▼「瞬と俺と二人で、生きていきたかったな…」

志紀はごくりと固唾を飲み込む。握る拳にはじんわり熱が篭る。ここから一歩踏み出せば、自らの死を持って、瞬との番関係は解消される。

瞬だって、せっかく巡り会えた唯一無二の運命と番いたいと思っているはず。自分があまりにも惨めで、可哀想な現実から逃げる為じゃない。

(俺さえ死ねば、俺さえ死ねば…瞬は運命と一緒に生きて幸せになれる…)

一歩、踏み出すだけでいい。瞬の幸せのための一歩なんだ、と志紀は額に脂汗を浮かべながら思案した。

番に捨てられたオメガに一人で生きていけというのは非情に酷な話だ。
その特殊なオメガの性の問題から始まり、番のアルファを求めてやまないその熱を冷まさなければ仕事や社会生活にも問題が発生する。もし職を失う事態になれば金も、住む家も失うのは時間の問題だ。

番に捨てられるというのはオメガにとって生死を分けると同然、志紀からして見れば自分は瞬に殺されたと同然なのだ。

(どうせ死ぬなら、はやく。瞬の幸せのために死のう)

しかしいくら捨てられたからと言って、志紀の瞬に対する愛がぱっと魔法のように消える訳ではない。

都合良く、先程起こったばかりの出来事の記憶は胸の片隅に追いやられ思い返すのは瞬との楽しかった、幸せだった出来事ばかり。

高一の春に同じクラスの隣の席同士で初めて出会って、仲良くなって、恋人になった。
両片思いになった頃のデートやお泊りの思い出。付き合ってからの些細な日常の会話や見慣れた瞬の様々な表情、声。今思い返しても胸が痛くなるしょうもない理由の大喧嘩、その後すぐ仲直りしてさらに仲を深めたりしあった。


思わず、志紀はその場にしゃがみ込んで閉じた腕の中に頭ごと沈めた。溢れた大粒の涙が志紀の前腕を濡らす。

志紀が飛び込もうとしていた線路には普通電車が到着して、一歩踏み出す機会がついに失われた。プシャアと開いた扉から降りてくる人たちに好奇と迷惑そうな視線を志紀は一身に浴びるが構ってられないほど、体は石のように固まって動けなかった。


苦しい、死ぬのが怖い、瞬と生きたい、辛い、瞬に抱きしめて欲しい、会いたくない、瞬なんてきらいだ、胸が痛い、俺のところに戻ってきてほしい、

複数の矛盾しあう感情が志紀の心を対立してせめぎ合う。
しかしこれだけは確実なものとして志紀の心が導き出した。

「瞬と、俺で、幸せに生きていきたい…」

《ーー行き、各停。扉が閉まります。駆け込み乗車はーー…》

志紀はどれほどそこでそうしていたのか。電車の発車を知らせるアナウンスがふと耳に届いた。すると金縛りにあっていたみたいに動かなかった体がすっと起き上がり、吸い寄せられるようにその電車に乗り込む。志紀が乗り込んだと同時に扉は閉まった。

その電車は瞬と志紀が一緒に暮らす家がある最寄り駅とは真逆に走る電車だ。
考えもなしに乗り込んだ志紀にただでさえ普段行くことのない方面へ向かう電車だ。行く当てなどない。

車内にはまばらに人がいて、志紀は空いていたシートに腰を下ろす。対面には人一人座っておらず、大きな窓二つぶんの左から右へと流れて行く景色をひたすらボーっと見続けた。

(…死ねなかった)

瞬の幸せを誰よりも一番に願うのは志紀だ。頭では自分が死なねば瞬は運命と結ばれることが出来ない。捨てられた今、未練たらしく生きるのは惨めだ。そう分かっているのに、心も体も志紀の思考に従ってはくれなかった。

オメガは捨てられると生きてはいけないがアルファは違う。強い種の繁殖というシンプルな生存本能にルーツするおかげか、番がいてもアルファだけは他の性を抱くことが出来る。しかしそれまで。魂と魂の繋がりを結べるのはこの世にたった一人だ。
瞬の場合、運命と番いたいと言うのなら志紀に消えてもらうしか他にない。

(帰る場所、ないなあ…)

家に帰れば、瞬はなんて言うかな。心優しい瞬だ、静かに泣いて別れを告げるんだろうか。それともハッキリと消えてくれと願われるんだろうか。後者なら、もう本当にだめだ。いっそ殺してほしいと思う。心まで殺したのだから、肉体の息を鼓動を止めるのも簡単なはずだ。

(ああ、そうなると瞬は殺人犯として捕まって、運命とは一緒にいることは叶わなくなるね)

