愛はホップステップジャンプ
幼い時の色恋なんて、所詮まやかしで、勘違いで、理想の押し付けだ。でも、幼いながらに「この人を私だけのものにしたい」という一丁前な欲が、教わってもいなくとも自然発生するのだと感心もした。
「サッカー、上手ね」
「……」
学校帰り、通りすがる公園でひとりでサッカーをしている姿をよく目にした。声をかけても反応や返答がなく、壊れたロボットみたいだった。でもなんだかそれをずっと見ていたくて、無心でボールを蹴る近くで私は白詰草を編んでいた。元々器用な方ではなく、出来上がったのは隙間ばっかりでゆるゆるの花冠。なんで?と完成品を前に首を傾げていると、ボールを抱えた彼が無感情な顔をしてこちらを見下ろしている。
「へたくそ」
「……怒るわよ」
むっとした顔で睨みつけると、ふっと鼻でわらわれる。その表情が、私を狂わせた。その瞬間、彼が生きている人間で、泣いたり笑ったりする私と同じ人間で、でも私じゃない、学校の男の子とも違う存在なのだと腑に落ちた。この人に好かれたいと思った。この人に選ばれたいと思った。他の女とは違うと思われたかった。毎回身体のどこかにつくってくる怪我やアザには触れない。貴方には興味ありませんよ、私には憧れている人がいるの。そう装いたくて、恋の相談をした。恋愛相談する風を装って彼の好みを探ろうとした。
「俺じゃあ役者不足か?」
彼の手が私の首に回った。傷だらけの顔が近づいてくる。
私、いけないことしてる。家族にはきっと怒られる。でも、出会ってしまった。選んでしまったのだ。この人の孤独を癒せるのは私しかいない。長くも短くもない時間だったけれど、そう思い込むには十分だった。
長いホリデー期間。家族に連れ出される用事が多くて会えない日が続いた。会いたい気持ちを抑えきれず、こっそり部屋を抜け出して彼に会いに行く。今日もまだ公園にいるかしら。約束していなくても会えたなら運命に違いない!
「ミヒャエル、」角を曲がったら、見知った愛おしい姿をみとめる。思わず声をかけてしまった。
「お? 随分と場違いなお客さまで」返事を返してきたのは違う男だった。周囲のメンバーを見て、反射的にまずいと感じる。危険だ、こわい、あぶない。
「おい、触るな」視界を遮るように向かってくる愛しい人。
「俺の大事なパトロンなんだ」
初めて見た、下卑た表情。パンッと乾いた音が響く。指先に感じるひりつき。手を出した方も痛みを感じるんだ、初めて知った。怒っている。悲しんでいる。どちらだろう。両方、両立できるの?わからない。自分が理性の利かない動物のように思えた。
本気になってんじゃん。かわいそー。俺が慰めてやろうか?罪な男ねぇ、ミヒャエルは。
取り巻きの声が遠く聞こえた。打ったのは私の方なのに、向き合う彼は悲しそうな顔をしている。ねえ、どうして?
