向日葵は始まったばかりだった。
空には入道雲がモクモクとわき立ち、飛行機雲が真っ直ぐな線を描く。照り付ける日差しは影の色を黒々とさせ、アスファルトを焦がしていた。その上を夏休みに入ったばかりの子ども達が走り抜けていく。まるで絵に書いたような夏の風景だ。
小夏がヒロを誘拐したのも、こんな夏の日の事だった。もう一年も前の話だ。誘拐したばかりの頃は傷だらけだったヒロも、今では見違えるほど元気になっている。
「姉ちゃん、早くしないと限定ドーナツ売り切れちゃうよ!早く、早く!」
「そんなに急がなくても大丈夫よ。ドーナツ屋さんも沢山用意してくれてるだろうから」
玄関から聞こえる元気な声が小夏をせっつく。ヒロだ。ヒロはテレビでドーナッツの宣伝を見てからというもの、ドーナツが食べたいと繰り返して来ていた。小夏としては育ち盛りのヒロにジャンクフードを食べさせるのは気が引けるのだが………あまりにヒロが夢中だったから、小夏が折れて「今日のお昼はドーナツ屋さんで食べよう」ということになったのだ。
しかし偶には、こういう日があってもよかったのかもしれない。だって、ドーナツを食べに行くと決まってからヒロは鼻歌を口ずさむほど上機嫌だったのだもの。今だってヒロの足音が嬉しそうに跳ね回っているのが聞こえる。小夏も苦笑いして玄関へと急いだ。食べる真似は苦手な小夏だったが、ヒロの笑顔を見ているとそんな気持ちも吹き飛んでしまう。まるで元気を分けてもらえているみたいだった。
二人が入ったドーナッツマイスターは全国展開するチェーンの店だ。脳天がしびれるほど甘いこのドーナッツは世の甘党たちを夢中にさせ、ヘビーローテーションするファンも多いらしい。
らしい、というのは小夏が人間の食べ物を受け付けない生き物、喰種だからだ。喰種は人肉以外の物から栄養摂取することがでず、人間の食糧を口にすると不快感や拒絶反応を呈するのだ。だから「人間の食べ物」の情報は周囲の人間の言葉を間借りしたものにすぎない。
食べられないうえに不快感をともなう物が並べられたショーケース。彩豊かで可愛らしいデザインのドーナッツたちも、小夏にとっては心惹かれない。小夏がどんなに表情を繕っても、人間のヒロのように心から笑うことはできない。ヒロと一緒の食べ物を一緒に楽しめないのは、少しだけ寂しくなる。小夏はそんな気持ちを振り払うようにして、ショーケースに張り付いているヒロに話しかけた。
「ところで、夏季限定のドーナッツって何味なの?夏ってことはマンゴーとかかな?」
「トマトなんだって。夏のトマト&チョコレートドーナッツだよ。」
「トマトとチョコ…味の想像ができないわ…」
味は分からないし想像すらできないが、トマトとチョコの組み合わせが不思議なことは小夏でも分かる。そんな組み合わせ、他で聞くことがないからだ。
小夏は、嬉しそうにドーナツを覗いているヒロに「不味くても残さないでよね。」と言う。「残さないもん」とヒロは口を尖らせたが、小夏はそれを無視した。ヒロと生活してきて一年、小夏はヒロの好き嫌いが激しいことをよく知っていたのだ。食べ物を残すなんて店の人に申し訳ないし、小夏も人間の食べ物を沢山食べるなんて御免被る。
それに、今、此処で「食べ物を残す」のはヒロにとっても要らぬ危険を増やしかねない。なぜなら最近よく見かける男女のカップルが、小夏たちの少し後ろに並んでいるからだ。彼らのキャリーバッグからは、今日も相変わらず小夏の同胞の臭いがする。彼らは小夏とヒロの平穏を奪いに来た喰種捜査官だった。あの二人に小夏が喰種であること、またヒロがその協力者であることは絶対に悟られてはいけない。喰種の小夏に依存する他なく、ついに捕食にまで加担するようになってしまった人間の男の子を、小夏は世界で一番可哀想(たいせつ)に思っていた。人はそれを共依存と言うのだろう。
そして、この国では喰種の秘匿は大罪だ。もしもヒロが捕まったとしてCCGはどうするか分からない。
最悪、小夏が死ぬことになったとしてもヒロだけは守らなければ。とは言え小夏は荒事を苦手としている喰種で、捜査官相手に実力不足なのは火を見るより明らか。だからこそ疑いの目が晴れるまで、彼らの目を誤魔化し続けることが必要だった。たとえ、それが何時まで続くか分からないとしても。
「残したら、今日の夕飯はゴーヤだからね。」
何でもない風を装って発言した小夏の一言に、ヒロは顔を青くする。ヒロは野菜全般が苦手だったが、特にゴーヤが苦手だった。けれど、トマトだけでなく他の野菜も食べられるようになれば、小さいヒロもきっと大きくなれるはずだ。だって一年で色々食べられるものが増えて、そのおかげでヒロの身長はだいぶ伸びたのだから。
夏の終わりにはヒロの誕生日も来る。そうしたら一緒に身長を測ろう。ぎこちなく頷いたヒロを撫でながら、小夏はそう決める。捜査官の付きまとう不穏な先行きだったが、未来の予定を決めることで臆病な小夏にも勇気が湧く気がした。
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