宝箱には夜の太陽


※デフォ名:環海里

桜くんの右目くらい綺麗なお月様の光は、真っ黒な帳が降りた夜の闇を優しく照らしている。私は借りている自分の部屋のすぐ隣にある、201と書かれたプレートを前に古びたドアをノックする。
「桜く〜ん、起きてる〜?」
ノックなんてしなくてもたまに鍵が開いているくらいに不用心な部屋の主は、面倒くさそうな顔をドアの隙間から覗かせた。桜くんは、私がちょっとした手違いで入学してしまった風鈴高校に通う同じクラスの男の子だ。いつもみたいに学ランは着ておらず、白いTシャツにジャージという実にラフな格好だった。
「…んだよ、何か用かよ」
そう、なんの用もなしに桜くんの部屋に突撃した訳じゃない。今の私にはちゃんとした理由があるのだ。
「銭湯行こ!」
「一人で行け」
このボロアパートには備え付けの風呂場はあるものの、湯船にお湯を入れるだけでも水道代がそれなりにかかってしまう。そういう理由で普段はシャワーだけにして、ちゃちゃっと済ましてしまう。だからこうしてたまに銭湯まで行ってのんびりと過ごすのだが、今日は昼寝していたら夜までぐっすり眠り込んでしまい、こんな時間になってしまった。素直に言うと、一人で行くのは心細い。桜くんはくだらねぇと肩を竦めて玄関のドアを閉めようとした。
「あぁ!桜くん、ドア閉めないで!?今日は湯船に浸かりたい気分なの!こんな夜道をか弱い女一人で歩かせないで〜!ね、お願い!」
桜くんは何かを言いかけて口を閉じる。多分、か弱い?どこがだよって言おうとしたんだね。残念ながら考えてること全部顔に出てる。
「…ちょっと待ってろ」
「やったー!ありがとう、桜くん!」
扉越しにガサガサっと物を漁る音がしたかと思うと、すぐにドアが開く。桜くんの小脇には、桶に着替えやタオルなどが入ったお風呂セットが抱えられていた。ちなみにこのお風呂セットは前に銭湯へ行った時に売っていたもので、一緒に行く機会があるといいなと思って桜くんにあげたものだ。捨てられてなくて良かったぁと、ほっと胸を撫で下ろした。まぁ桜くんは優しい人だから、貰い物をすぐに捨ててしまうようなことはしないだろうけど。
「ったく…明日何か奢れよ」
「じゃあ朝ごはんはポトスに行こう!あ、夜ご飯食べた?昨日の残りがあるからさ、帰ってきたらうちで食べようよ」
「...野菜は食わねぇからな」
渋々といった感じで唇を尖らせてそっぽを向く桜くんは、まだちょこっと警戒心の抜けてない野良猫のようで、可愛がりたくなってしまう。本人に言ったら確実に怒られるのは目に見えているので、これは心の中に秘めておこうと思う。野菜が苦手なところも可愛い。
「は〜い!野菜は私が食べます。あ、玄関ちゃんと鍵閉めた?」
「閉めた。行くぞ」

ポツポツと道を照らす電柱の明かりの中を2人で並んで歩く。ノロノロと歩く私に歩幅をさりげなく合わせてくれる桜くんに気づいて、胸がポカポカする。そういえばと、私は自分のお風呂セットの桶から先日購入したアヒルのソフビ人形を取り出した。
「見て、桜くん。これね、駄菓子屋さんに売ってたの。アヒルさんセット」
「ガキかよ」
「可愛いでしょ?5個セットだったから、1個あげるね」
「いらねー...おい、言ってる側から桶に入れんな」
網の袋からアヒルさんを出して、桜くんのお風呂セットに突っ込む。入れんなっていう割には突っ返してこないところが桜くんの優しいところで、なんだかんだ受けとってくれている。一緒に行くとはいえ、銭湯の中に入れば当たり前に別々になるのだから、アヒルさんを私だと思って欲しいと思う。
「桜くんひとりじゃ寂しいもんね」
「...ふん」