「もう俺みたいなのに捕まるなよ」と、もと来た道へ向かって背中を押される。
まあ、普通に考えて日中に学校へ行かず、それを誰も咎めない状況が答えだった。
まあ、頭のどこかではわかっていたのだ。
でも、現実のことなど考えられなかった。
でも、これを夢と呼びたくもなかった。
家にひとりで戻る帰り道で思い返す。そういえば、何か誓い合ったためしもなかった。
都合よく家族の海外駐在が満期を迎え、帰国の話になった。
︙
「鈴って本当に帰国子女?」
そう聞かれるくらいには、数年日本にいただけで簡単に日本ナイズドされてしまった。"血は争えない"、"郷に行っては郷に従え"のコンボが綺麗に嵌ったのだ。海外にいるときには、私って心配性過ぎるのかも?と心配症の心配をしていたが、どうやら生まれ持っての性質だったらしい。物心つく前に海外で生活していて活発だった私も私だったけど、集団の中でのほほんとしている私も本来の私だった。
「鈴って本当に帰国子女だったんだね」
学校に提出するための派遣依頼文書は、第三者への説得力を持たせた。イヤホンではうまく伝わらないニュアンスとか、表情とかジェスチャーとか、何かあったとき用のカスタマーサポートとして収監された。
基本的には人を介さずタブレットで完結する。Wi-Fiがつながらないだとか、カードキーを部屋の中に置いたまま外に出てしまっただとかの対応で駆り出される程度の楽な仕事だ。招聘している側だし、そんなに年は変わらなくとも相手は世界的な著名人であるので、"おもてなし"マインドで。と事前打ち合わせで言われている。あれがほしい、これがない、の要求に迅速に対応。今もこうやって「タブレットがもう一台ほしい」と言われてお部屋までお持ちしている。
「……鈴?」
「ミヒャエル……? なんでここ、にっ」
記憶の中のミヒャエルとは随分違った。小綺麗になったし、身体も大きくなった。あざもないし、怪我もない。なんかすごい入れ墨入ってるけど。とりあえず良かった。ていうかなんでここに? バスタード・ミュンヘンに入団してたの? 海外サッカー詳しくないから知らなかった。──まって。私たち、別れてる。ジエンドしてるはず。抱き締めないで。キスしないで。挨拶じゃないキスやめて。
「オイオイ、神様からのギフトか?」
「話聞いて、離して」
「久しぶりの再会だってのに、鈴ちゃんはクソドライねぇ」
「うん。久しぶり。元気だった? 離してね」
「嬉しい。U-20制してインタビューで呼び出そうとしていたのに、鈴の方から来てくれるなんて」嬉しい、と零した顔がやさしすぎて絆されそうになったが、後半の聞き捨てならない部分が怖くてすぐに正気を取り戻した。
いいか、よく聞け。とカイザーが頬に手を添える。体を離そうとしたが、いつの間にか壁際に追い込まれていたため逃げられなかった。
「鈴は俺が一番最初に傷つけた相手だ」そうね。あんな思いをするのなら花や草に生まれたかった。
「俺は鈴の中で傷として残っていたか?」うん、思い出すたびにちくりと痛かった。
「好い男が現れるたび俺のことが脳裏を掠めたか?」ええ、悪夢みたいだった。
「時間はかかったが、まあ取り返せばいい」? 一人でペラペラとなんの話をしている?
「恋人は?いるなら別れろ」は?
「やり直すぞ、初恋」
は?
︙
「わけがわからん」
「こっちの台詞よ」
私が突き出したのは、NOのアンサー。いや、無理でしょ。まだ社会人でもなく、通訳アシスタントという体でついてきたただの学生の私と、バスタード・ミュンヘンのミヒャエル・カイザーが、また恋するなんて。どうやんの。無理でしょ。
「無理でしょ」
「無理じゃない」無理だよ。マンガじゃあるまいし。
多分、ミヒャエルには多くのファンがついている。熱狂的なサポーターだけでなく、顔ファンやリアコだってついているはずだ。わかる。同担拒否の子じゃなかったら語り合いたい。やっぱり顔が良すぎますよね。
それが熱愛なんて報道がされてみろ。怒り狂ったミヒャエル・カイザーのファンに「相手の女、一生恨んでやる。でもカイザーのファンであり続けていくよ」って言われる。ミヒャエルだって「これ、うちらが訴えたらカイザー終わりだよ。勝つ要素がカイザーには1つも無いもん」って過激ファンに言われる。わかる。見える。
