母さんと二人っきりでいてね? 久しぶりに会えたからすごく嬉しかったの」
「…………」
「昔の思い出話とか、承太郎の話とか、エジプトまでの旅の話とかたくさん話して。お母さんも楽しそうに私の話聞いてくれるから、このままずっと一緒にいれたらいいなぁ……って思ったりもしてね、」

母親である江華とずっと一緒にいたい。子供であれば極普通の思いを抱いたことを名前が素直に伝えれば、承太郎の腕の力が更に強くなる。恐らく無意識なのだろうが縋るようなその行動に、名前は安心させるように承太郎の胸にぐりぐりと頭を摺り寄せ、「……でもね」と話の続きを紡いだ。

「お母さんが側にいても寂しいって気持ちが必ず私の心にあって……楽しいはずなのに何でだろうって、ずっと考えたの。それで私ね、やっと分かった……寂しいのは"承太郎が側にいないから"だって」
「! …っ、お前…」
「今まで一緒にいることが当たり前だったから気付かなかったけど……私、承太郎が側にいないとダメみたい、だし、それ程承太郎のことが好き…みたい」

どくん、と承太郎は己の心臓が大きく跳ねるのが分かった。別に名前の口から「好き」と言われること自体は初めてではない。でもそこには恋愛感情などなくて、あくまで"幼馴染み"としての家族愛でしかなかった。距離の近い関係だからこそ、他の男より向けられ難い感情。
しかしそれはもう過去の話だった。名前が今し方口にした「好き」は、明らかに今までとは違った。確信した訳ではないがあれは家族愛としてではなく、承太郎が長い間向けている感情と同じ――。

「あ、あのね、承太郎……」

そこまで思考を働かせたところで承太郎はもごもごと口をまごつかせ、くいっと制服を引っ張る名前に気付く。何かを言いたそうなその仕草に少し腕の力を緩め、体を離して三十センチ下に視線を下ろせば、頬を赤らめた名前の顔が目に映った。そして承太郎は確信する。彼女の頬の赤みは寒さから来たものではないことと、「好き」の意味を。

「じょ、承太郎さ……この前エジプトでその、こ、告白…してくれたでしょ? その日から今日までどのくらいの時間が経ってるのか分からない、けど……もし、承太郎がまだ私のこと、すっ…好きでいてくれてるのなら、私っ、承太郎と――」
「なあ、名前は知ってるか?」
「……え?」

既に相手から告白をされているとしても不安は募るもので、名前はぎゅっと承太郎の制服を握りながら必死に想いを告げようとしていた。しかしそれは、相手の唐突な問い掛けによって遮られてしまったのだ。何故このタイミングで質問をするのか。そもそも承太郎が何を聞きたいのか分からない名前は、酷く戸惑った様子で上方にある翠色を見上げる。すると承太郎は見上げてくる蒼色を見つめ返しながら、徐に制服を掴んでいる彼女の右手に触れた。

「この指輪に、と言うよりサファイアっつー宝石には『誠実』『慈愛』『徳望』って意味があってよ。よく婚約指輪に埋められることが多いらしい。つまり、これを贈るってことは……」

 ――相手に自分の"誠実で一途な愛"をやるってことになるらしいぜ。

真っ直ぐ、真剣な眼差しで宝石言葉を話す承太郎に、今度は名前が息を呑む番だった。
側を離れないと約束をしておいて、その約束を二度も破ってしまった私など愛想をつかれても可笑しくない。名前にはそんな不安が承太郎のことを考える度に付き纏っていた。だが、今の承太郎の言葉の意味を考えるなら――杞憂というやつなのかもしれない。

「名前は、俺がまだお前のことを好きでいてくれてるのなら……とか言ってやがったが、俺は今までもこれからも名前だけが好きだ」
「っ、…うん…」
「今はまだ親の手がいるガキだし、安っぽい指輪しか渡せねえが……いつか必ずこっちの薬指に本物を嵌めてやるし、幸せにしてやる」
「…う、ん…っ、!」
「だから――」

 ――俺と結婚を前提に付き合ってほしい。

今はまだ何も嵌っていない左手を手に取りながら、宝石言葉の通り誠実さが伝わる承太郎の一世一代の告白に、名前のサファイアに似た蒼い目からポロポロと滴が零れ落ちる。それが負の感情から流れたものではないと、彼女の様子から察することは容易い。しかし、告白はやはり自分からと言う気持ち故に先程名前の告白を途中で遮ってしまった分、言葉で求めているものが欲しい承太郎は「名前」と、この数週間荒んでいたことが嘘のように優しい、穏やかな声で彼女の名を呼んだ。そうすれば応えるように、きゅっと名前の左手を持つ右手が握られる。

「…わっ、私も…承太郎のことが、好きっ!」
「……ああ、」
「いっぱいご飯食べるし、不束者だけど…っ、こんな私で良ければ、よっ…よろしくお願いしま――っ!」

何とも名前らしい、いっぱいいっぱいの返事に愛しさが溢れ出した承太郎は、結局また名前が最後まで言葉を紡ぐ前に遮ってしまった。
間近で驚愕に見開かれた蒼色が見える。涙で濡れたことで、より本物の宝石のように美しく輝く瞳に承太郎は目を細める。そして間近で見えているのは名前も同じで、細められた綺麗な翠色に優しさと、深い愛情が濃く映っているのがはっきりと見えてしまった。唇に触れる柔らかい感触も相俟って途端に強い羞恥に襲われた名前は、少しでも軽減しようと視界を遮るように固く目を瞑る。ただそれでも抵抗する様子はなくて、そのことに心を満たされた承太郎は名前の背に手を回し引き寄せると、更に深く唇を重ね合わせた。

