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先日とはうってかわり、雲ひとつない青々とした空が窓越しに広がっている。午前中の診察を終え、凝り固まった体をぐーっと伸ばす。
現在経営しているこの"藤川医院"は両親からあの人が受け継いだものだが、私も今となってはすっかり医者姿が板についてきていた。いわゆる町医者というやつで大きな診療所ではないが、近所の人々にはなかなか評判がいいと看護師が言っているのをこの間耳に挟んだ。そして毎週水曜日の午後は休診というのは昔から変わらない。駆け込みの患者もいないし、受付の事務作業ももうすぐ終わりそうだと聞いていたので、今日はこのままポアロでお昼にでもしようかなと考えていた。忘れもしない大雨の日に大変お世話になったイケメン店員とはできれば出会いたくはないけど。

「藤川先生、お客様...いえ、急患だそうです」
「誰?」
「それが...」

羽織っていた白衣を最近買い換えたキャスター付きの椅子に掛けたところで看護師から声がかかる。わざわざ客ではなく急患だと言い直すあたりで誰が来たか察しがつく。スライド式の診察室のドアが開き、看護師と入れ違いにハリウッドの大女優が入ってきた。プラチナブロンドの髪は光に当たりキラキラと輝いている。

「久しぶりね。...今は初華だったかしら」
「……ベルモット…いやシャロンの方がいいのか」
「あなたの好きなように呼んでちょうだい。ここには初華と私しかいないもの」
「はぁ...」

遠回しに言っているが、二人で話したいから人払いをしろということだろう。私にはそんな積もる話はないし、さっさと終わらせたいというのが希望だ。シャロンを患者用の丸椅子に座るよう促した。診察室の外に出て、まだ院内にいる看護師に声をかける。

「貴女たちはもう帰っていいよ。受付にもそう言っておいて。彼女とは積もる話があるから」
「わかりました。お疲れ様です、藤川先生」
「お疲れ様。また明日もよろしく」

受け答えを聞いていたシャロンは可笑しそうに笑っていた。職業が医者な上に、医院長でもあるのだから何もおかしな事は無いと思うんだけど。

「ちゃんと医者なのね」
「本業だもの。それで何の用?とうとう情報屋の私を殺しにでも来たのかしら」
「あら、"似たもの同士"だもの。貴女とは仲良くしていたいわ」
「...ふん」

情報屋という裏稼業は医院同様、元々あの人がやっていたことだった。両親にも言っていなかった小さな自慢だが、私は人より機械に強かった。つまり世間一般的なハッカーというやつだ。あの人の代わりに情報屋をやることなど容易かった。
彼女、シャロン・ヴィンヤードにはここ数年に何度か情報を受け渡しているだけだ。大して親しい訳でもないし、親しくしたいとも思わなかった。胡散臭いだとか、依頼内容が危険だったからとかではない。"あの人"の知り合いであるから。似たもの同士もいいとこだ。私は架空の人物ではなく、存在していた人物に成り代わっているのだから。

「ところでスコッチは?ここ最近姿を見せないようだけど」

無理やり話を逸らしたくて、あの人とも関わりが深かったスコッチの話を振った。スコッチは私とあの人の見分けがすぐについたし、何かと気にかけてくれていた節がある。最初の邂逅ほど最悪な出会いはなかったが、今対面している女と果たして同じ組織の人間なのかと疑うほど"良い人"だった。

「気になるの?彼のこと」
「...組織の人間にしては良心的だったなって思っただけ」
「可哀想。懐いてたのね、彼に」

不敵に笑うシャロンを見て、もう彼はこの世にいないのだなと感じた。懐いていたのか、と言われるとそれは違う。むしろ私の人生の確信をつかれて憤怒した。しかし"私"を見てくれたという点では幾分か心が救われていたのも事実だった。惜しい人を亡くしたと思ったが、それ以上はない。

