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今日はついてない日だ。
毎朝画面越しに顔を合わせるニュースキャスターの天気予報は晴れ、降水量は0%という言葉を信じ、必要最低限の荷物を小さなショルダーバッグに詰めて外に出た。なのにどういう事だか今現在土砂降りの雨がアスファルトを激しく打ち付けている。雨雲レーダーはちゃんと仕事をしているのかと腹立たしくなった。
浮ついた気持ちでセットした髪やメイクも、一目惚れして買ったおろしたてのワンピースも今となっては肌に張り付いて不快な代物だ。
見栄を張って買った高めのヒールも全部履き捨てて何も考えずに走り出したい気分だった。

ふと、あの人ならどうするだろうかと考える。
スッと思考が停止し、頭が冷える。私は踵を翻した。丁度後ろを歩いていた通行人とぶつかりそうになり、すみません...と小声で謝りつつ足早にその場を去ろうとする。が、やはりついてないのだ。ショルダーバッグの口が閉まってなかった。イライラして乱雑に突っ込んだスマートフォンは無情にも、雨と一緒に地面へと滑り落ちた。

「最悪...」

ぽつり、雨音しか聞こえない通勤路で"私"らしくない悪態が口からこぼれてしまう。

「あれ、初華さん?こんな所でどうしたんですか?」

もう諦めようと大きな溜息を吐き出した時、後ろから肩を叩かれた。最近あの人が好きそうだと思って通っている喫茶ポアロの店員、榎本梓だ。梓さんは仕込みの材料でも買い込んだのか、パンパンに詰まったスーパーの袋を両手に持っていた。かろうじて傘を差してはいたが、荷物が多いせいか上手く差せず肩口が濡れてしまっていた。こんな可愛い子を一人で買い出しに行かせるなんて...と思うが、現在ポアロにはマスターと梓さんしかいないそうで。私が車を運転できたら、いつでも梓さんの足になるのにと何度考えたことか。残念ながら私は運転免許証は取ってないので、到底無理なことだ。

「あー...今日傘を忘れてしまってこの通りです。あはは...」
「大変!良かったらポアロで雨宿りして行きますか?そのままずぶ濡れだと風邪を引いちゃいますし、傘もお貸ししますよ」
「ありがとうございます、梓さん。お言葉に甘えてぜひお店までご一緒させてください」

私は梓さんの右手から食材の詰め込められたスーパーの袋をそっと奪い取り、肩にバランスよく掛けられていただけのビニール傘を手にして梓さんの方へ傾けた。ありがとうございます、と微笑んでくれる梓さんはとても可愛らしくて癒されるなぁ。少しだけ復活したメンタルで、ポアロへの道のりをゆっくりと歩く。

先程よりも心持ち優しく静かに降る雨の中、たわいもない話を聞かせてくれる梓さんに時々相槌を打っていた。赤と白がお馴染みの看板を通り過ぎ、雨避けのシェードに入るとふとして疑問が浮かび、そういえば...と梓さんに切り出した。

「梓さんがお昼に買い出しって珍しいですね。今日はマスターがいらっしゃるんですか?」

傘を閉じ、柄をもって表面についた雨粒を振り払う。梓さんがそっとドアを開けるといつも通りベルがカランカランッと子気味よい音を立てる。梓さんはこちらを振り返り、嬉しそうな顔を向けた。

「昨日から新しいバイトさんが入ったんですよ!」


店内に足を踏み入れると、喫茶ポアロは丁度最繁時を過ぎてゆっくりとした時間が流れていた。カウンターにはマスターではなく、梓さんが言っていた新人アルバイトの男がグラスを拭っていた。思わず、うわ...と声が出てしまいそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。高そうなシャンプーを使って念入りに手入れをしてそうなサラサラとした金髪、クリームパンみたいに美味しそうな褐色肌にベビーフェイスとも言える端正な顔立ち、色素の薄いブルーの瞳は世間の女性たちを虜にしそうなハーフの男だった。
私を視界に捉えたアルバイトの男は目を一瞬見開き、不自然に動きを止めた。きっとぐちゃぐちゃになった濡れ鼠の私を見て驚いたのだろう。店内を濡らしてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「梓さん、おかえりなさい。...隣の方は?」
「常連の藤川初華さんです!途中でお会いしたので。あ、安室さん!タオル持ってきて貰えますか?初華さん大雨の時にあたっちゃったらしいんです」
「あぁ、突然土砂降りになりましたから。大変でしたね。今タオル持ってきます」