志紀の心は荒れに荒れていた。眺めていたはずの景色はいつしか無機質に瞳に映るだけのものになっていた。
どちらにせよ、今は瞬に会える心情ではなかった。

《次はー…。バースシェルターへお越しの方は次でお降りくださいー…》

バースシェルター、と癖のある車掌のアナウンスが志紀の耳に届いた。ぼんやり聞いたことのあるそれにどこで聞いたんだっけなと志紀の思考が切り替わる。

ーー性の悩み、相談してください。貴方にも人権はありますーー

優しい女性の声で語られるそのキャッチコピーはよくCMや街中のLEDモニターに広告として流されているのを何度も聞いたことがある。近年開設されたばかりのその施設はニュースや雑誌なんかでもよく取り上げられていた。

このご時世どうしてもオメガ性は冷遇されやすい。オメガだからという理由だけで他の性に比べ給料が低いのは少なくないし、性犯罪や強姦事件などの被害者になってもオメガだから仕方ないんじゃない?本当に合意してないの?などと警察や第三者に取り合ってもらえないことも多い。そんなオメガの人権を守るためにうまれたのがバースシェルターだ。

人権侵害を受けたオメガたちの最後の駆け込み寺。今の志紀にはこれ以上なく必要な場所だった。








「志紀くん、ここでの暮らしはどうかな。不自由していることはない?」

志紀がバースシェルターを訪れてからおよそ三ヶ月が経ち、季節がひとつ移ろうた。

ふらりと吸い寄せられるようにこのバースシェルターへ体ひとつでやってきた志紀を創設者兼管理人の夫妻は暖かく受け入れ、労働という対価と引き換えに志紀に衣食住、生きていくために必要な全てを提供した。

志紀はシェルターの外を日課である掃除していたところで、そこに声をかけてきたのはバースシェルター創設者夫妻の息子の縁乃(よの)だった。

「縁乃さん…おかげさまで。感謝してもし尽くせないほど良くしてもらっています」
「そう。それならいいんだ」

志紀はこのバースシェルターで暮らしながら夫妻のカウンセリングを受けて、自分を卑下することがなくなった。
オメガだから、オメガだけど。そうなにかと理由をつけて身を引いたり命を落とす必要はない、堂々と生きていいのだと諭してもらった。

ヒートが訪れた時にはただでさえ高額な抑制剤を惜しみなく与えてくれたから、夫妻や縁乃に醜態を見せずに済んだ。その代わりに志紀はバースシェルターに避難してきた人らと協力しあって家事をこなしシェルターの外にある農園でいろんな作物の世話や収穫をする。

じゃあ先行くねと足早にシェルター内に入っていった縁乃を見送る。ここに入所した当初は縁乃も真摯に志紀の話を聞いてくれた。そしてそれに涙して、瞬に対してなんて無責任なんだと怒ってもくれた。三ヶ月前の志紀は瞬の為に死んだ方がいいのだと自己犠牲の精神を待ち合わせていたが今はもう夫妻や縁乃のおかげでない。

(瞬に死んでくれと頼まれたって、死ぬもんか)

この三ヶ月で志紀はだいぶと強くなった。
いや、強くなったというよりかは人並みに自分を尊重することができるようになったのだ。


「志紀!!」

そんな志紀の元に二人目の来客があった。切羽詰まったような、鬼気迫る大きな声で志紀の名を呼んだのは三ヶ月経ったくらいでは忘れることなんかできない番の声だった。

「やっと見つけた…!」

最後に見た時より目に見えて窶れた様子で髪の毛も髭も伸ばしっぱなしの瞬は走って志紀の元へやってきた。

どうしてここが、どうしてここにいるの、

心臓は途端に鼓動を早くするがいつかこんな日が来ることは志紀にも予想できていた。番関係はまだ解消されていない。志紀がこうして身を隠していても瞬は運命と繋がる為なら必死で志紀の居場所を見つけ出すだろうと思っていた。

罵声を浴びせられ、殴られること覚悟で目を強くぎゅっとつむる。死ねと懇願されたって頷くもんか、俺は生きたいんだ、と強く思って。

しかし待てどもその衝撃は来ない。恐る恐る薄ら瞼をあげて焦点の合わない瞳で瞬がいるであろうあたりに視線をやる。その瞬間、視界に瞬を入れる事は叶わず。同時に3ヶ月前まではいつも嗅いでいた瞬の花のようにほんのり甘い香りが志紀の鼻をかすめ、長身で体格の良い瞬より小柄な志紀の体を抱きしめた。