桜は男湯の湯船で頭を抱えていた。いつもの様に1人であれば部屋のシャワーで済ませて、布団でゴロゴロしてる時間だ。本当ならこうやって銭湯に付き合うのだって面倒くさいと思うが、環の頼みにはどうにもこうにも弱かった。環の押しと粘り強さに毎度断りきれないのだ。顎の辺りまで湯に浸かり悶々とする桜の耳にスライド式の戸が開く音が聞こえ、そちらにちらりと視線だけ向けると、先日桜とタイマン勝負をした獅子頭連の十亀だった。特徴の一つであるサングラスはしていないが、顔はしっかりと覚えている。
「あれぇ、桜じゃん。珍しいねぇ」
「普段は来ねぇ。今日は付き添いだ、付き添い」
「誰の?男湯、俺と桜しかいないけどぉ」
周りを見回す十亀に、桜は何だか知り合いに今のこの状況を知られることがなんだか気恥ずかしく感じ、少し言い淀んだ。
「…女湯の方にいんだよ」
しかし、十亀はなぜ桜が女子とこんな夜更けに銭湯にいることになっているのかということに関してはあまり気にならなかったらしい。むしろ一緒に来ている相手の方に興味があるようだった。
「あ〜もしかしてたまちゃん?なんで?」
「借りてる部屋が隣同士」
「へぇ、そんなことあるんだねぇ。仲良しだ」
「な、仲良くねぇよ!」
「ははっ!仲良くなかったらこんな夜遅くに銭湯なんて一緒に来ないでしょ!」
「ぐぅ...」
カラカラと笑う十亀に桜は、なんだコイツ…環と知り合いか?たまちゃんなんて呼んでる奴はうちのクラスの連中くらいだ、と眉にシワが寄せた。
「何、桜。アヒルさん持ってんの。結構可愛い趣味してるんだねぇ」
「俺のじゃねぇ。環がさっき渡してきたんだよ」
桜は環から押し付けられたアヒル人形を放置せず、律儀にも湯船に浮かしていた。視界にチラチラと入っていたのだろう。十亀は手を伸ばし、プカプカ泳いでいるアヒルを人差し指で突っついていた。
「いいねぇ。...そうだ。たまちゃんにさぁ、お礼しなきゃって思ってたんだよねぇ」
「なんで」
「ほら、風鈴とウチでタイマン勝負した後に有馬たちの手当してくれてて」
「へぇ」
「あとどこで会ったんだか、この前ちょーじに駄菓子買ってくれたらしいんだよねぇ」
ちょーじはどうもそれがすごく嬉しかったみたいでぇ、その日オリにいた奴らの端から端まで同じ話して自慢してんの、と間延びした口調で十亀は嬉しそうに環と兎耳山の話を語った。
「はぁ、それで駄菓子屋かよ...てかアイツ結構顔広いんだな」
「ほんとにねぇ」
顔を顰めて腑に落ちないという表情をした桜は、ぶくぶくと鼻先まで湯に潜っていく。十亀はのんびりとした動作で湯船の縁に頭を預け、高さのある天井を見上げる。その表情はどこか穏やかだった。



「あ!十亀さん、こんばんは!」
ちょっと温まりすぎたかも…と桜と共に男湯を出ると向こうもよく温まっていたのか、ふにふにと柔らかそうな頬を赤らませ、ふわふわのタオルを肩にかけて、コーヒー牛乳の瓶を開けながら女湯からたまちゃんが出てきた。
「たまちゃん、こんばんはぁ。元気してた?」
「桜くんに銭湯連れてきてもらえたので、ウルトラ元気です!着いてきてくれてありがと、桜くん!」
輝くような笑顔のたまちゃんを見て、顔を真っ赤にした桜は勢いよくそっぽを向く。まるで茹でダコのようになっていて少し面白い。
「それはよかった。ねぇ、桜」
「…うるせぇ」
「あ、桜くん照れてる。可愛いね」
「照れてねぇよッ!」
「顔真っ赤で全然説得力ないよぉ、桜」
たまちゃんも照れる桜を見て、今だと言わんばかりにからかい始めた。それに対してまた桜が過剰に反応するもんだから、たまちゃんは楽しそうに笑っている。
「十亀さんはよくここに来るんですか?一人?」
「うん。ちょーじも一緒の時もあるけど、一人で来る方が多いかなぁ」
「そうなんですね!じゃあ1人の時のお供に、このアヒルさんを十亀さんにも贈呈します」
「いいのぉ?ありがとね」
たまちゃんはコーヒー牛乳を店先にある腰掛けに置き、反対の脇に抱えていた桶からアヒルの入った網の袋を取りだして、その中の1羽を手渡してくれた。先程突っついていたアヒルとは違う顔、心なしか眠そうな顔をしている子を受け取った。もしかしたら、彼女から見た俺はこんなイメージなのかもしれない。私と桜くんと十亀さんでお揃いですね〜!ハッ!アヒルさん仲間だ…!と楽しそうに桜と戯れあっている彼女はまるで道端に咲くたんぽぽのようで、自分の心がじんわり温まっていくのがわかった。
「十亀さん、何か嬉しいことありました?」
「そうだねぇ。嬉しいこと今あったよ」