「いいか? 出会うはずがなかった二人が出会って、一度別れてもまた出会ったんだ。これは運命だ。偶然じゃなく、必然だ。言っている意味分かるだろう?」
「もう離さない。もう今の俺には鈴を突き放す必要がないんだ。信じてくれていい」
やはり欧米……欧米は愛情表現で強行突破して愛で全てを解決しようとする……。しかもドイツ人特有の合理性で担保してくる……。厄介……。
「……ちょっと考えさせて」
「フーン? まあいい。とりあえず連絡先教えろ」
「今は仕事中なのでダメでーす」
「そんなに俺たちの関係を公にしたいのか?」
「そしたら私が社会的に死ぬけど大丈夫?」
「俺の下で生きればいい。安心しろ」
少ししたらスタッフがなかなか戻らない私を心配して迎えに来てくれた。電話番号は残念ながら抜かれた。
︙
「英語もいけますか?」
「はい、大丈夫です」
「では、イングランド担当のサポートをお願いします」
わぁい報連相、わたし報連相大好き。
その後、鬼電。SMSでは会いたいだの調子が悪いだの覚悟しておけだの嘘だ、鈴が恋しいだの。嬉しくないといったらそれは嘘になる。ただ単に、現実的でないだけだ。会いたいときに、気軽に会えない。好きなのに、我慢することが多い。バレたら世界中から好奇の目で見られ、会ったこともない人にとやかく言われる。私はそれに耐えられないだろう。まさに、"まるで安っぽいメロドラマだ。"
叶わない夢は、見ないに限る。
────
[ブルーロックで再会する前]
「カイザーって恋人いんの?」
「恋人はつくらない。遊んで終わりだ」向こうが勝手に恋人ヅラするが。
「へぇー」
「ずっと思いを寄せている女がいるからな」俺はずっと、その女だけを求めている。
(うわー)
︙
「カイザーの藤壺、ブルーロックにいたらしいよ」
「え、連れてきてたってこと?」
「いや、なんか偶然会ったっぽい」
「芥川じゃん」
────
フランス棟との最終戦。勤務時間中とはいえども、施設内にあるモニターで試合の様子は部分的ではあるが見ることができた。
サッカー、楽しかったんだろうな。いや、楽しくなったんだろうな。見れば分かる。一目瞭然。楽しいから、思ったプレーができないと悔しいし、悔しいと思えるほど本気でやれたのだと思う。この調子なら手に届きそうだな、天衣無縫の極みに。
嬉しさとは裏腹に、漠然と、サッカーに勝てないな。と思った。あと、潔くんにも勝てないだろうな、とも思った。サッカーをしない私は、サッカーにも潔くんにも勝てない。ミヒャエルが一番好きなもので負けたくなかった。きっと私は面倒くさい女になる。訳がわからない理屈でミヒャエルを困らせる。「私とサッカーと潔くん、どれが大事なの!?」大事なものに順位をつけさせるな。これでは嫉妬という愛のスパイスにもならない。
試合終了後、ピッチに座り込むミヒャエルに嫌でも目がいってしまう。負けないでほしい、また立ち上がって勝利を掴んでほしい、いくら壁が高くとも挑戦し続けてほしい。浮かぶのは身勝手な思いばかり。そもそも本気で打ち込んでいる人たちにかけられる言葉なんて私は持ち合わせていない。「お疲れ様」あんなに走り回ってたら疲れるに決まってる。「いい試合だったよ」ライバルに負けたのに?「かっこよかった」今更何?
「バイバイだね…ミヒャエル…」
ミヒャエルのことは好きだ。あの日恋に落ちてからずっと、あの日の恋から抜け出すことができない。荊の棘が刺さって抜けないみたいに。ミヒャエルと恋に落ちた人はみんなそうだと思う。でも、私よりも相応しい人がいるはずだ。なんか……もっと著名な……爆美女……?が似合うのでは……ないでしょうか……? 具体例が思い浮かばないのが情けないが、これが世間の理想だ。ミヒャエルに恋する誰もが、この人には勝てない、そう思える人と結ばれてほしいはずだ。私だってそう。でも、願わくば、私の知らないところで素敵な誰かと幸せになってほしい。
この後も、きっと私の下へ会いには来ないだろう。サッカーの楽しさに気づいたのなら、それを追求するタイプの人間だろうから。
「サッカー、楽しくなった? よかったね」
これからも応援してるからね。の意を込めて、SMSを送った。
返事は来なかった。
新英雄大戦も恙無く終わり、色々あった諸々を勝手にいい思い出にして私はブルーロックを去った。
︙