さすがにこの事態は予想外で志紀はどうしていいか分からずそのまま固まってしまう。
しかし久しぶりに感じるこの穏やかな温もりに志紀の精神がすっと安定しようとしているのも事実。

「志紀…っ、会いたかった…、見つけられて、よかった…っ、俺、おまえがいなくて、不安で、おちつかなくて、一生会えなかったらどうしようかと…っ」
「…どうして、俺がいないとそうなるの?瞬には運命がいるじゃない」

瞬がそばに居るだけで落ち着いた志紀の単純な心は余裕を生み鼻を真っ赤にして時折涙声になる瞬を追い詰めた。

「っ、俺が悪かったっ、許して、志紀。あの日、志紀が消えた日、確かにショッピングモールで出会ったのは俺の運命だったんだと思う。感情に勢い任せて志紀がそばにいたのに軽率な行動を取ってしまった」

最後に強くぎゅっと抱きしめてから弾かれたようにガバッと瞬は志紀から身を離すと謝罪と弁明を続ける。

「気づいたら志紀がいなくて、でも気づいた時にはもう遅かったよ。ずっと胸が鞭で叩かれてるみたいに痛くて、辛くて、志紀が恋しくて仕方なかった。…あの子にも、ちゃんと俺には番がいる、その番を捨てるつもりはないって説明してきた。…それでも、志紀はその日も、3日経っても一週間経っても連絡はつかないし帰っても来なくて。寂しさとか苦しさとか、なんで俺の元を去るんだって、そんな資格もないのに怒ったりしてさ。最初の1ヶ月はなんにも手がつかなくて仕事もしばらく休めって言われちゃった」
「…ほんとだよ。瞬には怒る資格なんてないし、寂しいとか苦しいとか、それすらも思う資格もない」

志紀の脳裏には「最近、仕事が楽しいんだ」と会社や業務に慣れて様々な仕事を任せてもらえるようになったと喜んでいた瞬の記憶が蘇る。その仕事すら投げ打ってまで瞬は志紀が恋しくて仕方なかったらしい。

「…長くなったけど、俺には志紀がいないと駄目なんだ。眠れないし、飯もまともに食えない。生き方を忘れてしまったみたいだったんだ。失ってから気づいたよ、お願いだから、俺にもう一度チャンスをちょうだい。ここで誓う、もう絶対に志紀をこんな不幸にしない。俺は志紀と幸せに暮らしたいんだ。…頼む、俺のところへ帰ってきて」

瞬の魂がまっすぐ志紀に向いているのを志紀は同じく魂でぼんやりと感じ取っていた。バースシェルターの前で箒片手に立ち尽くす志紀に深々と頭を下げている瞬に、志紀は今すぐ頭を上げさせて抱きしめて、愛しい我が家に帰りたいと思った。

「…俺、瞬がここまで探しに来てくれて、見つけ出してくれて、ちゃんと誠心誠意謝ってくれたの、すごい嬉しいよ」
「っじゃあ…!」
「うん…でも、家には帰らない」

なんで、と口にせずとも瞬の表情がそう絶望に満ちた。

「今ここで帰ったら、いくら瞬にはそんなつもりがなくたって、本当は運命と会ってたんじゃないのかとか、これからは俺に隠れて会うつもりなのかとか、なにかにつけて嫉妬して、嫌な奴になってしまうと思う」
「そんな…っ、いくらでも嫉妬してくれたって、束縛してくれたっていい!」
「だめだよ。そんなの、俺が望む幸せにはなれない。…だから、瞬の時間が許す限り、ここへ来て。言葉だけじゃなくて、もっと態度で誠意を見せて、運命に逆らいに来て。それで、俺が瞬を100パーセント信じれるようになったら、その時は家に帰るよ」

志紀…と寂しそうな声で呟いた瞬は一度瞳を閉じて、なにか決意したようで再度瞼を上げてから頷いた。

「…俺、毎日ここへ来るよ」

さすがに毎日はだめだよ、仕事しないと、そう笑う志紀と瞬の様子は穏やかである。
場所がバースシェルターというだけで、いつも二人で幸せに過ごしていた家での様子となんは変わりないことに二人が気づくのはまだ先だ。

それはきっと、そう遠くはない。





……
浮気?元サヤ√end

むかしは浮気攻め書くと逆ギレするみたいにヤンデレ発動するような子しか書けなかったんですけど、生まれて初めて綺麗に浮気→元サヤでおさめて書けた気がします。
瞬はこの後通い夫し続けてちゃんと志紀の信頼を取り戻します。一度失ったんだから二度目は今まで以上に志紀を大切にして幸せにするんじゃないかな。


bun ni modoru
top ni modoru