夏の風物詩



早朝。朝日がカーテン越しにゆっくりと差し込んでくる。昼間になるとうっとおしいほど鳴いている蝉たちはまだ眠っているようだ。私も零さんも出勤前の支度を済ませていた。今日は零さんの方が先に出るようだったので、ハロの散歩と戸締りは私の担当だ。
玄関に向かうと、綺麗に磨かれた革靴に足を入れている零さんを呼び止めた。

「零さん、今日の夜花火やりませんか」
「珍しいな。どうしたんだ?」
「実はうちの看護師さんから花火セットを貰ったんです。使う予定がなくなって、湿気ちゃうのは勿体ないからって」

先日警察病院で比較的仲良くしてもらっている看護師から花火を貰ったので、せっかくなら零さんと一緒に夏の風物詩を楽しみたかった。きっと忙しい零さんからしたら迷惑に思われてしまうかもしれないけど、こんな機会滅多にないのだから。と、無い勇気を振り絞ったのだ。

「ハロも一緒に」

アンッ!と元気な返事をするハロは零さんと一緒に居るだけでも嬉しいのだろう。しっぽがすっ飛んでいくんじゃないかと心配になるほど喜んでいた。誰かと一緒の夏は久しぶりだ。小さい頃、両親には内緒で初華と小さな花火セットで遊んだのを鮮明に覚えている。だから今度は零さんと。大切な人とまた思い出を作りたいと思った私のわがままだ。

「忙しいようでしたら、全然いいんです」

思わず私は下を向き、シャツの裾をくしゃっと引っ張った。ちょっと急すぎたかな、登庁前なのに、などとどんどん不安が渦巻いていく。

「あの、やっぱり」
「僕はまだ何も言ってないのに、どうしてそんな不安そうなんだ」
「すみません…」

言い淀んでしまう私に困ったように笑う零さんは、少し考えるようにしてから口を開いた。

「今日はポアロもないし、上からそろそろ半休でもいいから取れと言われてるんだ」
「はぁ」
「夜は素麺にしよう」
「え?」

花火の話は…と言う前に、零さんは立ち上がりスーツの襟もビシッと払った。グレーのスーツにコバルトブルーのネクタイは相変わらずよく似合っている。

「真尋、後はよろしく頼む。ハロ、いい子にしてるんだぞ。じゃあいってきます」
「あ、はい!いってらっしゃい、零さん」

時間が差し迫っていたのなら申し訳ないことをしたなと思った。あっという間に玄関のドアは閉まる様をぽかんとして見送ることしか出来なかった。思わず足元にいたハロと玄関先で顔を見合せた。

