気が付けば取り返せないところまで 





 楽屋の扉の向こうは、始終慌ただしく駆け出す人の足音や、機材を運ぶ音、スタッフの会話、ある時は大声が聞こえてくる。私は先ほどから落ち着きを取り戻さない心臓を、どうやったら鎮められるのか考えあぐねている。眩しい照明が付いたドレッサーミラーに映る私は、可愛いフリルたっぷりの白のミニドレス衣装に、自分に似合うレッドメイク、素敵なヘアアレンジをしてもらって、とてもキラキラ輝いているのに。眉間には皺。青白い顔。苦しそうな表情。これから、生放送で歌を、歌わなくちゃいけないのに。こんなんじゃ、とても舞台に立てるような状態じゃない。胸元でぎゅっと衣装を握りしめる。ああ、可愛い衣装をだめにしてしまう。いつ、出番を呼ばれるのだろう。ただただ、いつ来るかわからないその時を待つ。怯えながら、震えながら。このまま、時が止まってしまえばいいなんて、思いながら。それから程なくして、コンコンと軽快なノックが聞こえてくる。私の肩がびくりと上がった。がちゃりと扉が開くと、女性スタッフが覗いていた。


「なまえさん、間もなくスタンバイです。スタジオまでお願いします」

「はっ…はい…わかりました」


 まるでこの世の終わりを告げられた想いだ。震える足をなんとか動かして、スタジオまで向かう。ああ、嫌だな。怖い、な。ううん、大丈夫。レッスン通りにやるだけだ。リハーサル通り、笑顔で歌って踊って、やり切ってみせればいいだけ。たったそれだけでいい。それに集中すれば。けれど、スタジオに向かう途中にすれ違う人並みや声に、押しつぶされそうになった。私の話をしているわけがないのはわかってるのに。私のことを言ってるのかもしれない、私の悪いところをこそこそと言ってるのかもしれないと、頭が勘違いして、心臓がぎゅうっと苦しくなる。昼間の教室での出来事が、フラッシュバックしてしまう。「あんたなんか死んじゃえ」「アイドルだからって調子に乗るな」「男に色目を使うな」「目障りだ」頭に響く、罵詈雑言。髪を引っ張られたり、お腹をけられたり、水をかけられたり、お弁当をひっくり返されたり、教科書を失くされたり。痛い思いや怖い思いが、一気に体中を支配していく。呼吸が段々苦しくなってくる。嫌、嫌だ、やっぱり。テレビに出たくない!!
 気が付けば無意識にスタジオとは反対方向に振り向いて、私は駆けだそうとしていた。すると、私はそのまま真後ろにいた人にどんとぶつかって、尻もちをついてしまった。下を見ていたこともあって、全然気が付かなかった。私は慌てて、立ち上がって深くお辞儀をした。


「ごめんなさい…!その、よそ見を、私…」

「まったく、ちゃんと前をみて歩けないのかね君は…」

「…!あ…」


 驚いた。私とぶつかったその人が。夢ノ咲学院アイドル科に通う、現役高校生にして天性のアーティストって呼ばれてる…なんと、Valkyrieの斎宮宗だったのだ。彼の後ろには、メンバーである仁兎なずなと、影片みかが戸惑った表情でこちらを見ていた。同じくらいの年齢とは思えないくらいの、アイドルとしてのオーラに私は気圧されそうになって、後ずさる。そのまま会釈して彼らの横を通り過ぎようとすると、ぱしっと腕をつかまれた。振り向くと斎宮宗が、怪訝そうに私を見つめながら腕をつかんでいたのだ。突然のことに驚きを隠せない。何よりも、怪しむような彼の視線がいたたまれなかった。お願いやめて、そんな目で見るのは。


「…あの、すみません、離してください」

「ああ、すまない。いやおかしいと思ってね。これから君は出番のはずだと思っていたんだがね…ステージとは反対方向へ向かおうとしていただろう。だからつい引き留めてしまったのだよ」

「……っ!!」

「…まあ、どうやら勘違いだったようだね。僕は失礼するよ」


 そのまま去っていく斎宮宗の後を追うように、仁兎なずなと影片みかも去っていった。私は、そのまま硬直してしまった。もしや、彼に察してしまわれたのだろうか。私が…逃げ出そうとしたこと。心臓がどくりと脈打つ。私は、なんてことをしようとしていたんだろう。これでは、プロとしてあんまりではないか。こんな醜態を、あんなプロ意識の高い彼に見られてしまったなんて。恥ずかしさと情けなさでいっぱいになる。そうだ…私はプロなんだ。プロのアイドルとして、彼らと同じ土俵に立っているんだから。こんな風にいつまでも、怖がってちゃいけないんだ。怯える心を無理やり鼓舞し、私はスタジオまで走って向かった。








「なまえさん、次の曲が終わったら出番なので、直前までここで待機をお願いします」

「…!…はい」


 舞台袖には私の次が出番だというValkyrieもいた。なんとなく、斎宮宗に見られていると感じていた。失敗出来ない。彼も、ファンも、テレビの前の人たちも、みんな私を見ている。けれど、プロとして、ステージに立つと思えば思うほど、残酷なくらい心臓が脈打って身体が震えてしまう。だめ、お願いだから。このステージ、成功させたいの。怖がらないで、私。嫌なこと全部、仕舞い込んで。
 拍手が、聞こえる。私の前の番だったグループの歌が終わった。来た。次は私だ。いくよ私。これは生放送、失敗はできない…絶対に。絶対に!強張った顔に笑顔の仮面を被せ、ステージに足を踏み出す。ああ、照明が眩しい。たくさんの大きなカメラが、私を映してる。


〔さあ、次はソロアイドルとして現在大人気を博している、なまえで、「スマイルパレード」です。どうぞ!〕


 司会のアナウンサーが曲紹介をする。私は曲の最初のポーズで構え、それから間もなく前奏が始まった。踊らなきゃ。笑顔、出来てる。体も、動いてる。大丈夫、いける!歌いだしですっとマイクを構え、歌おうとすると、喉がひゅっと音を鳴らした。私は何が起こったかわからなかった。演奏は止まらない。歌声を乗せなければ。でも、どう頑張っても、声が出なかった。今度こそ、頭が真っ白になる。ダンスが止まる。私は恐怖で震え上がった。怖い。恐怖でどうにかなりそうだった。もうそのステージに立っていたのは、アイドルとしての【なまえ】ではなく、私自身だった。…後のことは、あまり記憶がない。ただ、この瞬間から、私のアイドルとしての道が絶たれた。16歳の夏の事。私は、この上無い絶望を味わってしまった。ああ、なんてかっこわるいの、私。



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