夏の蜃気楼



 蝉の鳴き声が騒がしい。湿気は肌にまとわりつくし、朝から容赦なく照らしてくる太陽は眩しくて、外にいるだけで疲れる。サイダー、アイス、クーラー、この辺がものすごく恋しい。
「出席取るぞー。阿部!」
 教室は節電の為とか言ってクーラー入れてくれないし、開け放した窓から入ってくるのは暑苦しい蝉の鳴き声ばかりで、風がちっとも吹いていない。恨めしい。せめて扇風機がほしくて、半透明の緑の下敷きで扇ぐ。
「井波!」
「はーい」
 名前を呼ばれて返事をしたものの、中年オヤジの神原先生はメガネをキラリと光らせ、「欠席」と一言つぶやいた。
「ちょっと!」
 当然私は講義する。皆勤賞がかかってるんだ、冗談じゃない。
「私ここにいますよー! ほら、井波です、井波由香でーす!」
「あーあーうるさい! 授業を妨害する気か? 出席をとってほしければ、実体で来なさい」
「げっ」
 バレてる。なんで。完璧なのに。自分の肉体を離れた幽体の「私」は、見えるし触れるし五感だってちゃんとある、質量を持った「私」そのものなのに、なぜこの先生にはバレるのか。
「先生、堪忍してくださいよー。めっちゃ寝坊したんです。幽体でもちゃんと来てるし授業聞くし、皆だって見えますしー」
「仕方がない、消えたらしっかり早退扱いだからな。腹が減っても我慢だな」
 死刑宣告にも等しい言葉に「えー、そんなぁ」と大げさに項垂れて見せた。そう、腹が減ってもこの身体ではご飯が食べれないのだ。
「当たり前だ!」
 年相応に皺の刻まれた神原先生は、ぽっこりお腹がかわいらしい。その上で理論的に厳しくて、面白くて、優しくて、物知りで、皆の人気者なのだ。
 欠席を取り終わり連絡事項の伝達に移る先生の手には、クラスの人数分の上質紙があった。
「今から進路希望記入用紙を配るからな」
「げえー」
 まだ一年の一学期なのに早すぎ! と抗議する生徒をよそに、「夏休みに入るまでに提出しろよー」と先生は他人事。幽体の私は、プリントを机の中に入れたまま、消えるように意識を肉体に戻した。
 進路って何? なんでこんなに早く、将来のことを決めないといけないの? 学校の先生は、高卒と大卒の生涯給料の比較なんか見せて、私たちを脅してくる。でも、それでやりたいことなんか決まる訳じゃない。夢を持てと言って、その夢をさっさと決めさせて、手当たり次第に決めた夢が叶わなくたってどうせ責任なんかとってくれないのに。

 夏休みなのに課外授業があるなんて、本当にダルい。実体で来るなんて馬鹿げている。通学時間がないだけでも、ものすごく快適。でもやっぱり神原先生にはいきなりバレちゃって、職員室に呼びだしを喰らった。怒られるのは面倒だけど、クーラーが効いてる職員室は好きだ。
「説教は聞きませんよー。別にいいじゃないですか、誰にも迷惑かけてないし」
「そうやっていつも幽体で来るから、机の中にプリントがたくさん溜まってるだろう。おまえだけだぞ、進路希望出してないのは」
「だって白紙だもん、出せませんよ」
 ピラリと神原先生の前に、自分の名前しか記入していない件の紙をひらめかせた。
「夢とかないのか?」
「ありませーん。大学行って学びたいことも特別ないし、将来やりたいこともないし。やりたいことがハッキリ決まってて勉強めっちゃ頑張ってる子、本当にすごいなーって思います」
 進路希望の紙を忌々しげに四つに折りたたむ。神原先生は困ったように笑った。
「そうだな。先生もそう思う。だが井波、井波はそれを自分で分かってるじゃないか。理想論かもしれんが、そういう人間は、いつでも何にでもなれると思っているんだよ。今はまだ、それは白紙でいい。だから今日この瞬間から、選択肢を一つでも増やせるようにしなさい。大事なことだ、決断を急ぐ必要はないからね。そうやって周りに流されないところは、井波のいいところだ」
 遺言に聞こえなくもない。そこが少しひっかっかったけれど、神原先生らしいとも思い、私は口角を上げた。
「じゃあ先生、白紙のまんま出してもいいですか?」
「受け取ろう。だが、次来るときは実体で来てくれよ」
「へへ、分かりました」
 先生は相変わらず苦笑いをしていたけれど、私を非難したりはしなかった。私は折りたたんだその紙を、先生にそのまま手渡した。