「これはつまり…花火してくれるってことだよね…?」
「アンッ!」

素麺残ってただろうかと、私は安室宅のキッチンにある戸棚を確認するのだった。





「零さん、今日の夜花火やりませんか」

ここ数ヶ月それなりの距離で生活していれば、真尋がへにゃりと八の字に眉を下げ、困ったように笑うのは不安だったり、後ろめたさだったりネガティブな感情を持っている時だというのは一目瞭然だった。普段自分からこれがしたい、あれがしたいと滅多に言わないのは、真尋のことをないように扱った両親や藤川初華の存在が未だに彼女の中では凝りのように残っているからだろう。真尋は他人に対して必要以上に遠慮する節がある。一部例外もいるようだが、それでもどこか他人と一線を引いて生活しているように見えた。
そんな真尋が自分から花火がしたいと提案してくるなんて、僕にはあまりに意外で動きを止めてしまった。せっかく彼女が花火をしたいと言うのなら精一杯それに付き合ってやりたいと思うし、海に行きたいというのなら愛車で連れて行きたいと思っている。
「あの、やっぱり」
僕からの答えがないことを悪い方へと捉えたのか、彼女はどんどん顔を伏せ、シャツの裾を握りこんでしまった。別に困らせたいわけじゃなかったのだが、どうやら自分の提案が難しいものだと判断した上で、迷惑なことを言ったのではないか、と今の彼女の思考は恐らくそんなところだろう。
「僕はまだ何も言ってないのに、どうしてそんな不安そうなんだ」
「すみません…」
申し訳なさそうに謝る真尋に、痛々しさが滲み出る。安心させるように柔らかく微笑むと彼女はどこかホッとしたように息を吐いた。
「今日はポアロもないし、上からそろそろ半休でもいいから取れと言われてるんだ」
「はぁ」
「夜は素麺にしよう」
「え?」
目を見開いて、素っ頓狂な声を上げる真尋は何だかちょっと面白かった。真尋の足元ではハロは嬉しそうにしっぽを振っていた。そんなに振っていたら切れてしまうんじゃないかというくらい喜んでいるようだった。
風見には悪いが今日の夜は早めに帰ることにする。素麺はキッチンの戸棚に残っていたハズだし、後は帰りに色々と薬味や具を買ってバラエティに富んだものにするつもりだ。その後、二人と一匹で夏の風物詩を楽しむのも悪くない。
「真尋、後はよろしく頼む。ハロ、いい子にしてるんだぞ。じゃあいってきます」
「あ、はい!いってらっしゃい、零さん」
つい浮かれた気持ちが先走り、玄関口を足早に出てきてしまったことを少し後悔した。





今日の降谷さんは普段と比べて少し浮かれている様子だった。自分が多分そうだろうなと気づくくらいなので、恐らく他の人間はその様子に気づいていない。きっと口に出せば、そんな事ないと言われてしまうので余計なことは言わないでおく。
「風見、すまないがお使いを頼まれてくれないか。今すぐ手が離せそうになくてな」
「構いませんが、一体…」
上司が手を離せない以上、お使いとして外に出るのは部下の仕事である。
「杯戸町にある花火専門店で打ち上げ花火を購入してきて欲しい」
「…花火、ですか」
どんな重要な任務なのかと身構えたが、どうやら公安のお使いではなく降谷さん個人のお使いのようだった。
「ついでに休憩してこい。お前の事だから朝もまともに食べてないんだろ」
バレている。今朝の食事をチョコレートで済ませていたのをこの上司は何故だか把握している。花火専門店へのアクセスと購入する花火の一覧が書かれたメモを受け取る。一緒に手渡された茶封筒を上着のポケットにしまい込んだ。
「真尋が花火をしないかと誘ってくれたんだ」
降谷さんの口からポロッと零れた言葉をたまたま拾った。その時の表情は職務中には滅多に見ることはできないだろう。
そういえば杯戸町のカレー屋さんが評判だと聞いたな、とぼんやり考えるのだった。





日も傾き、照りつける暑さも和らいできた。朝とは違うオレンジ色の光が部屋いっぱいに広がっていた。無事に早帰りできた零と病院を定時で上がれた真尋は、今朝の約束通り素麺を夜ご飯にするため2人でキッチンに立っていた。並ぶと少し手狭になるため、ダイニングテーブルに買ってきた食材を広げる真尋はその量にくらりと目眩を起こしそうになった。
「これ全部薬味ですか?」
「あぁ。選びがいがあっていいだろ」
薬味だけでなく、おかずと言ってもいいような具材ばかりが皿に盛られていた。ネギとミョウガ、刻み海苔、卵にトマトにシーチキン。小皿にはゴマやおろし生姜がしっかり2人分用意されている。他にもキュウリやさばの缶詰、コンビーフにキムチなど色々あった。この日の夕飯は素麺というより、もはや冷やし中華である。
「私はスタンダードにネギと刻み海苔にします」
「僕はトマトとシーチキンだな。さっぱりして美味しそうだ」
真尋は思い出したようにぽんっと手のひらを打った。いそいそと冷蔵庫を開け、自分が買ってきたペットボトルを零の前に出した。冷やしたばかりだったのか表面が結露しており、ポタポタと水滴が落ちる。イスにかかっていた布巾でそれを拭う真尋は楽しそうに笑っている。
「素麺には麦茶かなと思って2Lのペットボトルで買っておきましたよ」
零はキュウリを切っていた手元から真尋の方へと目を向ける。今朝の不安そうにしていた表情はさっぱりと消え、談笑しながら夕飯を作るさまをとても楽しんでいるようだった。ペットボトルの水滴を拭っていた真尋と視線が交わり、じっと見つめ合ったあと2人してふっと笑いがこぼれ落ちた。
「夏って感じだな」
「ふふ…そうですね」
真尋は茹でたての素麺を水道水で冷やし、ガラスでできている底の深い皿に盛った。氷を満遍なく散らばせてから、零特性の麺つゆを2つの蕎麦猪口に移していく。冷めた麺を少しだけ、おやつ程度の量をハロの器にも取り分ける。
いつも通りであればお互いダイニングテーブルで食事をするのだが、食材や調理器具が広げられている今日は特別に居間にある低いテーブルに食事が配膳されていた。配膳と言っても、小皿に盛られた数多くの薬味や具材達ばかりだ。この家には座布団などの気の利いたクッションはないので、2人はテーブルを挟み向かい合って座った。「いただきます」と揃って手を合わせる様子にハロは嬉しそうに声を上げた。





