春を告げる桜の花弁がひらひらと舞っている。私が私を忘れた季節がやって来た。風に揺られ、時折病室の窓から顔を覗かせるそれを上半身だけ起こしてぼーっと見ていればもっと間近でピンクがチラつく。きちんと施錠されたそこから侵入する筈はない。となると原因は私だ。一体いつから自分は個性を使ってしまっていたのか。視線を下に落としてその事実に驚愕する。ベッドを埋め尽くすのは今し方窓越しに見ていた桜の花弁。こんもりとピンクの山が出来ているって事は随分前から個性を使っていたのだろう。

「またやってしまった……」

 こうなるまで気付かないのも間抜けであるが、この年齢になって個性を制御出来ない自分が情けない。私よりも私の事情を知る周りの人達は仕方がないと責め立てては来ないけれど、やはり申し訳なさがある。見渡せばベッドの上どころか白い空間の至る箇所に同じ現象が起きていた。早く止めたいのに先程よりも余計に勢いを増してしまったのは焦っているからだろう。ひらひらなんて可愛いものではなくなってしまった。びゅうびゅうと吹き荒れているのでピンクの山々は一瞬で崩された。窓ガラスが割れそうなくらいの強風。このままでは不味いだろう。少なくとも今の私には身に覚えがないくらいに個性が暴走しているのが分かる。自力ではもうどうすることも出来ないと諦めた私がナースコールへと手を伸ばしたその時、病室へやって来たのはお医者さんや看護師さんではなかったが、今一番この状況を打破出来る人物だった。目の前に広がる光景から瞬時に状況を理解した彼は私の名前を叫んだ。

「名前!俺の目を見ろ!」

 そんなこと、言われなくとも貴方が入って来た瞬間からしっかりと見ているのに。

 髪の毛を逆立て、普段からあまり良いとは思えない目つきを更に鋭くした彼。その赤に囚われた私はまるで蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らせなかった。

「これはまた随分と派手にやらかしたな、名前」

「……ごめんなさい、相澤さん。助かりました」

 彼の個性で抹消された私の個性、花吹雪。強風により舞い上がっていた花弁は再び山となって病室の白を塗り替えた。後片付けをしなければと慌てて床に立ち上がろうとしたけれど、思い通りに足が動いてくれなくて。ガクッと膝から崩れ落ちそうになる。しかしそこは流石と言うべきか、相澤さんが私を支えてくれた。

「片付けは俺がやるから名前は大人しくしてろ」

「そんなっ。元はと言えば私の個性で……」

 有無を言わさず相澤さんは私をベッドへ戻す。そうして事情を知った看護師さん達と共に花弁をあっという間に片付けてしまった。何から何まで本当に申し訳ないと謝れば何故だか笑われる始末。首を少し傾げた私の頭に相澤さんの手が乗っかる。

「床は掃除し終わったが、名前の頭上はまだだったな」

「お、お恥ずかしい限りで……」

 頭の上ならば立ち上がる必要はなく自分でもなんとか出来た。それなのに花弁が乗ってる事すら気付かず、ただ床の掃除をする相澤さん達を眺めていたとは……。なんて間抜け過ぎる。結局頭上の花弁も相澤さんが振り払って綺麗にしてくれた。

「それで、今日の調子はどうだ」

「個性が暴走した以外、特に変わりはないです」

「……そうか」

 看護師さんが退出し、私のベッド付近の椅子へと腰を下ろした相澤さんは今日もお決まりの質問をしてきた。そうして私もお決まりの返答をする。変わりがないという事は失った記憶も戻っていないし、足の調子もイマイチという事。短く息を吐いた彼は眉根を寄せて難しい顔をしていた。分かってはいる。彼が心待ちにしているのは今の私ではない。その事実にチクリと胸が痛み、布団の中で左手の薬指についた指輪を触った。

 私は高校生辺りからの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。目が覚めたら病院で、足は動かないし、自分は既に三十路とか笑えない。何かのドッキリかと思った。職業はヒーロー兼教師をしていたが、ヴィラン達との交戦中に相澤さんを庇って大怪我を負ったらしい。おまけにヴィランの中で記憶を操作する個性を持っていた者により、約15年分の記憶が消されたと。お医者さん曰く、元に戻るかどうかは分からないらしい。逃亡して未だに行方知らずのヴィランを見つけるのが手っ取り早いそうだが、何せ記憶操作という厄介な個性を持っている。逃亡先で都合の良い風に記憶の改竄を繰り返しているに違いない。

「……って、相澤さん?……それなんですか?」

「何って、どう見てもお前の好物のリンゴだよ」

「それは分かります。手に持っていたレジ袋から透けて見えたので」

 なんなら相澤さんが掃除をしている最中にサイドテーブルに放置されていたから中身を覗いている。私が知りたいのは私が回想に耽っている間に剥き出したらしい林檎の皮の様子がおかしいことだ。

「……うさぎのつもりなんだが?」

「これが……うさぎ?」

 皮だけでなくリンゴにまで切れ込みが入ってしまっているし、少し薄っぺらい。恐らく失敗して更にもう半分に切ってやり直した結果がこれという訳か。

「随分とスリム体型なうさぎですねっ」

 可笑しくて思わず笑ってしまった私の口に相澤さんはその林檎を放り込んだ。口の中に蜜の甘さと程良い酸味が広がる……なんてことはなく、一口サイズより更に一回り小さいから正直果汁もあまり感じられない。それがまた面白過ぎて笑う。何がそんなにウケているのかイマイチ分かっていない彼は再びスリム体型のうさぎを生み出しては私の口に放り込む。

 相澤さんがこうも世話を焼いてくれるのは責任を感じているのだろう。私が記憶を失うきっかけになってしまったと。自分を庇ったせいだと彼の口から聞いたのは記憶を失って間もない頃。勿論彼の事も当然覚えていなくて。誰ですかと思わず聞いてしまったあの時の彼の顔は今でも覚えている。私と彼の関係性もその日の内に彼と、それから私の同期らしい山田ひざしさんが盛大に暴露してくれたお陰で知れた。……本来ならば一週間後に結婚式を控えていた事も。

 彼が結婚したいと思っているのはきっと今の私ではない。共に過ごした日々の思い出を何もかも忘れた私じゃ駄目なんだ。

「……どこか痛むのか?」

「へっ」

 泣いてるよと相澤さんに目尻を触れられてから自分が泣いている事を知った。心配そうな顔をしてこちらを見て来るから余計に涙が止まらなくなる。

「ごめんなさいっ。私っ思い出したいんです!……相澤さんとの記憶をっ。じゃないと駄目なんです。今の私ではっ!」

 貴方の隣に胸を張って立てる自信がない。けれども私以外の誰かと幸せな家庭を築く貴方の姿も見たくなくて。だからやっぱり思い出すしかないんだ。

「……思い出がないならまた作ればいい。俺の事を忘れて好きじゃなくなったから結婚出来ないって言うならもう一度俺が名前を落とすから問題ないよ」

 相澤さんの言葉を理解するのに数分。私とは違い、なんて事はないと先程よりも幾分かマシなうさぎを作り始めた彼。驚きすぎて涙は止まった。自身がさらっと口にした言葉にどれ程私が救われて、それと同時にトキメキを感じているか分かっていない。

「……そんなの、もうとっくに落ちてます。あの、消太さん……って呼んでも良いですか?」

 そう私が言えば、聞くまでもないなと彼は笑みを浮かべて私に綺麗なうさぎのリンゴを差し出した。




もう一度貴方の名前を


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