住まいをマンションやアパートではなく住宅街にある空き家にしたのは、理想に近く、家賃が安かったからだった。
見た目は慎ましやかな平屋建ての空き家は元は老夫婦が暮らしていたものらしい。しかし家は主が居なくなって久しく、取り壊すには金がかかる。なおかつ、リフォームを重ねた家はまだまだ現役で使える状態で、しかし持ち主の子供は県外に住まいがあり――という事情で賃貸に出したところ、なまえに紹介されたのだった。
祖父母の家に雰囲気が似ていたこと、賃貸に出すからと防犯対策が成されていたこと、いろいろな理由があったが、仕事柄数日不在にすることも少なくないなまえは、人の生活感というものを身近に置いておきたかった。孤独は時に人を狂わせると、身近に居る人間から学んでいたからだ。
「やっほ〜」
「南雲さん……いつの間に」
「え〜? さっきだよ〜」
「ええ……?」
仕事に区切りをつけてリビングに入ると、『お付き合い』をしている相手が、我が物顔で寛いでいた。目を見開いたなまえに、彼はひらひらと笑顔で手を振る。
「隣の部屋にいたのに……」
思わず言葉がこぼれ落ちる。気配もなにもしなかった。そう言うと、彼は「それが本業だからね〜」と笑みを崩さぬまま答えた。
なるほど、となまえは相槌を打つ。そういえばこの人の仕事ってそういう仕事だったな、と思いながら。
恋人――南雲はいつものスーツ姿ではなく、スウェットに着替えていた。気づいた頃には家に置かれていたそれは、なまえのささやかな日常の中でひときわ異彩を放っていた。
普段の姿とは異なる、完全なオフと言って差し支えない姿。唐突な訪問とはいえ、合鍵を渡している手前、もてなさない理由もない。
「なにか飲みますか? 出せるの紅茶しかないですけど」
「それって実質一択じゃない? じゃあそれで〜」
「わかりました」
うなずいたなまえは、そのままキッチンに向かった。薬缶に水を注ぎ、戸棚から急須や茶葉を取り出していく。
何気なく肩を回せば、パキと乾いた音が鳴る。気づかないうちに随分と凝り固まっていたらしい。息を吐いて、なまえは髪をまとめていたヘアクリップを外した。一気に力が抜けて、自分がどれだけ根を詰めていたのか気付かされた。
(お茶飲んだら休もうかな……)
筆が乗るからと勢いのまま進めてきたが、一度立ち止まってもいいのかもしれない。スケジュールにはまだ余裕がある。なまえは目頭を軽くつまみながら考える。
シュンシュンと鳴り始めた薬缶を見つめていると、ふと、男の大きな手が視界を過った。
「ばあっ」
「……なにしてるんですか?」
まるで幼い子どもにするかのように、明るい声が降り注ぐ。
いつの間に来たのか、自分より頭ひとつ分大きい恋人が、背後から包み込むようになまえを見下ろしていた。
心拍数が跳ね上がるのを感じながら、なまえは淡々と問いかける。反応の乏しい恋人の姿に、南雲はつまらなさげに唇を尖らせた。
「なまえちゃんさ〜ドライ過ぎない? 前はもうちょっと新鮮な反応だったのにな〜」
「何回驚かされたと思ってるんですか」
流石に慣れますよ。けんもほろろな回答に、ぷくりと片頬を膨らませる南雲。なにをしたところで、二十代後半とは思えない童顔が引き立つだけだ。半目になったなまえに、「ちぇっ」とわざとらしく声に出しながら抱きしめてくる。
「薬缶、沸騰するから危ないですよ」
「危ないのはなまえちゃんでしょ〜? ぼんやりしすぎてこの前何もない道で転びかけたの知ってるよ」
「なんで知って……?」
「なまえちゃん、集中しすぎると他のことが疎かになるから僕心配だな〜」
「はあ……」
曖昧に返事を返しながら、なまえはえもいわれぬ感情が胸の中を蠢いているのを感じた。
ひどく不思議な感覚だった。前までは――彼と出会うまでは、ひとりでもこれっぽっちも苦しくはなかった。ひっそりと過ぎていく時間に身を任せていれば、それでよかった。思考停止とも呼べるそれを、なまえは歓迎していた。
だけど、今は違う。
不思議だ。とても不思議。そして、とても不安。
ピイピイ叫び出した薬缶の火を消して、急須とマグカップに湯を注いでいく。ひとり暮らしの家には紅茶専用のおしゃれな茶器などありはしないので、これで我慢してもらう。
しばし温め、急須やマグカップに入れたお湯を捨て、茶葉を適当に急須に入れて、勢いよくお湯を注いだ。ぐるぐると茶葉が渦を描くのを見るのが好きだった。
わあ、と声を上げる背後の恋人へ、ねえ、と声をかける。
「南雲さん」
「ん?」
「死んだりしないでくださいね」
「え、どうしたの〜? そんな急に」
なんかあった? という問いに、いいえと首を振る。
「なんとなく、言わなきゃと思って」
時計を確認し、なまえは蒸らした紅茶を濾してマグカップに注いでいく。部屋の中に、紅茶特有の豊かな香りが広がっていくのがわかった。
