遠い昔、鳥だった頃



 身体が重い。地球は月の六倍もの重力を有しているからか。スペースシャトルの窓の外には水色の世界がどこまでも広がっていて、あちらこちらに白い綿が浮かんでいる。
『セアラ、もうすぐ地球の宇宙センターに到着します』
 窓の外を眺める私の側で、ヒト型アンドロイドが女性の機械音声を発する。私は軽くうなずいた。
『セアラ、心拍数が上がっていますが、興奮しているのですか?』
「興奮、してるかもね。ドキドキはしてる。重力は大きいし、きっと月みたいには動けないわね。やっぱりペティを連れてきて正解だったわ」
『お役に立てて光栄です』
 ペティはただ一体、身寄りのない私の側にいてくれる女性型アンドロイドである。見た目にはアンドロイドと分からない彼女は、私の身の回りの世話をしたり、搭載している簡易的なデータベースを頼りに、私のちょっとした疑問に答えたりしてくれている。
地球行のシャトルに乗る前に、ペティのデータベースや月の資料館で地球のことを少しは調べた
から、鼓動の高鳴りは確かに好奇心による興奮なのだろう。
 ただ、地球の大気圏に入って真っ先に感じたのは、重力。それは、頭痛や吐き気、めまいなどといった形で襲いかかってきた。普段感じている重力の六倍というものは、私にはとても辛かった。これでは月から持ってきた荷物も満足に持てない。ペティがどれだけ耐えられるのかは分からないけれど、ペティがいなければ地上での移動も絶望的だ。
 それだけにもうひとつ心配事がある。それはペティのショートだ。地球は季節によって湿気がすごいらしいし、雨も降るらしい。私は白い綿からバケツを返したような水が落ちてくるところしか想像できないから、それがとても恐ろしい。ペティがショートしたら私は月へ帰れないだろう。それは嫌だった。
『本日も、スペースシャトル・オデッセイをご利用いただき、誠にありがとうございました。当シャトルは、アメリカMASA宇宙センターに到着いたしました。お降りの際は、重力とお忘れ物に十分ご注意ください』
 到着を知らせるアナウンスと共に、シートベルトを外す。荷物をペティに持たせてシャトルを降りても、解放感は全く感じられなかった。それもこれもすべては重力のせいだ。
 到着ロビーには、久々の再会を喜ぶ家族や、観光客を待つ旅行会社の人など、オデッセイを降りた以外の人たちで賑わっている。突発的な旅を始めた私にそんな待ち人がいるはずもなく、私はその光景を眺めながら、ペティとロビーを通り過ぎて行った。
 シャトルに向かう清掃スタッフとすれ違う。その中に、不安げな顔で、たどたどしい動きの女
性がいた。まだ慣れてないのかな。新人の子なのかな。そう思いながら見ていると、女性はつま
づいて、持っていたバケツをぶちまけた。しかも、水が思いきりペティにかかった。
「きゃっ、もっ、申し訳ございませんっ!」
 頭が真っ白になった。雨でも湿気でもなく、ペティがショートするのだろうか。
「大丈夫、大丈夫。あなたこそ怪我はない?」
「私のことより、お連れ様が――」
「大丈夫だから――」
 女性が必死に頭を下げる。そんなことよりも、ペティのことが心配で気が気でなかった。水をかぶってから、ペティは何も言っていない。少しだけおかしな挙動をして、それから動いていない。そうこうしていると、責任者っぽい人が私のところにやってきて、深々とお辞儀をした。
「大変申し訳ございません。そちらのアンドロイドの修理代はこちらで負担いたしますので、修理後こちらにご請求ください」
「ええ」
 仕方がないわよ。だって新人さんだし。私やペティで良かったのよ、コワいおじさんじゃなかったんだから。いや、それでも、私は地球に来たばかりで、荷物も持てないし、地理も分からないし、好奇心どころの話ではなかった。責任者っぽい人の話を受け流しながらその場を離れて、
私は半ば放心状態で彷徨っていた。すると若い男性が私に声をかけてきた。
「どうしたの、絶望的な顔をして」
 声をかけられて、そんなにひどい顔をしていたのかと、私は苦笑いを浮かべた。
「連れてきたアンドロイドがショートしてしまったの」
「ん、月から来た?」
「ええ」
「ホテルは?」
「それが、全部ペティ任せだったから、分からないのよ」