「社交界があるんだが鈴も来てくれないか? こっちはイヤホンがあるけど、相手がつけてるとは限らないからさ」
高校を卒業し、プロサッカー選手になった同窓生からのオファー。いやいやまだ学生の身ですし、と暗に断ろうとするも、もちろん、費用は全部こちらが出す。そう条件を出されては、今回だけは特別に……と受けざるを得なかった。いえいえ、同窓のよしみです。え、五つ星ホテルのスイート。お部屋での朝食付き。──当方のやる気は約束されたようなものだ。
「そういえば、どこでやるの? 社交界」
「ん? ドイツ」
サッカー関係の社交界。ドイツ。あ〜ね。
︙
「運命って、やっぱりあるんだろうな」
別に、逃げも隠れもしなかった。する必要がなかったから。あ、やっぱりミヒャエルいるじゃん。と思ったけれど、仕事中だし、"終わった"関係だと思っているし。嫌味や文句の一つや二つ吹っかけてくるくらいは覚悟していたが。
「え、カイザーの芥川って鈴だったのか?」
「……? 龍之介ではないですけど」
「あー違くて。伊勢物語の方の」
「いやそんな大層な関係じゃないですけど……幼馴染ぐらいですよ」
「恋人だろうが…………充電期間中の」そんな……活休中のアイドルみたいに……。
ていうか、まだ恋人判定だったんだ。とか、まだ好きでいてくれたんだ。とか。
「こいつ貰って行くぞ」
いいの?と雇用主を見るも、「思ったよりなんとかなったから大丈夫」と即日解雇されてしまった。
手を引かれて連れていかれた地下駐車場には高級車が綺麗に並んでいる。外車の見本市みたい。その中で一際輝く一台のスポーツカーにエスコートされる。車高が低い。座っているはずなのに、なんだか寝てるみたい。
「今夜は何処に泊まるんだ?」あっあのね、
「キャンセルしろ」は?
「うちに来い」え?
返事をしようにもほとんど耳を貸さず、3連鎖が決まっていた。どうせ車までくる道のりでこの会話構成を組んでいたのだ。
「嫌」
「は……?」
「せっかくの五つ星スイートで、朝食付きなの!しかもルームサービスで!」ていうかもう荷物預けてるし。バトラーも付いているらしいが、なんとなくそれは黙っておいた。
「…………一旦キャンセルしろ」
「だから、」
「違う。俺が取り直す。ちゃんとスイートで部屋で朝食食えるよう手配する」
「鈴の面倒は、俺がみる。全部」
「あと俺も泊まる」
結局、キャンセルではなく支払先の変更、宿泊人数の変更で丸く収まった。
「部屋広!家じゃん」
「こういう生活がご所望ならすぐにでも用意してやれる」
一通りルームツアーをしてはしゃぐ私にミヒャエルはそう提案してくる。
「こういう贅沢は、たまにのご褒美だからいいの」はい、と手を出す。なんだ?と目を丸くするミヒャエルに「ジャケット。脱がない?」高価な服は得てして生活には向かない。ストレッチ性というものが皆無なので可動域が狭く、くつろぐことはおろか、動きまで制限されてしまう。ミヒャエルは慣れているのか、着られている感はないものの脱いだ方がリラックスできるだろう。あと皺になっちゃうし。じいっと妙な表情でこちらに目線をくれるミヒャエル。なんとなくいい意味ではなさそうな視線だ。小さくため息を落としてジャケットを脱ぐ。
「慣れてるんだな。男がいるのか?」
「え、いないけど」慣れというより気遣いである。
「本当に?」
「いたらあなたと泊まらないわよ」ジャケットをクローゼットにかけて、リビングエリアへ戻る。突っ立ったままのミヒャエルをソファに誘う。まだ心配そうな表情が拭えない。
「俺はずっと不安だった」「鈴が他の誰かと愛を囁き合っているかもしれない、誰かが鈴のことを好きになってアプローチしているかもしれない」
それなら、と私からも言わせてもらう。
「連絡くれてもよかったのに」一時はスヌーズ機能かと思うくらい短い周期で鳴り続ける着信が、あれから一度も鳴らなくなった。
「俺はあの時世一に負けているから」
「連絡するのなら、もう二度と負けない強さを持ってから、と思ったが」
「連絡したら会いたくなる」だからしなかった。
「言い換えればこれまでのフットボールでの活躍はすべて鈴へのアイラブユーということになる」
