「はい奥様。バーボン・ウイスキーのソーダ割りでございますわ」

どろり、と青いマグカップになみなみと注がれたウイスキーのソーダ割り。またの名を泥水が名前の前に差し出される。彼女はとてもじゃないが飲めそうにない真っ黒な液体が入ったそれを受け取ると、「召し上がれ」と微笑む"小さな奥様"にニッコリと笑い掛けた。

「ありがとう。戴くわ」

手に持ったマグカップを少しだけ掲げて見せた名前は、戴くと言葉にした通りそれを口元へと近付けると、こくこくと喉を動かしながら中身を嚥下する。

「ぷはっ」
「まあ! 朝っぱらからお見事な飲みっぷりでございますね、奥様」
「ふふっ! たまにはこんな朝があっても良いと思うの。あっ、勿論旦那様には内緒よ?」

内緒と人差し指を立てて片目をパチリと瞑る名前は、嫌な顔せずウイスキーと称した泥水を飲む真似をしたことも相俟って、たちまちこの場でおままごとをしていた女の子達の心を掴んだようだ。ぱあっと花が綻ぶような笑顔を見せた女の子達は、私のも食べてと言うように名前の前に泥で作った力作のケーキやスープを並べていく。

「名前の奴……アンと一緒に居る時もそうだったが、結構子供の扱い上手いよなァ」

目の前に並べられた泥の塊が乗った皿に「どれも美味しそう!」と笑う名前を、少し離れた所で見守っていたポルナレフは感慨深げに呟く。ありゃあきっと良い母親になるぜ。何なら俺が父親に立候補でも、とポルナレフが名前と並ぶ自分の姿と、自分に似た男の子の姿を頭に思い浮かべたその時、「おい」と男の低い声が彼の鼓膜を揺さぶった。

「何だよ承太郎ッ! 別に妄想するくれーいいじゃあねーかよ!」

意外と、でもないが名前のことになると器が小さく、普段よりおっかなくなる承太郎にポルナレフは面倒臭そうに顔を歪めると、開き直るように妄想は個人の自由だと主張する。最終的には承太郎が名前に早く告白していれば俺だって他の恋を探すぜ、と何とも当て付けな主張をし出すポルナレフに、今度は承太郎の顔が至極不機嫌そうに歪んだ。

「さっきから何の話してやがる」
「はァ? "俺の"名前で妄想するなって話じゃあねーの?」
「……俺がてめえに話してえのはそろそろ九時になる、と言うことだぜ」

素っ頓狂な表情に加え、勘違いも甚だしいポルナレフの思考回路に一度大きな溜息を吐いた承太郎は、左手に持つタグホイヤーの腕時計をポルナレフに見せつけた。

「!!」
「じじいとアヴドゥル、やはり遅すぎるな」
「……もう三十分近く経ってんのか、」

ようやく承太郎の話が見えたポルナレフは、すぐ背後にある昨夜宿泊したホテルを見上げる。丁度今承太郎とポルナレフが居る場所から見える二階の一室。その部屋にはジョセフとアヴドゥルが宿泊していて、さながら『ロミオとジュリエット』のように先程彼らと言葉を交わしたのだが、それ以降中々姿を現してはくれない。だからこそぽけーっと待ち惚けを食らっていた名前は、ホテルの近くで遊んでいた地元の女の子達のおままごとに誘われたのである。

「……敵に遭遇しているのかもしれん」
「ちょいと見に行った方がいいかな」
「ああ。やれやれだがな」

今すぐ降りて行く。そう言って約三十分姿を見せないのは、追われる身の承太郎達からしたら何かあったとしか思えない。朝食もまだ済ませていないし、多少面倒ではあるが知らん振りを通す訳にもいかず、承太郎は腕時計をポケットに仕舞うと女の子達と笑い合う名前を呼んだ。