「...実に残念だわ」
「思ったよりあっさりとした反応ね..."藤川初華"はもっと彼に対して熱心だったわよ。詰めが甘いんじゃないのかしら」

本当に嫌な女だ。私が嫌いだと知っているのにすぐあの人の話を持ってくる。貴女が面白いだけの玩具になるのはごめんだ、と内心怒気を帯びた。

「...死人のことなんて知らないわよ」

吐き捨てた言葉はしんとした診察室に妙に響いた。チラリと横目に彼女を見るが、シャロンはこれ以上この話を追求してくる様子はなかった。あの人やスコッチに関して深く話を探られるのはもうこれっきりにしてほしい、とため息を漏らした。

「で、本当は何しに来たの?まさかそんなこと聞きに来ただけじゃないでしょう」

シャロンは呆気に取られたような表情で私を瞳に映した後、控え目ながらも楽しそうに笑みを深めた。

「冷たいわねぇ、初華。あなたの事情を知ってる人なんて、そう何人もいないのだから気を許してくれたっていいじゃない」
「知ってるからこそ、気を許すことはできないの」

己の身の回りについてこれ以上は深く探られたくない。私は次の話題に行く前に手を払い、シャロンに退室を促した。

「はい、診察は終わり。帰った帰った」
「患者を追い出すなんて酷い医者ね」

内心酷いなんてこれっぽっちも思ってないだろうに。

「あぁ、そうだ。近々貴女に合わせたい人物がいるの。また来るわね」

楽しそうに手をひらりと振り、まるで私が引き留めて長話でもしていたかのような雰囲気で病室を出ていった。彼女が病院の入り口である引き戸を閉めたであろう音が耳に入り、私はやっと息を吐いた。どっと疲れが押し寄せてくる。あの大女優は本当に寄っただけなのか、それとも組織の末端に爪先が入りそうな私の監視でもしに来たのか。どちらにせよ、シャロンとは問答の駆け引きはもうしたくない。私に合わせたい人物とやらには申し訳ないが、今度から彼女が急患で来ても取り次いでもらわないように言っておこうと思った。

「仲良くなりたいなんて嘘ばっかり」

彼女が座った丸椅子の座面裏に手を滑らす。コツっと指先に何かが当たる感触がした。やっぱり、と覗き込むと小さな機械が簡易的に取り付けられていた。私は小型盗聴器を取り外し、窓の外へと乱雑に投げ捨てた。


◇◇


喫茶ポアロは今日も緩やかな時間が流れていた。昼時が過ぎ、すっかりアフタヌーンティーの時間になってしまっていた。お腹と背中がくっつきそう...という訳でもないが、さすがに朝から何も食べてないというのはキツかった。それに加え、大女優との対面は思わぬ大ダメージとなっていた。血糖値が下がりに下がった頭もズキズキと痛んできている。

「藤川さん、随分とお疲れのようですね」

あぁ、今日は梓さんいないのかと残念な気持ちになる。カウンターに座ると安室さんがお冷を出してくれた。相変わらず人の良さが滲み出た微笑みで店内の客を魅了しているようだ。向こうの席に座る女子高校生はチラリ、チラリと安室さんと私の会話している様子を見て、黄色い声を漏らしていた。やっぱり私の予想は当たっていたな、なんて考える。

「今日はせっかくの午後休診だったんですけど、急患が入ってしまったので...」
「それは大変でしたね。本日のご注文はどうされますか?」
「じゃあカラスミのパスタとケーキセットでお願いします。あ、アイスティーをレモン付きで」
「かしこまりました」

最近はホットコーヒーばかり頼んでいたので、たまにはアイスティーを注文してみる。今日は天気が良く、ちょっと気温が高かったから冷たいものが飲みたい気分だった。出されたグラスの表面は暖かい空気中に含まれた水分が冷やされ、水滴がついていた。持ち上げてグラスに口をつけるとコースターの上に数滴、雫がこぼれ落ちた。喉越しの優しい茶葉が使われているであろうアイスティーは疲労感に苛まれていた私の身体の隅々まで染み渡る。レモンがアクセントになり、とても美味しい。