ミヒャエル・カイザーにしては随分謙虚な姿勢に開いた口が塞がらない。新英雄大戦から数年経った。その数年間でミヒャエルはU-20、欧州リーグと数々の栄誉を手にしてきた。また、その活躍が私へのアイラブユーと言ったが、知らぬ私からしたら、私のことはすっかり忘れ、一途にサッカーを愛しているのだと思っていたのに。
「もっと自信満々かと思った」
「自信なんてない」
横並びに座るソファは、真剣な話には向かないのかもしれない。言いにくいことを伝えるときや、難しい距離感にはいいかもしれない。体が向き合うことがないから。こうやって膝同士が触れ合って肩を抱き、前のめりになって手を握られない限り、その真剣さは伝わらないだろう。
「俺は鈴を世界で一番愛している」それは誓って言える。真っ直ぐ刺さるような目線が、「だが、」という言葉で揺れる。
「俺以外の男が鈴のこと好きになったとき、俺は多分そいつに勝てない」
俺よりまともな人間なんて腐るほどいる。フットボールでは負けない。だが鈴に選び続けてもらえる価値が、俺にはないから。傷として残ろうとする男より、傷一つつけまいと守る男の方がいいに決まってる。
そう小さく、苦しみながら言葉を落とすミヒャエルはとても小さく見えた。はじめて出会った少年の時のように。捨てられた子犬のように誰か縋る先を探している弱い存在のように。こんなに大きくなったのに。こんなに強くなったのに。私と似たようなこと考えてたんだ。そう思うと少し面白かった。
「僕も同じこと考えてた」アナ雪? こんな雰囲気じゃあなかったら歌いだしていたかもしれないのに。
握られた手を引かれてミヒャエルの胸にダイブする。あたたかい。細身に見えるが意外と分厚い。手を回すのにも一苦労した。
「鈴はおバカねぇ」「ミヒャエルもね」
「執着ではないんだよね?」手に入ったらなんか違ったとか嫌よ。そう口にしてから、ちょっと怒られるかもと思った。
「鈴が手に入るなら執着でもなんでもいい」と抱き締める腕が強くなる。
「諦められなかった。諦められないんだ」
「他の女じゃダメだった。鈴じゃなかったから」
「俺はお前だけを求めてる」
「俺だけを見て」
「俺の手を離さないで」
「俺のことを好きになって」
畳みかけるように降ってくる愛の言葉。愛されたいと私に伝えるための言葉。場違いなのは承知の上で、いっぱい喋っててかわいいな。と思ってしまった。本来、口数の少ない性分の人だとわかっているから。
「もうなってるよ」たぶん、10年前からずっと。
お互いの唇が求め合う。それぞれ呼応するように触れ合う。存分に触れ合ったのち、それはゆっくりと離れ、視線が絡み合う。やさしい目をしている。
彼の瞳は私にパリのサント・シャペルを思い出させる。光が差し込んで煌めく瞬間、鮮やかに空間を染め上げる青。革命前は荊冠が保管されていたことや、"ミヒャエル・カイザー"という名前を考えると、ちょっと運命的ですらある。
愛情は眼差しに乗る。目を見れば、彼が私を愛していることがわかる。そして、愛にはきっと質量がある。それは潤みとして彼の瞳から溢れ出しそうだから。
「泣いてる?」「泣いたらナマエは日本に帰るのやめてくれるのか?」
「ちょっと待ってて。私もいい方法考えるから」
とりあえず大学は卒業しておきたいし……。海外で就職、ってどうすんだ? インターンとか? ESとかあるのかな……。めんどくさそう。日本で外資系を狙う方がいいかな。
「いやだ」「離れたくない」「俺も日本に行く」
「おちつけ」
︙
翌日。ルームサービスの朝食とバトラーサービスにいたく感動した私と、軽めの変装をしたミヒャエルは空港にいた。ホテルでバイバイでもよかったけれど、ついてくるというので変装を条件に帯同を許可した。
「俺はあと何回お前の後ろ姿を見送ればいいんだ」もう1秒だって離したくないのに。
眉間にしわを寄せ、まるでこちらに非があるように振る舞われる。あと執拗に私の手荷物を狙ってくる。重いから俺が持つ、と言ってくるが、人質……荷質? にされそうで断り続けている。チェックインは済ませた。保安検査場へは、まだ行けそうにない。
「日本に行くな」
「ドイツに戻ってこい」
「俺と結婚しよう」
そんなホップステップジャンプなプロポーズがあるか。遠距離という高いハードルを今すぐ跳び越えようとするな。怒涛の足止めトラップに目を泳がす。
「鈴のためなら肩書きなんてすべて捨てる」
そこまでしなくていい!ていうかするな!
