どうしてわたしはこの霧の立ち込める森の中を彷徨っているのだろう.


これは、夢なのだろうか。陽炎が揺れていた道路の向こう側が、涙よりも鮮やかな景色の向こう側がどこにも見当たらない。霧に紛れていく一刹那で、とうに夏は終わってしまったと言うのだろうか。ちがう。そんなはずはない。いずれにせよ、何もかもおかしいのだから。

「…。」

肌をじんわりと濡らす熱、後ろから責め立てるような夏の陽射し、遠くで笑う子供達、にいにいと蝉の鳴き声が響く中、コンクリートの道路を歩いていた。そのはずだった。

「…わたしは…?」

気が付けばわたしは、この霧の立ち込める暗く深い森の中を歩いていた。

「ここはどこ…?」

後ろを振り返ろうとも、周りを見渡そうとも、空を見上げようとも、霧に阻まれてよく見えない。耳を澄ましても、鳥の鳴き声の一つも聞こえない。夏にしてはやけにひんやりとするのは、もう夜になったからだろうか。それに、この森には生き物の気配がまるで感じられない。不気味としか言えないこの雰囲気に思わず身体が固まる。ああ、これはきっと夢だ。だから何も怖がることは無いはずだ。両腕で身体を抱えて、自らにそう言い聞かす。それでも、唇から漏れるその言葉を飲み込むことは出来なかった。

「こわい…。」

戻ろう。この足が動かなくなる前に引き返そう。このままだと帰れなくなる。そうしようとした瞬間、まるでわたしを森の奥深くへと誘うように追い風が吹いた。がさがさと落ち葉が舞い、スカートの裾が翻る。少し、寒い。不意に、今振り向いたら何か恐ろしいものを見てしまうのではないかと、根拠のない、けれど本能が掻き立てるような不安に襲われる。寒い。身体を抱え込み、引き込まれるように歩みを進めていく。しばらく進んで行くと、視界の先にうっすらと建物が見えた。

「…グレゴリー…ハウス…。」

古い洋館の様な建物には、そう書かれた看板が掛かっていた。暗い森に洋館とは不気味そのもので、明らかなる異質に脳は警鐘を鳴らしている。それでも周りを見渡せど霧の向こうには虚ろが続くばかりで、静寂ばかりが耳に痛い。

(誰かいるかもしれない。)

ごくり、と唾を飲み込む。帰り道が分からない以上、頼れるものは頼った方が良いはずだ。意を決して伸ばした指先に触れた扉は、酷く冷たかった。はあ、と息をゆっくりと吐いても、心臓の鼓動は早くなるばかりだった。悲鳴にも似た音で軋む古びた扉を開け、わたしはその洋館へと足を踏み入れた。



「…お、おじゃまします…。」



がちゃり、と背中合わせの扉が閉まる。予想とは裏腹に中はわりと小綺麗な内装が施されている。しかし薄暗さの向こうからこちらを覗いてくる、その得体の知れない陰鬱さと不穏な静寂に足がすくむ。気配はする。しかしそれが人だとは確信できない。心臓がばくばくと鼓動を刻んでいるのが嫌でも分かる。

「…」
『お泊まりでございますか?』
「わっ!」

突然の声掛けに思わず肩が揺れ、情けなくらい喉が引きつった。身体中の血と内臓が一気に冷えきって、息を吸おうとひゅうひゅうと喉が鳴る。しかもこういう時に限って、今まで鑑賞したホラー映画のシーンが総集編のように頭の中に流れてくる。

(おばけじゃありませんように!)

祈るように掌を絡ませ、恐る恐る振り返る。

「、貴女は…。」
「え…?」

声の主はおじいさんだった。手にしている燭台の灯りにぼんやりと照らされたその人は、いつの間にかわたしの後ろに立っていたようだった。ああ、良かった、おばけじゃなかった。しかしその姿をよくよく見ると、あろうことか、その人には鼠のような耳と尻尾が生えている。被り物だろうか、それにしてはやけに生々しい。

(やっぱり…入らない方が良かったかなあ…。)

失礼な話だけれど、こんな気味の悪い森の奥で暮らすくらいだ。頭のおかしい人かもしれない。先程の総集編にも学ぶ通り、これはホラー映画の王道の展開だ。

(…あれ、この人…。)

聞くことだけ聞いてさっさと出よう。そんなことをぐるぐると考えていると、不意におじいさんの姿に不思議な気持ちを感じた。まるで、忘れてしまった昔の記憶を思い出すような感覚だった。胸の、奥の奥の方がそわそわとするその感覚に意識を集中させていると、そのおじいさんはわたしの横を通りすぎた。

「いえ、…しかし、このような夜に貴女のようなお客様が来るとは珍しいですな。」
「はい?」
「今夜はどうぞお泊まり下さい、すぐにお部屋をご用意致しますので。」
「えっ!あの、わたしは帰り道が知りたくて!」
「真夜中に、しかも霧が立ち込める森を歩くのは大変危険でございます。遠慮なさらずに。」
「あの、」
「これは申し遅れました。」

一礼し顔を上げその男は、にやりとわたしに笑って見せた。

「グレゴリーハウスへようこそ。私、当ホテルの支配人のグレゴリーと申します。」



ああ、何てことだろう。蝋燭の灯りに照らされた口角の歪みを見て、わたしは、この男が人間でないことに気付いてしまった。