「ポアロ特製カラスミパスタお待たせしました」
「そういえば安室さんの作るカラスミパスタを食べるのは初めてですね」
「確かに。藤川さんがパスタを頼む時はいつも梓さんが調理してますし」
「梓さん特製、とっても美味しいですからね」
「特に刑事さんたちには大人気のようですよ」
「そのうち安室さん考案メニューなんかができて、流行りそうですね」

安室さんは「なるほど、僕考案の新メニュー...」と右手を顎に当て、悩むような仕草で呟いたのが耳に入る。これは近々メニューが追加されるんだろうな。この人はきっと考え始めたら突き詰めるタイプだろうし。ちょっとした話題になる安室さんのまだ見ぬランチセットに苦笑いが顔に出てしまう。きっと即完売だ。
思案していた彼は淡々とパスタを口に放り込む私を見て、にっこりと笑いながらキッチンからカウンター席に身を乗り出してきた。ずいっと近づいてきた綺麗な顔から離れるよう反射的に身体を仰け反らせて、咀嚼していた口元を手で覆い隠す。この人のパーソナルスペースどうなっているんだ。

「それで、今日のパスタは藤川さん的にはどうですか?」
「...美味しい、と思いますよ」
「それはよかった!」

パッと歓喜に溢れ、安室さんは嬉しそうな顔をほころばせる。いつもの落ち着きのある印象とはかけ離れた、どこか少しだけ幼げな雰囲気を纏うので驚いた。この人こんな顔もするのか、とカウンター越しにベビーフェイスの彼を訝しげに見上げてしまった。

すっかり結露してしまったグラスに残ったアイスティーが半分をきった頃、店内も落ち着いたのか安室さんが休憩だと言わんばかりに私のいるカウンター前まで戻ってきた。

「ところで藤川さん、この後ご予定は?」
「もう帰るだけなので、この後は特に...」
「では僕に送らせて貰えませんか?」

パスタをすっかり完食し、口直しに飲んでいたアイスティーを吹き出すところだった。安室さんは今なんと言った?──喫茶店の店員が、常連とはいえ二度しか会ってない女を家まで送るとか何とか。思わず店内を見回してしまったが、当たり前の反応だ。安室さんのシフトが入っていなかった時に梓さんから聞いた話だが、安室さんには女性ファン、特に女子高生のファンがついているそうで。シフトが重なった時にはもう大変、炎上までしたそうだ。あまりにも恐ろしすぎる。幸い、黄色い声を上げていた女子高生は私が黙々とパスタを食べすすめている内に会計を済ませて店を出ていたようで、今の店内には同じ常連のおばあ様しかいなかったのでホッと息を吐き出した。

「でもまだお仕事中じゃ…。今の時間のシフト、安室さんしかいないようですけど」
「もうすぐマスターがいらっしゃいますから大丈夫ですよ」

と、安室さんが言い切っところでポアロのマスターがロッカールームの方から出てきたので、断るタイミングを逃してしまった。この人、もしかして気配を察知するのに長けているのだろうか。そういえば探偵をしているって話だったからそこで培われたスキルかもしれない。

「すぐ準備してきますね」
「えっ、あっ!ちょっと!」

マスターと入れ替わるようにカウンターを出ていく安室さんの後ろ姿を見送ることしか出来なかった。断ろうにもそのまましらっと押し切られてしまったことに頭を抱えてしまう。焦って火照った頭を冷やすため、氷が溶けて水っぽくなったアイスティーを一気に流し込んだ。


◇◇


結局安室さんに送って貰うことになった私は、彼の愛車の前に立ち尽くしていた。白く煌めくボディはピカピカに洗車されており、呆然とした私の顔をはしっかりと映していた。

「…スポーツカーに乗ってらっしゃるんですね、安室さん」
「えぇ。さぁ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます…」