「なるほど。ペティってのはそのアンドロイドのことだな。データ、確認してもいいか?」
「いいけど、できるの?」
「できるさ。少しだがメカに詳しいんだ。こいつを直すのは無理でも、データさえ破壊されていなければ取り出すなんて朝飯前さ」
 私はへぇ、と感心しながら、彼の作業を見つめた。彼はペティの頭部を開き、そこから小さなメモリーチップを取り出した。それを自分が持っているタブレット端末に差し込み、情報を開示する。
「えーっと、今日は十月二十一日だから、これかな。よし、ビンゴ。ステーションホテルだ、ここから近いぞ。場所、案内するか?」
「お願いできるの? でもお金払わなきゃいけないんでしょう?」
「それくらい別にいいよ、暇だから。困った時は、地球人だろうが月のヤツだろうが関係ないだ
ろ」
「そっか。ありがとう。私はセアラ。あなたは?」
「俺はレイモンドだ。レイでいい」
「レイね。荷物も持ってもらえないかな? 私、持てないの」
「え?」
「ごめんなさい、月から持ってきたものが地球に来ていきなり六倍になって、環境にも慣れてないし……」
「じゃあどうして地球に来ようと思ったんだ? 重力で動きづらくなることも分かってたんだろう?」
 荷物を持つどころか、歩くことすらままならない私に、レイは呆れたように尋ねた。尋ねつつも、彼の肩には私のカバンがしっかりとかかっている。
「別に、ここに来たいと思ったから来たのだっていいじゃない。強いて言えば好奇心よ。地球のこと、知りたかったの。ペティのデータベースや月の資料館じゃ納得がいかなかったから」
「何が?」
「夢」
 私はレイの黒い目をじっと見つめた。
「夢を見たの。鳥になって空を飛ぶ夢。私は両腕をこう、上下に動かしてて、周りにも同胞がたくさん飛んでる、そんな夢」
「そんな夢で地球に?」
 レイがゆっくりと歩きだしたので、私もそれに倣った。
「そうよ。そんな夢だなんて言わないで。私はそれまで鳥なんて生き物、知らなかったのよ。人は知らないものを夢に見るなんてことないわ。だからペティに相談したら、先祖だか過去生だかなんだか知らないけど、とにかく“私”よりはるか昔の記憶だって言うじゃない。私が月で生まれ育った人間だっていっても、祖父母は地球人だったんだから、不思議じゃないって。それに、夢に見た空は綺麗だった。だから興味を持ったのよ。これで納得できる?」
「あ、ああ、まあ」
「何よ、煮え切らない返事ね」
 勿論、全てを話したわけではない。私の記憶の根底にあるもの――それは美しく広がる水色の世界でも、そこに浮かぶ白い雲でも、辺りを飛ぶ同胞でもなく、私の胸の奥深くにうずくまる、淋しいという感情だ。そして、そんなことを会ったばかりの彼に教える必要なんてものはないのだ。
「ここだ、ステーションホテル」
「親切に、どうもありがとう」
「つまりあんた、夢に見た同胞を捜しに来たんだろう? 空はもう見てるもんな。あんたの言葉だけじゃ分からないけど、明日動物園にでも連れていくよ。そしたら何か分かるかも」
「本当?」
「本当だよ。九時でいい?」
「いいわ。あと、ペティを直せるところを知らないかしら」
「月に返した方が確実なんじゃないか?」
「それで地球に送り返すことになったら、怒るわよ」
「その時はその時さ。俺だってその辺の月事情は分からないからな。じゃあ明日九時に、ホテルのロビーに迎えに行くよ。荷物はホテルマンにでも持ってもらえばいい」
「ありがとう。じゃあ、明日」
 レイを見送りながら、取り残されることに不安を覚えた。だって、ペティが側にいない夜なんて、ペティが私の許に来て以来だ。今はレイと話していたから、不安を紛らわすことができていたのだ。

 夢を見ている。青い空を飛んでいる夢。月で見た夢。白い雲が浮かんでいて、私はそこを飛んでいる。周りには多くの同胞たち。だけどこの間とは違う。曖昧な淋しさじゃなくて、私は確か
に他の同胞たちに後れを取っていた。このままはぐれてしまったら、生きてはいけない。必死に
はばたくけれど、追いつけない。焦って、声を上げて、現実で目を覚ました。