「おい、名前」
「なぁに?」
「行くぞ」

クイッと顎をしゃくってホテルへ行く旨を承太郎が名前に示せば、彼女はその意図をしっかりと汲んだようで、女の子達に一言二言話すと承太郎の元へとすぐ様駆け寄って来た。

「ジョセフおじいちゃんとアヴドゥルさんに何かあった……?」
「いや、まだ何かあった訳じゃあねーが……少し様子を確認した方がいいと思ってな」
「……そっか、」

先程までのおままごとで浮かべていた大人っぽい面影などまるでなく、迷子の子供のように不安を全面に押し出した表情を浮かべる名前に、承太郎はフッと口元に笑みを貼り付けながら彼女の頬を親指で拭った。

「……承太郎?」
「心配する気持ちも、そんな顔したくなる名前の気持ちも分からなくはねーが……顔に泥付けたままだぜ、お前」
「っ、うそっ、やだ……!」

きっとおままごとの最中、本人の気付かぬところで付着してしまったのだろう。名前は今日初めて会った女の子達に懐かれる程、"奥様"という役を無邪気に且つ、良く演じていた。きっと何気なく誘ってみた女の子達からしたら、泥で汚れることを厭わずに遊びに乗ってくれた名前は好意の対象でしかないだろう。だがそれは、一部始終を見ていた承太郎も同じだった。

「ポルナレフじゃあねーが……名前は良い妻にも、良い母親にもなんだろーな」

普段とは違う想い人の一面を目にしたお蔭か、珍しく素直で誰が見てもあからさま過ぎる承太郎からの好意。

「ううっ〜! もうほんと恥ずかしっ、」
「……やれやれ」

しかし彼の純粋で真っ直ぐな好意は、恋する乙女のように顔を隠して恥じらう名前には、残念ながら届くことはなかった。


* * *


ルクソールという町の中でも一際豪華で綺麗なホテル。そのホテルの観光や仕事で訪れたであろう宿泊客達で賑わうロビーを抜け、目的である部屋のドアの前へと立った承太郎は、両隣に居る飄々としたポルナレフとすっかり頬の赤みが引いた名前へ、力強い眼差しを向けた。

「ポルナレフ、名前……油断するなよ」
「誰に物言ってんだァ?」
「う、うんっ!」

それぞれの性格を表しているような、まるで正反対の返しをしっかりと耳にした承太郎は、ゆっくりと慎重に万が一の時を頭に入れながらドアを押し開いていく。だが――。

「…………」
「あれ?」
「ウーン?」

開いたドアの先に広がっていた光景は、承太郎達が思い浮かべていたような、悲惨な物ではなかったのだ。

「綺麗、だね?」
「……ああ。想像以上にな」

多少ベッドメイキングは乱れていたり、机から離れた所に椅子がポツンとあったり、窓は開きっぱなしになってはいるが、人が争ったような荒れた痕跡は全く見当たらない。男性が二人宿泊したにしては比較的綺麗な部屋の様子に、ポルナレフは「……フム、」と顎に手を当てる。

「部屋を見る限りでは何かあった様子もない。が、ジョースターさんとアヴドゥルの姿もないとなると……」
「や、やっぱり……ジョセフおじいちゃんとアヴドゥルさんに何かっ、」
「あった可能性は今や充分に高いな」

ガチャリ、とバスルームのドアを開いてその中にも二人が居ないことを確認した承太郎は、名前の言葉に続くように外でポルナレフへと話した『敵に遭遇してるかもしれん』が、現実味を帯び始めていることを告げた。

「……いよいよ、か」
「恐らくじじいとアヴドゥル、DIOの刺客はもうホテル内には居ねえだろーな」
「それじゃあ早く私達も……!」
「ああ。町に出るぜ」

ルクソールの町は広いうえに、観光スポットが幾つも点在しているため人の往来が激しい。そんな人の波の中で特定の人物を見つけ出すのは中々に骨が折れるものではあるが、何かがあってからでは遅すぎる。一刻も早くジョセフとアヴドゥルと合流せねばという状況で、名前とポルナレフは頼りになる承太郎を筆頭に、賑やかなルクソールの町へと飛び出した。
だが、まさかこの後――。

「……名前、か?」
「お兄ちゃん、だあれ?」

ルクソールの町で過去にジョセフから"天使"と称された、記憶にも思い出のアルバムにもはっきりと残っている幼い名前が現れるなど、この時誰が予想出来ただろうか。


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