「いい匂いだね〜、これ」
「はい。仕事先の人が前にくれて……それから気に入って自分で買うようになりました」
「へえ〜、ちなみにそれって男?」
「その人は男性でしたけど……それがなにか?」
「ふ〜ん」
そうなんだと言いながら身体を拘束する力が強まったことに、なまえは首をかしげる。何故だか、その声はつまらなさそうに思えた。
「わたし、なにか変なこと言いましたか」
「別に〜」
言いつつ、圧迫感が増す。どうやら当たりらしい。
「他の男の人の話をしたのはよくなかったですか?」
顔を上げて、なまえは恋人の顔を見た。ほぼ見上げる形なので首が痛いが、背後から抱えられた体勢ではこうでしか彼の顔を窺うことは出来なかったのだ。
南雲は、じっとなまえを見下ろしていた。長めの前髪に隠された瞳から、ハイライトが消えているように見える。
しばし見つめ合い、ようやっとなまえの恋人は口を開いた。
「うーん、まあ、そうかも」
「はあ……」
「君が他の男の話するの、あんまり好きじゃないんだよね」
「はあ……坂本さんとかでも?」
「そうかも〜」
僕もよくわかんないんだよね、とつぶやく顔はあどけない。これでなまえよりも歳上なのだから、人間とは不思議なものである。
南雲はなまえを抱きしめたまま、ううんと唸っている。普段はなまえのほうが彼の一挙一動に頭を悩ませているのに、いつもとは逆転したようなその様子はとても奇妙に思えた。
(わたし……)
不思議と、なまえの胸はふわふわしたもので満たされていた。いつもの飄々とした様子とは違うその顔に、高揚感のようなものを感じている自分に戸惑う。
「……とりあえずどうぞ。冷めないうちに」
「ありがと〜」
いつの間にか南雲専用になった赤のマグカップを渡すと、彼はためらいなくそれを口に含んだ。
ごくり、と喉仏が動く。
「うん、おいしい」
「それはよかった。お茶菓子いりますか?」
「食べる〜」
「じゃあ離してください」
「それは嫌〜」
「南雲さん、たまにわがままプリンセスみたいなこと言いますね」
「なにそれ」
けらけらと笑う声に、身体の奥がぐるぐると渦巻く。苛立ちではない、焦燥感に似た、自分が自分でなくなるような不安だ。力づくで離れようとするが、そもそも肉体派の異性に力で叶うはずもなく。片手でホールドされている形なのに、驚くほどまったく離れられない。
あーあ、といつもの調子を取り戻した南雲が笑う。
「なまえちゃんってほんと力弱いよね〜、これじゃ僕がいなくなったらすぐ死んじゃうかもね」
「物騒なこと、言わないでくださいよ……」
「え〜? でもホントにそんな感じしない? 何も無いとこで転びそうになるし、たまに迷子になりかけてるし〜あと結構優柔不断だよね、一個のお菓子選ぶのにもすごく時間かけてるし」
一体この人はどこから情報を得ているのだろう。思わずそう思ってしまうほど、南雲がつらつらと並べる話題は細かくてキリがない。頭がぐるぐると回っている。目の奥に星がチカチカ点滅していた。パニックだ。
「だったら、南雲さんが責任取ってください」
「え?」
だから、気づけばそんな言葉が飛び出していた。
予期せぬ言葉に驚いたのは南雲だけではない。なまえも、自分の言葉に目を見開いていた。
しかしそれも、一瞬で据わったものへと置き換わる。
こうなったらヤケだ。なまえは吐き出すように言った。
「た、ただでさえ南雲さんのことで頭の中めちゃめちゃになってるのに、これ以上どうしろってんですか。わ、わたしばかだからほんと、これ以上来られるとほんと、あの、ほんと困るんですよ! 頭の容量、仕事以外ほぼ全部南雲さんのことでいっぱいになってるし」
どんどん感情を掻き乱されて、ざわついて、持て余しているというのに。
「人で遊んで、散々めちゃくちゃのぐちゃぐちゃにしたんだから、ちゃんと責任とってくれなきゃ、ゆるしませんから」
しかめっ面のなまえに、ぱちぱちと目を瞬かせた南雲は「なあんだ」と破顔した。
「僕たち、ちゃんと両想いだ」
「……んなわけ」
「え〜? もしかして僕の愛情疑ってる?」
失礼だな〜と呟きながら、南雲はマグカップを片手に、なまえの頭に顎を乗せる。
「ぼくも君がいないとつまんなくなっちゃったんだ。だから、ちゃんと責任とってね」
まっすぐこちらを見つめながら告げられた言葉に、なまえは目を眇めて、それから澄ました声で応えた。
「――そっちが責任とってくれる限りは、保証してあげます」
「あはは、じゃ、死ぬまで離れらんないね」
なまえはひとくち、紅茶を口に含む。体が熱いのはきっと、紅茶を飲んだからだ。
だから頬が熱いのも、きっとそうに違いない。なまえはそう言い訳して、もうひと口紅茶を口にするのだった。
20221114