「具材まだ残ってますけど、どうします?新しく麺を茹でて盛ります?」
「そうしよう。…少し具を買いすぎたな」
「買う時に気づいて欲しかったです…ふふっ」
皿に取り残されていた具材たちを新しく茹でた素麺に盛り付けた。私はもうお腹がいっぱいで少ししか手伝うことができなかったものの、零さんは残りをペロッと食べてしまった。一体その体のどこに入っていってるんだか不思議だ。
使い込まれてへこたれているスポンジで食器を擦っていく。汚れが浮いてきた洗剤の泡を水でよくすすぎ、零さんに渡して拭ってもらう。あっという間に洗い物は片付き、今は居間でうとうとし始めたハロのもふもふした背中をそっと撫でてやっていた。ベッドを背に並ぶ私たちの間に会話は生まれなかったが不快ではなくて、むしろ心地の良い静けさだった。沈黙が広がった空間には、夜になり活動を始めた虫たちの楽しそうな歌声が聞こえていた。
「日も十分に落ちたようだし、花火やるか」
「…!はい!」
思わず口元が緩む。大の大人が子供のようにはしゃいでしまっている事に少し恥ずかしくなるが、それくらい胸が弾んでいた。
零さんはさっきの食材とは別にしてあった茶色の大きい紙袋を持ってきて私に差し出すので、一体なんだろうと中を覗く。円い筒のような…。紙袋から外に出すと筒の周りには"打ち上げ花火 変幻自在"などとか書かれている。
「零さん…!打ち上げ花火がありますよ!?しかもこれ、色が変わるやつじゃないですか?わぁ…!」
「杯戸町の花火専門店で買ってきたんだ」
年端もない子供のように興奮を抑えきれない声を上げてしまう。市販の打ち上げ花火など、幼かった私たちにはちょっと手の届かないものだった。初華と私のお小遣いでは小さな花火セットを買うのが精一杯だったから、この小さな筒まで手に入れることは出来なかったのだ。それに問題として打ち上げ花火は秘密裏にやるには少し難しかったのだ。音も光も迫力があるのは花火だから当然のことだが、内緒でやるには些か派手すぎた。そういう理由から、線香花火を始めとした手持ち花火を数本ずつ分けて楽しむのが初華との暗黙の了解だった。
もちろん昔の古ぼけた記憶の一部を零さんに話したことなど一度もない。
ハロにハーネスリードを装着してもらい、Tシャツに黒のスウェットパンツというラフな格好のままストラップサンダルを足を引っ掛けて玄関を出る。零さんの服装も普段よりはラフだったが、やっぱり気を抜くことはないのかいつでも走り出せるようなスニーカーを履いていた。
「よく杯戸町まで行く時間ありましたね」
「風見に頼んだ」
「風見さんですか」
「あぁ。何度かここで鉢合わせてるだろ」
風見さんは零さんの優秀な年上の部下である。何度か安室宅で顔を合わせていた。お互いハロの世話という名目で鉢合わせしてしまったのが最初だ。私が藤川真尋として生活できるようにと手を回してくれた公安の一人であったため、顔は知っていたもののまさか一体一で出会うとは思わずに二人で出方を伺ってしまったのは今思い出してもおかしいものだった。結局口をついて出た言葉が「ご趣味は?」だったことは反省している。
「はい。沖野ヨーコさんのファンだって話で盛り上がりました」
「…ほぉ」
夜の河川敷沿いを歩く人影はなく、私と零さんを連れたって歩くハロしかいなかった。ここは花火ができるメゾン木馬から1番近い場所だった。この時期だから誰かしらいるだろうと思っていたが、本日は私たちの貸切のようだった。日中より涼しくなったからかスズムシの声がよく聞こえた。砂利道を軽い足取りで元気に進んで行くハロの後ろ姿はとても可愛い。私は川の近くまで降り、持ってきた金物の消化用バケツに水を汲む。その後ろで零さんとハロは花火セットを開封している。
「火の近くは危ないからハロは僕と一緒にやろうね」
零さんに抱き上げられてご満悦のハロは花火より飼い主のようだった。花火セットについていたロウソクにライターで火を灯す。パッケージから出された手持ち花火は数が少ないとはいえ選ぶには種類が沢山あり、どれから始めようかとフラフラと手を迷わせてしまう。
「真尋、最初はこれにしよう。ススキ花火」
「あ、ありがとうございます。つい迷ってしまって…」
零さんから受け取ったススキ花火は竹で作った棒に紙を巻き付けて作られている花火で、先にふさふさした紙が着いていた。蝋燭の火にススキ花火先端部分をくぐらすと、じきにシューッと音を立てて勢いよく火花が吹き出す。キラキラとススキのような形に宙を舞う火花は時々色を変え、勢いを変えやがてチリチリと消えていく。花火一本の継続時間はそう長くない。あっという間に終わってしまうことに少しだけ寂しく感じてしまう。零さんの方に視線を向けるとその瞳には情けなく眉を下げた表情の私が映っていた。零さんは可笑しそうに目を細め、残っている手持ち花火を私に差し出す。
「そんな顔しなくてもまだ沢山あるだろう」
「…そうですね」
流石に全部手渡されたら零さんのやる分が無くなってしまう、と私はへらりと笑った。


