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誰もいない実習棟第二実験室の窓から雲ひとつない青い空を見ていた。最近の私の日課である。3年生に上がり、選択授業が増えたことで空きコマができてからは、すっかり出来損ないの溜まり場になっていた科学部室で、午後をゆっくりと過ごしている。

様々な種類の器具が綺麗に並んだホワイト調の戸棚から、アルコールランプに金網、三脚の化学基本三点セットを引っ張り出し、窓側1番後ろの席に置く。金網にビーカーをのせたら、ドリッパーをセットし、コーヒー粉をペーパーフィルターに入れる。勿論、コーヒー豆はお気に入りのを挽いてもらったやつで、ドリッパーはここに来ると決めている時は持参している。まぁ、流石にケトルは持ち歩けないから、そこは妥協してヤカンを使わせてもらっている。
私が第二実験室もとい科学部室を選んだのは、ただ単にこの時間は人気がないこと、そして曲がりなりにも部長権限で部室の鍵を管理しているからである。騒がしい日常から切り取ったように訪れる静寂が、どこか非日常的で、未知の世界に自分だけ隔離されたようで心地が良かった。

お湯を注ぎ、蒸らす。コーヒーが落ちる音、時計の針が動く音、自分の呼吸、微かに外から聞こえてくる生徒の声。この科学部室だけ切り取られたように何もかもが遠く感じる時間が私はたまらなく好きだ。
抽出したコーヒーをカップに入れ替えず、そのままビーカーから一口一口ゆっくりと味わっていると、なんの前触れもなく前のドアが音を立てて開いた。

「今日も来てたのかよ、夜」

先輩に対して敬語ひとつ使わない、なんとも失礼である男。初めてあった時は白菜のような色合い、箒のように逆立った髪を、つい2度見してしまったのはここだけの秘密だ。こんな面白い髪型してるのは、この学校で千空くんだけだろう。

「こら」
「......センパイ」
「はいこんにちは、千空くん」
「あ〜クソ。やっぱ慣れねぇな」

軽く窘めると、千空くんはバツが悪そうにそっぽを向いてから決まって、「センパイ」と言葉を付け足す。何度もこのやり取りをしていると、この後輩に思えない男が可愛らしく見えてくる。まぁ、付け足してくれる時は大体”部長”に何かをお願いしたい時であることはこの2ヶ月で学んだ。そう、都合がいいのだ。

「前にビーカーでコーヒー飲むのやめろって言ったろ」
「新品の下ろして、それをずっと使っているから大丈夫」
「勝手に新品の備品下ろしたこと、バレたら俺のせいにされんだからな。絶対バレんなよ、夜センパイ」
「はーい」

「ったく...」なんて眉間に皺を寄せつつも、科学部の活動に1ミリもやる気のない幽霊部員の私を追い出さないでいてくれる。





出来損ないの溜まり場だった科学部は4月に千空くんに乗っ取られた。というのも小園をはじめとした『なにもしない』落ちこぼれたちの怠惰の楽園に、千空くん他新入部員が足を踏み入れたことがきっかけである。その全貌は当時科学部に行ってなかった私にはさっぱりわからなかったのだが、どうやら一悶着あったらしい。結果、部員たちは科学大好きっ子に洗脳されたはじめたわけだ。
その話はすぐに部長である私の元に届いた。というか、千空くんの方から来た。

「テメーが科学部の部長、天ノ川夜か」
「そう、ですけど」

面倒ごとはごめんだと無視を決めようとしたが、二度見してしまったことで白菜男と目があってしまった。誰でもそうなる。だって、白菜頭が白衣着てるんだもん。興味がなくても見ちゃうだろこんなの。石神千空と名乗った後輩は、ポケットからエクセルでご丁寧に作られた注文書と記載されている紙を出し、私にずいっと近づけた。

「これから科学部で使う器具やら薬品だ。注文書を出すには、部長のサインが必要らしい。幽霊部員だとしてもテメーに確認をしてもらわなきゃならねぇ」

はぁ、と息を吐く私など気にせず、矢継ぎ早に話を続ける。目の前にある注文書にざっと目を通すが、電池にダイオード、ソケットにトランジスタ、ガスボンベ、以下コンデンサ。科学というか電気工学だ。一体この男は『何もしない』部活で何をしでかすつもりでいるんだ。