梓さんから私の事情を聞いた新人アルバイト──安室透は先程の一瞬の不自然さなど、まるで無かったかのように人当たりのいい笑みを見せ、奥へタオルを取りに行った。顔がいいな。世の中の理不尽を見せつけられた気分だ。

「かっこいい方ですね。これから女子校生のお客さん増えそう」
「初華さんもそう思いますよね!」

かっこいいなんてつい心にもない言葉を吐き出してしまった。まぁ、安室さんのことが広まったら女性のお客さんは増えそうだけども。

「でもどうしてポアロでアルバイトを?マスターのお知り合いとか?」
「弟子入りしたんですよ。あぁマスターではなく、上に探偵事務所を構えている"眠りの小五郎"と呼ばれる探偵、毛利先生にですけど」
「へぇ〜じゃあ安室さんは探偵なんですね」
「僕なんか毛利先生と比べたらまだまだですよ」

安室さんが持ってきてくれたふわふわで触り心地の良い白のマフラータオルを受け取る。そういえばポアロの上はあの有名な探偵事務所が入ってたっけ。私にはあんまり関係なさそうだな。濡れた髪やカバンをタオルで順に拭いていく。張り付いた服はさっきよりもだいぶマシになった気がする。そのままカウンターの一番端に案内され、見慣れたメニュー表を眺める。小さい喫茶店の割にメニューのバリエーションが豊富で、どれも美味しいのだからびっくりだ。いつもはアイスティーにレモンをつけてもらうのだが、流石に冷えた体にアイスはちょっと...と思い、ホットコーヒーを注文する。

「コーヒーにミルクはお付けしますか?」
「あ、いえ...ブラックが好きなので」
「かしこまりました」

昔はコーヒーなんて、ラテにしても飲めるものではなかった。なんたって口に入れた瞬間なんとも言えない苦味や酸味が広がり、すぐにでも甘いミルクを腹一杯に飲み干したくなる勢いだった。ミルクでうがいしたっていい。大人になっても絶対飲めないと思っていたのに、先のことは分からないものだ。今の私はイケメン店員に向かって「コーヒー、ブラックで」なんて注文できるようになってしまうのだから。頬杖をつき、カウンター越しに安室さんをじっとみる。彼は丁寧な手つきでドリッパーにお湯を注いでいく。昨日入ったばかりなのに随分手馴れているんだなと感心してしまった。普段から自分で入れるのだろう。
不意にアイスグレーに映る私が見える。あ、綺麗な色だなと思った。

「...僕の顔に何かついてますか?」
「え?あぁ、いえ、その......アルバイト初日なのに随分手馴れてるなと...コーヒー...」

よく家でも入れるんです、と安室さんは困ったように眉を下げて笑う。この店員、イケメンなだけじゃなくあざといのかと的外れな考えが頭をよぎった。はぁ...と煮え切らない返事をし、画面の割れたスマホに視線を移す。落としたところからヒビが枝のように広がっていたが、辛うじてスマホとしての機能は生きているようだった。

「ホットコーヒー、お待たせしました」

湯気の立つ白いカップからコーヒーの香ばしい香りがいっぱいに広がる。私が頼んだものはこれだけだったのだが、安室さんの左手にはもう1皿残っていた。不思議に思い、顔を上げるとアイスブルーの瞳は優しげな色を帯びていた。

「あとこれを。貴女に出逢えた記念にご馳走させてください」

コーヒーカップの横に置かれたポアロ特製ケーキは、輝く宝石箱のようだ。真っ白なクリームの上にのったイチゴはまるでキラキラ輝くルビーに見えて食べてしまうのが勿体ないくらい。キッチンにいる梓さんの方に視線を送ると、とてもにこやかな表情とグッドサインが返ってきた。一体何なんだ?と首を傾げた。奢られて悪い気はしないし、ポアロのケーキは1度食べてみたかったから。

「安室さんって結構キザなんですね。...その、ありがとうございます」

はにかむ安室さんにグラッとしたものの、それを悟られないようふわふわのスポンジにフォークを入れる。口に広がる甘さは先程の苦い記憶を忘れさせてくれるようだった。

店内にはゆったりとした時間が流れ、さっきまで感じていた不快感はちっとも残っていなかった。