春を待つ



 病弱だから、家から出てはいけません。ずっとそう言われ続けたユリは、今日も例外なく家にいた。一緒に遊ぶ友だちはいないし、母親も忙しいからと相手をしてくれない。そんなユリの楽しみは、本を読むことと、それから――。
 チリンチリン、と、来客を知らせる小さな鐘が鳴った。ユリは目を輝かせて、急いで大きな窓に駆け寄り、勢いよく扉を開けた。上気した頬に冷たい外気が心地よい。余程嬉しいのだ。
「はい!」
「こんにちは、ユリちゃん」
 扉の外にいたのは、爽やかな笑顔が素敵な青年。彼は肩に掛けている大きな革のカバンから手紙を取りだし、「お父さんからだよ」と言ってユリに手渡した。ユリはお礼を言って受け取った。
 青年は郵便屋さんなのだ。定期的にユリの家に来ては、単身赴任の父からの手紙を届けてくれる。
「ねえカタリ、今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
「そうですね、では隣の王国のお話をいたしましょう」
 そう、ユリのもうひとつの楽しみは、郵便屋さんカタリの話を聞くことである。仕事柄色々なところに行っているし、色々なことを知っているカタリのお話は、少女の好奇心をくすぐるのには十分だった。だからユリにとっては、三ヶ月に一度カタリと会うのが、何よりの楽しみなのである。ちなみに、カタリという名は彼の本名ではない。ユリは何度も尋ねたのだが、いつも曖昧に笑うばかりで、答えてくれなかった。だからお話の語り手として、ユリが勝手にそう呼んでいるのだ。
「ねえカタリ、次はいつになる?」
「そうですね、春になったらまた来ます。ああ、これをどうぞ」
 ユリがそう言ったカタリから渡されたものは、球根だった。ユリは首を傾げてカタリに尋ねた。
「これは?」
「チューリップの球根です」
「あ、知ってる! 赤や白や黄色の花が咲くのよね」
「童謡ですね。他にも桃色や紫を見たことがあります」
「これは何色のお花が咲くのかな?」
「咲いてからのお楽しみです」
「じゃあお庭にチューリップを植えて、カタリを待つわ。カタリが来る頃には立派に咲かせてみせるから」
 球根を眺めながらユリが勇んで言うと、カタリは目を糸のように細めた。
「楽しみにしています」

 いつものようにカタリを見送って、ユリはすぐに、広い庭の角に球根を植えた。毎日大切に世話をした。やがてぽかぽかと暖かくなり、チューリップは鮮やかな赤い花を咲かせた。
 しかし、カタリは来なかった。
 もしかしたら少しだけ遅れるのかもしれない。郵便屋さんの旅は危険だと聞いたことがあった。
 ユリは待った。チューリップのことを忘れず、カタリを待った。けれど三度目の春を迎えても、カタリは来なかった。いや、カタリが来なければそれは春ではない。

 そんなある日、ユリの耳に鐘の音が響いた。ハッとしてユリはあの窓に駆け寄った。
 カタリかもしれない。三年ぶりに来てくれた。そんな期待を胸に窓を開けた。しかし、そこにいたのは爽やかな笑顔の青年ではなかった。
「こんにちは」
 とても柔和な笑みで、目尻に皺を深く刻んだ老人だった。老人の手には手紙が握られていた。ユリは不信感を露にしながらも、小さく「こんにちわ」と返し、手紙を受け取った。
「カタリは?」
「カタリ? はて……」
「前にここに来てた郵便屋さん」
「おお、サキのことか」
 サキ。カタリの本当の名前。納得できたのは、見事に咲いたチューリップのおかげかもしれない。
「そう。その人。ずっと待ってるのに、来ないの。春になったら来るって言ったのに、もう三回も春が来たのに、カタリは来ないの」
「ずっと待っておられたのですか。それは申し訳ないことをしましたな。サキはな、旅の途中で事故に遭ったのです」
 ユリは目を見開いた。
「それでカタリは――」
「見つけた時には、もう手遅れでした」
「そんな……」
 カタリはもう来ない。ユリに会いに来ることは、二度とないのだ。
 老人は何も言わなかった。初めは嘘だと思おうとしたが、沈黙の中で、だんだんと信じざるを得なくなった。
「お手紙を待ってたんじゃないの」
 ポツリ、と少女は言った。
「お手紙も楽しみだった。でもそれ以上に、カタリのお話が楽しみだったの」
 病弱な少女の、唯一の話相手だった。見たことのない異国の話も、民謡も大好きだった。全部本を読んで知っていたけれど、カタリに話してもらうのが好きだった。カタリが大好きだった。
「チューリップが枯れてしまっても、ずっと待ってた」
 老人の姿がぼやけて、手元の手紙がポタリと音を立てた。泣いているのだとすぐに分かった。
「三年前――」
 老人の声に、ユリは顔を上げた。
「サキは三年前、死の間際、お前さんのことを案じておりました」
「カタリが?」
「家から出られず、同年代の友人もいない。ずっと部屋に閉じ籠ったまま、自分の物語を楽しみに待っていてくれるが、それで大丈夫なのかと」
 ああ、泣いている場合ではないのだ。ユリはそう思った。死後もカタリに心配をかけるなんて、安心して眠れないかもしれない。だから、ユリは涙を拭った。
「ありがとう、おじいちゃん。私、頑張る。サキの言葉があれば頑張れる」
 ユリがにっこりと笑えば、老人は目尻の皺をいっそう深くした。
 たくさん遊んで、たくさん冒険して、たくさん友だちを作ろう。サキと再会した時、笑っていられるように、「素敵な女性になった」と言われるように、頑張ろう。そして、自分の力で春を呼び寄せるのだ。


(20120224)
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