車のドアを開け、助手席に座るように促す安室さんの手馴れたエスコートにちょっとたじろいでしまう。安室さんの有無を言わさないその笑顔が視界に入ると目が泳いでしまうのが自分でもよくわかった。無言の押し問答が続き、まいったと私は白旗をあげる。いつまでも乗らない訳にはいかないので観念して車内を覗き込んだ後のろのろと助手席に乗り込んだ。なんだか妙に綺麗なシートだったのでそっと座席に手を滑らせ、訝しげに見てしまった。それに気がついた安室さんは困ったように笑い、頬をかいた。

「実は先日少々トラブルがありまして」
「そういえば安室さん、探偵って仰ってましたね」
「えぇ。左のボディがぺしゃんこになったので、その時にガラスの修理と一緒に綺麗にしてもらったんです」
「はぁ…それは災難でしたね」

左のボディがぺしゃんこって相当な事故に巻き込まれてませんか。笑って済ませられる事じゃないと思うが、探偵の安室さんからすると日常茶飯事なのかもしれない。それ以上追求することはやめた。

「藤川さん、何処までお送りしましょうか」
「えっと…二丁目の、木馬荘があった近くで降ろして貰えますか?」
「木馬荘、ですか」
「えぇ、そこからは歩いて帰れますから」

安室さんはキーを回してエンジンをかけ、慣れた操作で車を発進させた。助手席からぼんやりと外を見るが、ポアロ前の道路は夕方にしてはいつもより交通量が少ない様に感じた。安室さんは軽快なハンドル捌きで米花町二丁目の方へ車を走らせた。
移りゆく風景を目で追っていると、車が横断歩道前の赤信号で止まる。隣で金糸が揺れるのが視界に入った。横目で安室さんを見ると、案の定頬の上に描いたような笑みを漂わせていた。

「…何か?」
「いえ。遠くを見つめる藤川さんの横顔が絵になるなと」
「……安室さんの方が余程綺麗ですよ」
「藤川さんそう思ってもらえているなんて光栄です」
「信号青になりましたよ」

歯の浮くようなセリフがこれ以上安室さんから出る前に会話から離脱する。心にも無い言葉を嬉しそうに受け取られることに私は少々罪悪感を感じてしまった。バツの悪い顔を見られたくなくて、運転席とは反対の窓を覗く。ガラスに映った私はしかめっ面で、如何にも可愛くない女だった。
あっという間に二丁目の木馬荘前に着いた白色のスポーツカーの雰囲気はなんだか周辺の道から浮いている様に感じる。普段スポーツカーが止まるような路地ではないのだから見慣れないのは当たり前だ。狭い道なので、修理したばかりだと言うドアを横の石造りの塀にスらないよう静かにドアを開ける。

「すみません。成り行きとはいえ送っていただいて」
「いいんです。僕がもう少し藤川さんと一緒に居たかっただけですから」

よくもまぁ…と呆れた様に、自分より頭いっこぶん上にあるアイスブルーの瞳に視線を向けてしまう。
安室さんは「そうだ」と思い出したような顔をした後、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。

「もしご迷惑じゃなければ、僕と連絡先を交換していただけませんか?」

思わず耳を疑ってしまった。だから安室さんとはできるだけ出会いたくなかったのだ。目は泳いでないだろうか、手に汗は滲んでないだろうか。彼に動揺を悟られないようにそれとなく回避したかった。この男、なにか裏がある。私の勘が警笛を鳴らしていた。

「……またポアロで会えるでしょう」

そんな回答が帰ってくるとは予想もしていなかったような、ぽかっと小さく開いた口は実に間抜けで。しかしながらイケメンというのは何をやってもイケメンだ。

「...ははっ...確かにそうですね」

彼は困った顔のまま愛想笑いを浮かべた。そもそも安室さんの連絡先なんて絶対に炎上の元である。過去に似たような体験をしている私は、いかにも鈍感で天然であるかのようフリをする。

「ではまたのご来店お待ちしております」
「…はい」

私たちはただの店員と客。店内で会話してしまうくらいの距離ですら十分すぎるくらいだ。