内緒話



 手先足先が冷たい。肌に触れる空気がひんやりとして、自分が吐く息も白く、視覚からも触覚からも、とても寒いのだと思った。真っ暗な夜空を見上げても、星なんてほとんど見えない、それくらい夜の街明かりは明るかった。いろんなところから空腹を促すようなにおいが嗅覚を刺激して、客引きの声が否応なしに耳に入る。そろそろお腹が空いたな。そう思いながら一緒に歩くお母さんの顔を見上げると、お母さんはどこか嬉しそうに笑っていた。
「この季節にこの道を通ると、思い出すわね」
 お母さんのこの台詞に、私はきょとんとした顔を向けた。
「何を?」
「お父さんにプロポーズされた日のこと」
 そう言えば、今までそんな話を聞いたことがなかった。今でも、自分でも分かるくらい夫婦仲がいい両親だが、出会った時の話だとか、結婚する時の話だとか、そんなことはこれまで聞いたことがなかった。幼い私に話しても分からないだろう、それが本音だろうけれど。
「あの日もね、こんなに寒かったの」
 ああ、あそこよ。そう言ってお母さんが指差したのは、飲食店街を突っ切るように走るバスの、バス停だった。
「あそこで待ち合わせをしてね。バスの時間、伝えてたんだけど、やっぱり遅れちゃって、でも定刻前から来てたのよ。お父さんったら、鼻を真っ赤にしててね」
 私の知らない二人の思い出を思い出しているのだろう、お母さんはくすくすと笑っていた。
「別にクリスマスでもなんでもないのに、一張羅のスーツ着て、頭パリッと決めてさ、それで手には、真っ赤なバラの花束なんて持ってたのよ。格好つけちゃって」
 お父さんのそんな姿を想像したら、確かに面白かった。仏頂面のお父さんが、トナカイさんみたいに鼻が赤くて、必要以上にびしっと決めて、似合わない花を抱えているところを、想像できてしまったのがおかしかった。
「あれでも、あの頃はまだ可愛げがあったのよ。それでね、あのお店に入ったの」
 言いながら、お母さんはくたくたになったような赤い暖簾をくぐった。私も入った。中はこじんまりとして手、結構むさくるしいおじさんが二三人、いた。でも、その中に私のような子どもも交じっていた。私の鼻には、豚骨スープの独特のにおいがした。お腹がすいてるから、それだけで口の中がよだれでいっぱいになった。私たちはカウンター席に座って、早速メニュー票を手に取った。
「さ、どれにしよっか」
「私、普通のラーメン。あと餃子も食べたい」
「そんなに食べれるのかな?」
「食べれるもん」
 お母さんが店員さんを呼んで、ラーメンを二杯、餃子を一皿注文した。私はお母さんを見上げて、「それで?」と話の続きをせがんだ。
「そうそう。このお店にね、その格好のまま入ったの。おかしいでしょう? で、私とお父さんは普通のラーメン頼んでね、お父さんは更にチャーハン頼んだのよ。それで、先にペロッと食べて、じゃあそろそろ帰ろうか、なんて話になった時、突然お父さんが、『俺と結婚してくれ』って言ったの。言いながら、やっとバラの花束くれたのよ。まあ、プロポーズされるんじゃないかなとは思ってたけどね。びしっとしてたり、バラの花持ってたりしてたら、流石に分かるわよ」
 お母さんが楽しそうに話している間に、「お待たせしました」とカウンターの向こうからお店の人がラーメンを出してくれた。いただきますと言って割り箸を割ったけれど、うまく割れなかった。
「こんな風に店員さんが正面でしょう? なのに勢いよく言われたから、恥ずかしくてねぇ。だから、その時受け取ったバラの香りも良かったんだけど、どうもこの豚骨のにおいの方が印象に残っちゃったのよ」
 ひとしきり笑って、お母さんもようやく箸を割っていただきますと言った。
 それからは二人で無言になって、一生懸命ラーメンをすすっていた。耳に入るのはラーメンをすする音。食べながら、なぜだかラーメンが二人を繋ぎ、私を生んだのだと思うと、ちょっぴり変な気持ちになった。
 そして最後にお母さんは、ピンと立てた人差し指を自分の唇にあてて、こう言った。
「あ、これお父さんには内緒ね?」
 初めてお母さんから言われたプロポーズ話、面白い格好のお父さん、そして初めて共有した秘密。結局、この豚骨スープのにおいは、私にも忘れがたいものになってしまっているのかもしれない。


(20120304)
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