「ここに確認しましたってサインをすればいいってことね…はい、これでいい?」
「あぁ、問題ねぇよ」

サインを受け取った彼は、早足で科学部室に帰ると思ったのだが。どうにも受け取った注文書を見て、その場を動こうとしなかった。その無言の時間は実際一分にも満たなかっただろうが、妙に居心地が悪かった。おもむろに顔を上げた石神くんは、私をその真っ赤な瞳でじっと見つめた。心なしか口元が上がっているように感じる…初対面でもわかる。これは完全に悪いことを考えてる顔だ。

「サインしたってことは、この実験に了承したってことだよなァ?夜テメーも道連れだぜ」
「は?」

先輩に向かって呼び捨てにタメ口、随分と失礼なやつだな、なんて考えていたもの全部吹っ飛んでしまった。実験に了承なんて1ミリもしてないんだけど。
拒否する間もなく、あれよあれよと石神くんに流され、電気銃製作を小園やナイスたちとやることになってしまったし、後日開催されたペットボトルロケット大会にまで参加する羽目になった。大会で優勝した新入部員の山岡くんは、科学部の海神の称号を得ている。
科学部は何もしない部活だったんだけどな、と心の中でごちた。



そのまま部長の面倒臭い仕事も引き継いでくれりゃいいのに、乗っ取りの完了した今でもそこだけは私が処理するのだ。部を回しているのは千空くんだし、名ばかりの部長である幽霊部員の私がやる必要は全くもってない。大体部長の座はもう千空くんのものなのに。もはやパシリなんだろうな。くそ〜と内心思うと同時に、つくづく自分はかわいい後輩のお願いに弱いんだよな。なんて今日もいそいそと部活の準備を進める千空くんをぼーっと見つめる。やる気のない私の口からぽつぽつとこぼれ落ちる何ともない話を、千空くんは適当な相槌を打って聞いてくれていた。

「つかなんで、夜テメーは科学部室でサボってんだ?選択授業、あんだろ」
「サボりじゃないよ。この時間は空きコマ」
「じゃあ早帰りできんじゃねぇか」
「今日の実験は100億%おもしれぇから、絶対来いって連絡してきたの、千空くんですけど」
「あ〜あ〜そういやそうだったわ。わざわざ来てくれるとは、おありがてぇことだ」

めんどくさいから何もしない、興味がないといっていた私だったが、千空くんから連絡が来る時だけ部活に参加している。『科学は世界の全て』だと豪語し、ロケットエンジンを作って宇宙の玄関まで飛ばすことに成功した時は柄にもなく、大喜びしてしまった。つまりはすっかり千空くんのいう科学とやらの虜になってしまったのだ。
それ以降、千空くんの隣で助手という名の小間使いをしている。おかしいな...私先輩なんだけど。

「夜」
「ん?」
「次コーヒー入れるなら、俺が来るまで待ってろ。100億%美味いの入れてやるからよ」
「え、千空くん、もしかしてコーヒー入れるプロなの?モンエナ飲んでるところしか見たことないけど」

黄緑色の缶に爪痕がついたデザインの、皆お馴染みエナジードリンク。私もテスト前は大変お世話になっているけど、千空くんはもはや水と同じように飲んでるんじゃないかなって思う。

「コーヒーの焙煎も科学だ。理屈が分かれば、それなりに美味いコーヒーが入れられる。化学反応、つまりはばけがく
だな」
「科学とばけがく
どう違うの?」
「単独の物質の持つ性質や構造だけじゃなく、複数の物質を反応させて、その変化を研究するのが化学。そういうの色々ひっくるめてるのが科学」
「化学は科学の一部ってことじゃん」
「簡単に言うとそういうこった。広義の科学はそもそも理科系だけにとどまらない学問だがな」
「難しいね」
「そうでもねぇだろ」

頭を使うより体を動かす方が得意だった私からすると、踏み込んだ話はよく分からないけど千空くんが科学的根拠を持って美味しいコーヒーを入れてくれるのだから、きっと彼の言うように100億%美味しいんだろう。また来てんのかって言ってたくせに、次は、なんて言ってくれる千空くんは優しい。その事実に口角が自然と上がっていくのが、すぐわかった。

「何笑ってんだ」
「別に?楽しみだなって」

5月の終わり、梅雨入り前の、地球上の人類全員が石化する少し前の約束で。結局、1週間後と思っていた約束が果たされるのが約3700年後になってしまうなんて、私は思ってもいなかった。

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