︙
このレーンを進めば保安検査場だ。無敵とも言っていい日本のパスポート、諸先輩方のおかげでほぼ通過するだけの出入国審査はEU圏への入国ハードルを著しく下げている気がする。それよりも、この個人的な出国審査の方がハードルは高い。
「鈴が大学卒業するまで待ってやる。それまで毎日通話。留年は不可、退学してもらう」
「えー……履歴書の学歴最終行が中退じゃ嫌かも……」
「ドイツで入り直せ」俺もついでに一緒に通ってやる。
「それは……結構楽しそうね?」でもかのミヒャエル・カイザーが大学通い出したら学校パニックになっちゃうかな。
「…………」
「考え込まないで。ミヒャエルは現役引退するまでサッカーに集中して」
「5日以上時間があればこっちに来い、チケットは俺が取るから」
「はいはい」
「……」離れない、手が。
「ミヒャエル、そろそろ時間が」
「鈴はドライすぎる、鈴がおかしい」
すんなり、とはいかなかったが、「親しい友人には別れの挨拶をしておけ」「残り少ない日本での生活を楽しめ」とヴィランのようなセリフに頷くことにより私は無事出国と相成った。
︙
「バスタード・ミュンヘンから手紙来てるよ」
卒論発表も無事に済み、論文も完全体が見えてきた今日この頃。ゼミでダラダラしながら1日が終わっていく。最近は「卒業旅行どうする?」という話題で盛り上がり、「鈴は4月からどうするの」と心配されるループに嵌っている。とりあえず留学かなとお茶を濁し続けているが、普通在学中にするものなので計画性のなさを心配されている感が否めない。就活はこっちに来てからでも大丈夫だからしなくていい。という言葉を信じて資格や免許を取ることぐらいしかしていない。向こうは1月始まりだからまぁ、大丈夫だろう。
家に帰ると大層な装丁のエアメールを母から受け取った。やば、エンブレムが箔押しされている。中には手書きのメッセージカードと何か契約書のような文書が同封されている。家族には4月から国を出ることは伝えてあったが、またひとつ伝える情報が増えそうだ。手書きのメッセージは、エアメールのくせに今日にぴったりの内容だ。通話で答えるか、メッセージを送るか。自分用に買ったチョコレートを食べながら考えることにした。
「Will you be my Valentine?」
[ FACE ME ]
幸せは何かと聞かれたら、朝目が覚めて、一番に鈴の姿が目に入ることだと答えるだろう。それを夢見て、その夢を見て、朝起きたらそれは夢だと突きつけられ、夢を見る資格もないのだと言われているようだった。鈴が「愛してる」と俺に伝える夢を見ては、無意識に抑圧するほど自信がないのだと嘲笑った。
初めは、馬鹿な女だと思った。俺の気を引こうとしている。愚かだ。もしも、俺が。まともな人間になれたら。こんなこと思わないのだろうか。
俺はエディプス期を満足に過ごせなかったから、感情発達が初期段階で止まっている。『この時期に愛情関係を得られない場合、愛の感じ方を学べず、生涯を通じて人を信用しなくなる』この分析は正しいように思えた。
フロイトのように、父が死ぬまで俺は父と和解することはないだろう。そして、どこかでいない母を探し、愛の発露する先を探していたはずだ。だから、鈴はちょうどよかったのだ。好きなことをそれぞれやっていてもよく、自分の好きなタイミングで話し初めても受け入れられて、触れ合う心地よさを知った。母に求めるものを鈴に求め、そこから地続きに思春期からそれ以降も鈴の面影を探し続けている。
鈴を自分のものにしようとした。俺だけを見るように、俺に夢中になるように。そのために、それまで学んだことを総動員した。これはフットボールで得た快感からだった。俺以外の21人を自由に動かすことができれば、それだけで心が満たされたから。しかし人心掌握や煽りといったアクションは、人の行動や視野を狭めるにはある程度有効だが、天才相手や、本当に心を惹きつけたい相手には無駄な策だった。天才には効かないし、本当に欲しい相手には、自分から選んでもらえなければ虚しいだけだからだ。愛してほしければ、まずは自ら愛さなければならない。再び相見えたら、ちゃんと言葉を尽くそう、追い縋って惨めな姿を見せたとしても気持ちを伝えると決めた。"己の未熟さを認めずして、精神の成長を進めることはできない──"
︙
『ミヒャエル、甘いもの好き?』
?