「(……名前が好きだ)」
「(好き、だよ…承太郎、)」

初雪が降ったとある寒い日。幼馴染みだった二人がようやく同じ想いを抱いてから交わされた本当の"ファーストキス"は、少しだけ涙の味がした。


* * *


「おはよう。承太郎」

補習授業の開始時間ギリギリに登校して来た承太郎に声を掛けた花京院は、「…ああ」と返ってきた一言に目尻を下げた。

「承太郎、昨日と随分雰囲気が変わったね。何か良いことでもあったのかい?」

 ――例えば名前さんのこと、とか。

昨日もそうだったが、まるで心の中を読んだかのように的確に当ててくる花京院に、承太郎は眉間に皺を寄せて嫌そうな視線を隣に向ける。

「……てめえ、昨日から何なんだよ」
「ふふっ、言っただろう? 承太郎は名前さんのことになると分かりやすいって。今さっき君が入って来た時なんて別人かと思うくらい表情が柔らかかったよ」
「…………」
「まあ、承太郎が分かりやすいってこともあるけど……実は昨日ジョースターさんから連絡があったんだ」
「じじいから連絡?」
「ああ。それはもう嬉しそうに『名前ちゃんが帰って来たんじゃよッ!』ってね」

ジョセフは名前を本当の孫のように可愛がっている。だからこそ戻って来たことが余程嬉しかったのだろう。終始興奮したまま「名前ちゃんが! 名前ちゃんが!」と話していた昨夜のジョセフを思い出しつつ、そのことを実の孫である承太郎に伝えれば、彼は大きな溜息と共に帽子の鍔を下げた。

「お袋と一緒になって喧しい程騒いでんなとは思ってたが、まさかそこまでだったとはな…」
「それくらいみんな嬉しかったってことなんだろうね。現に話を聞いた僕も嬉しかったし……って、それは承太郎だって同じだろう? 君に至ってはプロポーズ紛いの告白をしたって言うじゃあないか」
「…は、…?」

さらりと花京院の口から出て来た昨日の自分の行動に、承太郎は目を丸くさせる。「おめでとう」と祝いの言葉を述べる花京院は、一体どこでその話を知ったんだ。実は心理学に長けていて本当に心が読めるんじゃあないかと、承太郎が彼らしくない中々にくだらない考えを思い浮かべたところで、ある一人の人物が脳裏を過ぎった。

「……クソじじいか、」
「当たり。名前さんが戻って来たこととは別に『ひ孫を抱ける日も遠くない』って、とんでもないカミングアウトをしてくれたよ」
「あのじじい……燥ぐのにも程度ってモンがあんだろーが」
「そうだね。お蔭で僕は上げて落とされる羽目になった訳だし」

承太郎と名前が付き合うことになった。その報告をジョセフから受けた時、彼女が戻って来たんだと喜びの感情を胸に抱いていた花京院は、途端に悲しみという真逆の感情に襲われた。
よく"初恋は叶わない"と言うが、どうやらそれは本当だったらしい。想いを告げる前に突き付けられた非情な現実に、花京院は最早笑うことしか出来なかった。僕の初恋は叶わなかったのに、友人の初恋は叶うのかと。

「(……ずるいなぁ、承太郎は…)」

理不尽でどうしようもない言い分だと充分に理解しているが、承太郎の顔を見ても平静を保ってられるかどうか不安だった。醜い感情を向けてしまうのではないかと。しかし、いざ承太郎の幸せそうな表情を目の当たりにして、そんな不安はチンケなものだったと思い知らされた。

「花京院、」
「嫌だな、そんな怖い顔するなよ。確かに失恋のショックはあるし、まだ名前さんへの気持ちが無くなった訳じゃあないけど……僕はさっき『おめでとう』って言った通り、承太郎の長い長い初恋が叶ったことを嬉しく思ってるよ」
「……そうか」
「ただ一つ言わせてほしい。承太郎が名前さんを泣かせることがあったら、僕は遠慮なく君から彼女を奪うよ」
「…はっ! 改めて何を言うかと思えば……やれやれ、俺も見くびられたモンだぜ」

 ――そんなチャンスはぜってぇに来ねーから安心しな。

くいっと帽子の鍔を下げ、自信満々の笑みを浮かべながら強い意志が込められた翠色の瞳を向けてくる承太郎に、花京院は眩しそうに目を細める。男から見ても格好良いと思える男だ。きっと承太郎は本当に名前を泣かせるなんてことはしないだろう。やはり何処を見ても入れる隙なんてなかったのだ。

「……改めておめでとう。承太郎」
「ああ、」

どこか寂しさを孕んだ、しかし心の底から気持ちが込められた祝いの言葉に、承太郎は噛みしめるように目を閉じてそれを聞き入れる。その後彼らの間には会話は一つも生まれなかった。
やがて授業開始時間に差し入り、教室を訪れた教師が少し立て付けの悪いドアをガララッと大きな音を立てて開ける。これだけ見ればいつもと何ら変わらぬ光景と、日常の音だった。だが今日だけは違った。今日だけは、少し煩いくらいの開閉音に混じって声が聞こえたのだ。

 ――ありがとう。

この場にはドアを開けることに重きを置いている教師を除いて、たった二人しかいないのだ。誰が言ったかなんて分かりきっている礼の言葉に、花京院は吹っ切れたように破顔した。

「(…本当に、感謝してるぜ。花京院)」


空条承太郎にとって華の高校生活最後の冬は、忘れたくても忘れられない。ずっと想い続けていた大切な人と結ばれ、友人の深い懐を身を持って知れた最高のものとして、彼の心に刻まれることになった。


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