やはり花火というのは量があってもあれやこれやと楽しんでしまえば、あっという間に残り少なくなってしまう。もう一種類しか袋に残っていなかった。
「あと線香花火が残ってますよ」
「どっちが長く持つか勝負するか」
強気に出る零さんは謎の自信に溢れていて、その空気を感じ取ったハロの顔は零さんのようにキリッとした表情をしていた。ペットは飼い主に似るとはこういうことなのだろう。
「ふふっ…零さんもそういうことするんですね」
「昔幼馴染としたことがあったな」
ふと零さんの瞳に影が差すがそれも一瞬だった。瞬きをした後にはもうどこか昔を懐かしむ表情をしていた。
「へぇ…仲が良かったんですね」
「あぁ」
会話も程々に線香花火の先端についた花びら状の紙に蝋燭を近づける。やがて弾けるように小さな火花がお互いの手元をよく照らした。ジリジリとオレンジ色に輝く火の玉を落とさないようじっと息を潜める。零さんの方はどうだろうとちょこっと視線をずらした時だった。
「僕の勝ちだ」
ぽとりと呆気なく落ちた最後の残り火に、あっと声を漏らす。勝ち誇ったように得意げに口元をあげる零さんはなんだか負けず嫌いの子供のようだ。
「む。もう1回やりましょう!」
幸いにもまだ線香花火は残っている。このままでは終われないとムキになる私の方がよっぽど子供だなと思いながら、零さんに花火を渡す。
「ははっこれは真尋が勝つまで終わらなそうだな」
アンッ!と楽しそうなハロの可愛らしい鳴き声は私たちしかいない河川敷に広がった。