 でも始業式の日に教室に来たのは、ぽっこりお腹の神原先生ではなかった。
「突然ですが、皆さんにお伝えしないといけないことがあります」
 若くて初々しさの残る新任教師の角谷先生が、とても悲しそうに始めた。その内容に、私は衝撃を受けた。角谷先生の唇の動きに声が付いてこない。世界が一瞬だけ、全ての音を失った。そう、私は角谷先生の言っていることが脳内で処理できずにいたのだ。
「このクラスの担任をしていた神原先生は、先日の夏期講習の後、ご親族に不幸があって、急遽教員をやめることになりました」
 そんな。そんな馬鹿な。進路希望の紙を提出したときは、そんなことはおくびにも出さなかった。普通にいつも通り、ありがたい言葉をくれた。また会うことを疑っていなかった。朝起きたら布団の中にいるように、全く疑っていなかったのに。こんな、こんなに突然、もう会えないのだと突きつけられるなんて、本当に、晴天の霹靂ってやつだ。いや、もしかしてあの時のあれは予兆だったのだろうか。それじゃあ本当に遺言じゃないか。新学期だからけだるいのも我慢して実体で来たのに、これじゃあ無意味だ。
 私、まだ先生とたくさん話したい。技術的なものも勿論、教えてもらってないことがたくさんある。私は先生から教えてもらいたい。なのに、こんなに突然――こんなのって、あんまりだ。
 それからは不調続き。神原先生のいない学校へわざわざ実体で行く必要なんてないのに、いつものように実体と幽体を分離することができずに、私は仕方がなく、重たい身体を起こして、重たい足を動かして学校へ行った。幽体なら歩かなくても一瞬で学校に行けたし、こんなにけだるくなんかなかったのに。
「つまりこの場合、xに代入するのは――」
 先生の声が遠い。もともと理解できなくてあきらめた数学の授業なんて、睡眠薬のようなものだ。関数なんかどうでもいい。xとかほんと、真面目にどうでもいい。どうでもいいから、神原先生に会いたい。会いたい。会いたい……。

 ツクツクホウシの声が聞こえる。夏の終わりを実感する、寂しい声だ。気がつくと私は開けた場所にいた。まだ強い日差しを遮るようなものは、申し訳程度の電柱と電線以外はほとんど何もない。狭い道を挟んで、青い田んぼが段々に広がっている。その奥には低い山がある。
 数学の授業を受けていたはずだけれど、実体を離れてここまで来たのだ。まだ湿気を含んだ風が髪とスカートの裾を揺らす。ここはどこの田舎なのだろう。なぜ私はここにいるのだろう。その疑問は、後ろから聞こえた軽トラのエンジン音と、聞き慣れた声で、一瞬で解決した。
「井波?」
 振り返ると、教師の面影など微塵も感じられない、麦わら帽子の農夫の姿がそこにあった。
「こんなところまで来たのか、わざわざ。どうしたんだ?」
 それは私の台詞だ。そう言いたかったけれど、そんな言葉よりも、自分の気持ちの方が溢れて止まらない。
「先生に会いたかったんです。あんな風に、別れの挨拶もできずに突然会えなくなるのは、やっぱりものすごく嫌です」
「すまんな。それで、そんな姿で会いに来てくれたんだね」
「どうして先生、私が幽体だっていつも分かるんですか?」
「そりゃ、かわいい教え子だからな。……いや、本当は幽体と実体の見分けなんてついていないよ。ただ、夢や心だけが時や場所を超えることができるから。思うところに行くことができるから。だから、こんな辺鄙な田舎に井波が会いに来たのは、幽体だと考えるのが一番自然だ。それに、幽体の井波はいつもよりもずっと身軽だからな」
 先生は笑っている。学校で見たどんな笑顔よりも、ずっと穏やかな笑顔だ。
「実体だったら、手土産にサツマイモでも持たせたんだがな」
「そんなの、いりません。先生、学校に戻ってきてはくれないんですか?」
 駄々をこねる私に学校で過ごした日々を重ねているのだろうか、先生は遠くを見る目をした。
「そうだね、突然みんなと会えなくなったのは本当に淋しいが、俺が戻ることはないだろう。ここから学校はものすごく遠いからな。すごいぞ、井波はこんな遠いところまで会いに来てくれたんだ。たった三か月の間だったが、そこまで慕われて、教師冥利に尽きるな」
 先生の笑顔が、田園風景が薄くなっていく。いや、消えているのは、幽体を保てなくなった自分だ。嫌だ。嫌だ。待って、せめてあと少し。
「お別れの時間が来たみたいだな。井波、実は突然の別れというのは、そう珍しいことではない。こうして再会できたのは、奇跡に等しいことだ。そのことを忘れずに、ひとつひとつの出来事を大切に生きていってほしい。さよなら、井波」
 別れの言葉。分かってはいた。それを求めていたのに、涙が溢れて止まらない。自分からも言わなければ。言わなければ、何も伝わらないのだ。
「さようなら、先生。どうかお身体に気をつけて」
 言い終える前に、先生は消えてしまい、私は元いた教室に戻っていた。目覚めた私の頬を、目尻からの涙が伝っていた。

 それから、何度試しても、どうやってみても、意識を飛ばすことができなくなった。もしかしたら、先生がいたからかもしれない。
 太陽は相変わらず眩しいけれど、私に安らかな眠りをもたらした。


(20170319)
おっさん×少女アンソロジー2『歩みを寄せて』提出作品


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