「あっ、今日路くんだ」
「ん……ああ、みょうじか」
トコトコ歩いて近寄ってきた女子は、レンズ越しの瞳をすうっと細めた。見るからに嬉しそうな顔。さながら小躍りする子犬のように揺れてる体を抑えるように頭に手を乗せる。ついでにと撫でてやると、絹のような髪がするりと指に絡んだ。
頭に乗せられた俺の手をそっと取り、そのまま両手で包み込むように握った彼女が笑う。
「ふふ、今日は会えたからよい日になった」
「そうか。よかったな」
「野球部は今日も練習ですか?」
「今日も練習だな。……疑問なんだが、国都に訊かないのか? クラスメイトだろう」
「やだなあ、こういうのは今日路くんに訊くから意味があるんだよ」
「そういうものか」
「そういうものだよ」
連絡を取り合えるほど距離や時間があるわけでもなく、こうして校内で会うと見るからに嬉しそうな顔をする彼女を構ってやるのが習慣になってしまった。
彼女――みょうじなまえは、一学年下の国都の友人である。
プリントを届けに何度か野球部にやってきた際、紹介されたのが出会いだ。ソワソワと落ち着かない様子で、子どものように国都の背中越しにこちらの様子を窺う姿が印象に残っている。一見おとなしそうだが、国都を呼び捨てにし、あの国都と軽く小突き合う姿を見るかぎり、ざっくばらんとした気質らしい。非常に珍しいタイプの女子生徒だった。
さて。
そんな彼女だが、なぜか国都よりも俺によく懐いてきた。友人である国都曰く「とても珍しいです」らしい。そもそも、自ら動くタイプではないということだった。
もぞもぞとしていた彼女の一言目。
「きょーじくん」
唐突な名前呼びである。
いつもなら「千石さんと呼べ」と返すはずの言葉はついぞ出てこなかった。衝撃を受けた。はじめての経験だった。異性からこんな――こんなにやわらかくあまい声で自分の名を呼ばれる、この衝撃。野球に心血を注いできた思春期男子には劇物すぎた。イチコロだった。
出会って半年ほど経った頃、さりげなく探ったことがある。
「お前、なんで俺を名前で呼ぶんだ?」
「んん? えっとねえ」
曰く、はじめて会ったとき、全身がビリビリして、それからずっと今日路くんが頭から離れない、ぐるぐるするのだと、夢見心地で曖昧な説明だったが、その意味≠ヘわかる奴にはわかってしまう。
――俺もまたその一人であった。
時計を確認した彼女が残念そうな顔で呟く。
「あー……もう行かないと」
「気を付けて戻れよ」
「うん。……あっ、そうだ、今日路くんこれあげる」
「ん?」
スカートのポケットから何かを取り出した彼女は、俺の手にそっと取り出したものを握らせた。
「塩飴だって。フルーツ味」
「くれるのか?」
「うん。お水と一緒にとるとよいらしい。外は暑いから」
「わかった。ありがとう」
「どういたしまして」
ニッと笑って、彼女は「ばいばい」軽やかな足取りで去っていった。
出会ってから一年と少し。見かけるたび近寄ってくる後輩は同級生たちにも顔を覚えられたようで、通りすがりのクラスメイトにバイバイと手を振られてはビクッとして控えめに振り返している。俺以外には人見知りぎみなのだ。かわいい。律義な子だ。あんなもの無視してしまえばいいものを。
彼女が見えなくなると同時に、そっと見守っていたチームメイトたちが近寄ってきた。
「相変わらず自覚してねぇんだな」いっそ感心したような小里の声に頷いて返す。
「今は≠アれでいい。どうしたって高校の間は野球が第一優先事項だからな」
「そりゃそうだが」
「千石としてはどうなんだ?」益村が俺に問いかける。
「何がだ?」
「みょうじさんに好意を寄せられてることについて。まあ、みょうじさんは無自覚っぽいけど」
「あれで自覚あったら怖いだろ」
「そうかな? それはそれで可愛くない?」
「当は器がデカいよな……」
「それで、どうなんだよ千石」
全員の目がこちらを向く。
そんなもの、答えはひとつに決まっている。
「嬉しくないわけないだろうが。俺だって男だぞ」
「いっそ清々しいな」
「そのまま突き抜けてほしい」
「俺たちも応援してるから、手伝えることあったら言ってね」
「ああ、助かる」
幸い、彼女は友人やクラスメイトに恵まれているようで、今のところ、俺への気持ちが慕情だと気づいていない。本当に謎なのだが、彼女と小学生からの付き合いの後輩曰く「そこまで心傾ける経験がなかった」とのこと。なるほど令和世代。
「逃げられる前に外堀だけは埋めておかないとな」
「おっかねえなお前」
高校最後の夏――その先で、あの笑顔を自分だけのものにする日を、ずっと夢見ている。
20240718