『ナッツとかアレルギーある?ていうかチョコ好き?』
一体なんなんだ? 婚約者が前触れもなくアキネイターになった。
「バレンタインだからだろ、どう考えても」よかったじゃん。と声をかけてくるチームメイトからは励ましのニュアンスを感じる。
聞けば日本のイベントらしい。あいつらの食べ物に懸ける情熱は一体なんなんだ。
︙
練習を終えて帰宅。珍しくインターホンを鳴らす。「ただいま。開けてくれないか?」と画面越しの鈴に話しかける。「おかえり、今開けるね」とエントランスのロックを開けてもらう。コンシェルジュの視線が生暖かい。
程なく部屋に到着し、改めてドアホンを押す。
「Happy Valentine day」と花束を差し出す。「素敵! ありがとう!」と喜ぶ姿に胸に愛しさが溢れる。こういうプレゼントの方が素直に喜んでくれるのだ。生活費用に渡したカードや、数ある記念日に贈った宝飾品は嬉しさより緊張が勝るらしい。また、花やスイーツは愛でる姿も見られるのが楽しい。ジュエリーは「こんな高級品普段使いできない」からデートくらいでしか出番がないのだ。──それじゃあ贈った意味がないだろうとムキになってCartierのLOVE BRACELETを寝ている隙に嵌めて「手錠じゃん……」と呆れる場面もあった。「大丈夫、円安だから高く感じるだけ」と暗示をかけたり「ミヒャエル・カイザーと付き合うということはこういうこと……」と諦めようとする姿も見られたが、ドライバーを使うこともなく今もなお左手に収まっている。
「ねえミヒャエル、手洗ったらキッチンに来てくれる?」
「……? キッチンで手洗おうか?」
「あっ、違くて……洗面所で洗ってから来てください」
︙
「えっと、バレンタインだからこれ」どうぞ、とリボンのかかった箱を手渡してくる。なんだ、改まって。
「ありがとう、味わって食べる」早く見たい気持ちが募り、ダイニングへと足を向ける。
「まって!」裾をちまりと掴んで引き止められる。なんだ、この小動物は。
「あの、これ、本気のやつで」
「好きです、ミヒャエルのことが」付き合ってください!
???
「あはは、付き合ってくれてありがとう」
「やってみたくてさ、呼び出して本命チョコ渡すやつ」好きな人いなかったから学校でやったことなかったし。でもクラスの女の子たちとお金出しあって男子宛に市販の義理チョコを黒板に貼ったりしたんだ〜。と懐かしそうに笑う鈴。
まだ夢の中なのかも知れない。幼い頃から見続けていた夢の先にいる感覚だったから。
自分自身を正しく理解できるように、と精神分析は利用されてきた。もう、夢で鈴が出てくることは減るのだろうという確信があった。もし見たとしても、目を開けて視界に入る姿が死ぬまで俺を安心させ続けてくれるはずだ。
「ミヒャエル? どうかした?」
「鈴、初めて俺に『好き』って言ったぞ」
嘘だぁ、と笑う鈴を抱き締める。今日は愛と感謝を伝える日。12本の薔薇では伝えきれない想いが伝わるように。
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