涙と痛みのプレリュード 





 けたたましい目覚まし時計の音で私の意識がゆっくりと現実に戻っていく。煩い…なんて小さくぼやきながら、重たい腕を伸ばして音を止めた。薄く開く瞳で現在時刻を確認する。朝の6時。もう起きて支度をしないと間に合わない。私はベッドの中で大きく伸びをして、あたたかな毛布から飛び出してカーテンを開けた。いい天気だ、今日も。窓から目を離して、私は壁にかけている制服に目を見やる。これまで着ていた制服のブレザーとは違い、爽やかな青色だ。私は今日から、別の道を歩み始めなければならない。あれから1年の時が経ち、夢ノ咲学院声楽科2年生に進級した私だったけど、家に引きこもり不登校生活が続いていた。ところが、その生活が突如一変。今日から新しい学科、プロデュース科の転科が決まり、新たにプロデューサーとして学んでいくこととなった。
 アイドル科以外は共学だったが、アイドル科は男子校。今年から新しく導入されることになったこのプロデュース科は来年から男女共学の本格始動となるらしく、今年度は試験的に転校生徒を取り入れ、結果や成果などを調べたいのだという。声楽科で歌を学んでいた私だったけど、あの生放送の事故以来、あまり学校に行くことが出来なかったことと、アイドルとしてメディアに出ていた経験も加味され選ばれることとなった。声楽科に通い続けたくても、心がぼろぼろになった私にはあの空間に足を踏み入れることは叶わなかった。そこに待ち受けていたものは地獄だったし、あの日以来テレビも歌も何もかも、怖くなってしまったのだ。辛くてたまらない毎日だったけど、だからこそ、この転科は私にとってある意味人生の転機かもしれないと思い、その申し出を受け入れたのだった。
 正直、あの日の事やいじめられていた時のことは、今でもフラッシュバックする。私はそれをかき消す術を、この引きこもり生活で手に入れた。部屋の机の引き出しを開くと、大量のお菓子ストック。私はその中で大好物のポテチスナックを取り出すと、朝食もまだなのに、ぼりぼりと貪りだす。食べていると、夢中になって嫌なことを忘れられる。咀嚼を繰り返して、嗜好を楽しんでいると、幸せな気持ちになれる。でも、食べ終わった頃、いつも後悔してしまうのだった。ああ、また食べてしまった、と。私はのっそりと姿鏡の前に立つ。輝かしかったアイドルの私の姿とはかけ離れ、醜く太ってしまった私。あれから、抱えきれないストレスのせいで暴飲暴食を繰り返してしまい、アイドル時代から20sも体重が増加した。けれど、ストレスの暴走は止まらなかった。もう、どこにもいなくなってしまった。アイドルのなまえは、消えてしまった。


「…こんな私、いなくなればいいのに…」


 私の小さな呟きは宙へと消える。1年前よりずっと重くなった自分の体を動かして、身支度を整え始める。所々で姿鏡に自分の姿が視界に入ると、怒りとも呼べない複雑な感情がかけ巡った。太ってしまったのは自分が招いた事だとはわかっている。けれど、現実を直視する勇気は持ち合わせていなかった。あの頃にいつまでも囚われたまま、このまま中身も見た目も醜くなっていくのだろう。今の私は、人生のどん底に落とされたも同然だ。ため息なんてついていられないのはわかってる。だって、私はプロデューサーになるのだから。変わらなくちゃいけない。出来ることなら、かつて笑顔で溢れていた、明るい自分を取り戻したいと思ってるのに。でも、それでも、私はプロデューサーになるという転機が訪れようとも、自身が変われるという風には今はとても思えなかった。
 あれから、予定よりだいぶ早く夢ノ咲学院に到着した。声楽科として学院に来たわけではないと頭ではわかっているのに、やはりどうしてもまだ心臓が緊張で震えてしまう。
 まず来たら職員室に寄るように言われているので早速向かった。その途中で、私は様々な不安を募らせていく。これから2年間、素人の私が、プロデューサーとしてきちんとやっていけるのか。男子生徒ばかりのアイドル科に馴染めるのか。声楽科の時のように、いじめにあったりしないだろうか…。考えれば考えるほどキリが無くて。その不安に耐えきれず私は、お腹も空いてないのに制服のポケットに入れていたソフトキャンディを一粒口の中に含んだ。甘い苺味が噛めば噛むほど口の中に広がって、少し落ち着きを取り戻す。全てをごくりと飲み込むと、またやってしまったと後悔する。いつもこうだ。心が不安定になるとすぐ食べ物に手を出す。私はどんどん醜くなる。なんてみじめなんだろう。まだここへ来て何も始まってすらないのに、なんだか泣きそうになって、私はその場で立ち竦んで両手で顔を覆う。こんなんじゃ、だめだ。だめなのに。自分が嫌でたまらなくてじわりと瞳に涙が溜まる。動いて、体。お願いだから。



「チッ…なんなのだね君は。通行の邪魔なのだよ、まったく…!」

「………!?」



 突如降りかかる声に私は驚く。そんな、まさか。今の声は。私はその声を、忘れたことなど一度もない。何度も何度も私の記憶の中で駆け巡ってきたものだ。恐る恐る、顔をあげてみると、目の前には思い描いた通りの彼が、眉間に皺を寄せながら私の前に立っていた。



「……!?きみは……」

「斎宮…宗、さん……?」



 私の人生最悪のあの日。私の出番の次だった、Valkyrieのリーダー、斎宮宗。私がここに来て、一番会いたくないと、思っていた人だった。



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