環の部屋は俺の部屋と同じ間取りのはずだが、全く雰囲気が違う。なんで男装までして風鈴に通っているのかまったくわからないような、実に女らしい可愛いが揃った部屋だった。本人曰く行こうと思っていた高校と風鈴高校を間違えて受験したんだと、ケラケラと笑っていたが普通間違えるか?そもそも男子校だぞ、風鈴は。前にそうやって疑問をぶつけた事があるが、なんの幸運か…いやよそから見たら不運かもしれないが、己のミスだけでなく学校側のミスも重なって今の状況にあるらしい。当の本人は実に楽観的で全く気にしていない様子に、俺や楡井、蘇枋を始めとしたクラスメイトも、梅宮たち防風鈴の先輩も特別そこに触れることはしない。女だからといって、別に喧嘩ができないわけじゃなかったし、拳の力は弱くとも足技なら楡井よりも断然強かった。
俺はこのふわふわした空間にいるのが苦手だ。環の機嫌の良さげな鼻歌、いつも使っているのであろう柔軟剤の花の香り、今座っている妙に座り心地の良いパステルカラーのクッション。段々胸の当たりがむず痒くなってドギマギしてしまう。何だかいたたまれなくなり、台所の方に視線をずらすと、エプロンを着けた環が冷蔵庫から出した皿を電子レンジで温め直していた。俺の視線に気づいたのか、環はこちらを振り向いてへらりと笑う。
「まさか十亀さんに会うとは思わなかったね」
「そうだな」
電子レンジが温めの終わった合図を鳴らす。折りたたみ式の丸いパイン材のテーブルに置かれた大きめの皿の上には、実に美味しそうな生姜焼きが並べられていた。思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。環が「桜くんは沢山食べるもんね」とご飯を大盛りによそって茶碗を手渡してくる。この白地に桜の花びらが描かれた茶碗は、環が東風商店街の陶磁器屋で購入した物だった。桜くんがご飯を食べに来てくれるなら、ないと困るでしょと。環の部屋は箸や皿、コップなどの食器は複数置いてあるから、茶碗がひとつ増えたくらいでは何も思わないのだろうが、わざわざ俺のために買ったのだという点に関してはいまいちよく分からなかった。
いただきます、と手を合わせて生姜焼きを食べ始める。生姜焼きのタレのしょっぱさと白米の組み合わせってこんな美味いんだな、とよく咀嚼してから飲み込んだ。
「よく考えたらあそこの銭湯、ギリギリ獅子頭連のナワバリに入ってるのかも。なんで今まで会わなかったのか不思議」
「あぁ」
誰かと他愛もない会話をしながらの温かい食事にまだ慣れていなくて。俺は上の空で環の会話に相槌を返していた。するとそんな様子に気づいたのか、環は箸を止めて心配そうに俺の顔を正面から覗き込んだ。
「…桜くん大丈夫?さっきから空返事ばっかりだけど。嫌いなもの入ってた?生姜焼きの生姜もアウト?」
「ちげぇーよ。生姜焼きは、その…あれだ…美味い、と思う」
「ほんと?嬉しい」
環の視線から逃れるように俺は俯く。別に何か言おうとした訳じゃなかったのに、ポロッと口から言葉が無意識にこぼれ落ちた。
「…なんかお前といると、拍子抜けするっていうか。毒気が抜かれると言うか…」
「さ、桜くん!!!」
急に立ち上がり、歓喜の色を含んだような声を上げた環はタックルする勢いで俺の前に膝をつき、その小さくて柔らかな手で俺の両手をすくい上げた。そして大事な大事な宝物を手で包むかのようにぎゅうと握ってくる。人に触れられる、それも壊れ物を扱うかのように優しく触れられた事がむず痒くて、慣れていないが故に驚いて体が硬直する。
「な、なんだよッ」
「桜くんが私のことを友達みたいに思ってくれてたなんて、すごく嬉しい!」
「は…はぁ!?と、友達!?」
思わず素っ頓狂な声をあげる。環は口元を緩めながら握っていた手を離して、指を1本ずつ曲げて数え上げていく。嬉しそうにへにゃへにゃした笑みを見て、肩に入っていた力が抜ける。
「一緒に外に出かけてくれたり、夜ご飯食べてくれたり…あと明日は朝ごはんも一緒に食べに行ってくれるんでしょ?もうそれって友達同士がすることじゃない?」
「…そういうもんか」
「そういうもんだよ!桜くんは私と友達なのはいや?」
「あ〜…」
環の纏うふわふわした雰囲気も、一緒に過ごして胸が温かくなることも、全然慣れなくて気恥しいし、心に染み付いている拒絶されるのではないかという恐怖が全部なくなったわけじゃない。だけど、
「お前とこうやって飯食うのは嫌いじゃねぇ…」
思ったよりも小さい声で我ながらダセェなと内心感じたが、環には些細なことだったのかパァっと表情明るくした。声には少しの戸惑いとそれを超えた嬉しさを含んでいるようだった。
「わっ!わぁ!桜くん〜ッ!大好き〜!」
「あ、馬鹿!おい、抱きつくなッ!」

今日は妙に温かくて、明るい夜だった。