 ああ、どうしてこんな夢を見るのだろう。ペティがいないからだろうか。昨夜のうちに、レイに言われるがままに月に送り返した。動かないペティがいても荷物になるばかりだし、孤独感は埋められやしないから。瞬きをすると目尻から涙が落ちる。それを拭いながら起き上がり、レイとの約束の時間を確認して準備を始めた。
 ホテルのロビーに行くと、レイがすでに待っていた。
「おはよう」
「おはよう。早いな」
「ええ、楽しみだったから。そっちこそ早いわね」
「遅れるよりはいいだろ。揃ったんだから行くか」
「そうね」
 その日も空は青く晴れていた。雨を避けるための傘がいらないからありがたい。今の私では、傘さえ持てるか分からないから。
 動物園に到着して、最初に赤が鮮やかな大型の鳥に出迎えられた。鳥は大きなくちばしで「こんにちは」などと言っている。
「あの鳥、ヒトの言葉が分かるの?」
「違うよ。教えられているんだ。あの種類は、器用な舌を使ってどんな音でも真似てみせるんだ
ってさ。だから実際に会話はできないよ」
「そうなんだ」
 動物園の中には、毛むくじゃらの生き物がたくさんいる。レイはそれを一匹一匹丁寧に教えてくれた。分からない動物もいたようだけれど、それに関してはタブレット端末で調べたり、近く
の飼育員を掴まえて尋ねたりしていた。
 鳥もたくさんいた。脚が長くて優雅な鳥や、高い声の小さな鳥、重量感のあるフクロウに、下あごが大きな鳥――たくさんいたけれど、夢の景色とはどれも程遠かった。
「ピンと来ない?」
「うん。なんだか違うみたい」
 違いはない。だって羽が生えていて、人間でいうところの腕に当たるところをせわしなく動かして空を飛ぶのだ。だから鳥は鳥なのだ。けれど、この違和感はなんなのだろう。
 考え込みながらレイの後ろを付いて行くと、広場でレイが立ち止まった。
「どうしたの?」
「鳩が群れてる。皆が餌をやるから、味をしめてるんだ」
 レイの視線の先には、灰色の鳥がいた。
「あれが鳩というの?」
「そうだ」
 鳩というトリは、私が近づくと足元から一斉に飛び立った。
 私はこの光景を知っている。どこ? いつの記憶? シャトルの立体映像だろうか。それとも月のデータベース? 月で見た空の夢? 違う、もっと昔、ずっと昔――。
 一面が青い世界で白い綿の上を飛んだ記憶がある。夢でも立体映像でもなく、古い古い記憶。
 地上から離れて風を受けながら飛ぶから、体感的には少し寒い。けれど、自分がはばたくからか少し暖かい。地球の重力に逆らって、気流に身体を委ねて、他の仲間たちと空を飛ぶ。弱い個体が身を守るために、本能で群れている。私はその群れの一員だった。
 記憶をたどる。私に眠る、空の記憶。それは体感した大気の記憶から、次第に淋しさや、痛みや、恐怖へと変わっていった。
「セアラ? 顔色が悪いけど、大丈夫?」
 ハッとして顔を挙げると、レイが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫。心配かけてごめんなさい」
「いや、本当に大丈夫ならいいんだけど。歩ける?」
「大丈夫よ、それくらい」
「朝から歩きっぱなしだから休憩は必要だ。しかも慣れない地上だし。そこのベンチに座りなよ。飲み物買ってくるから」
「ありがとう」
 興味本位で地球に来たのはいいけれど、ペティはショートするし、何より、過去生の記憶が鮮やかになるほど、苦しくなる。
 レイが持ってきた飲み物を受け取る。とても重たくて飲みづらいけど、喉が渇いていたから丁度良かった。
「思い出したわ、レイ」
「何を?」
「私、昔は鳥だったのよ。ほら、前世とか過去生とか言うじゃない。あれ」
「前世の記憶があるのか?」
「うん。あるっていうか、思い出した。私は、個体としてはとても弱かった。私の種はもともと弱かったけど、その中でもとりわけ弱かったの。だから淘汰されていく。弱い者は、自然の中では生きてはいけないもの」
 飲み物をベンチに置いて続ける。
「捕食される瞬間を思い出したわ。とても怖かった。突然目の前が真っ暗になったし、全身がも
のすごく痛かった。でも、同時に安らぎも覚えたの。だって、これでもう仲間の足を引っ張らなくてすむ。外敵に怯えなくてすむ。なにより、孤独を感じなくてすむもの。だから、私にとって淋しさは懐かしくて、残酷なんだわ。本当は今だって、月でたったひとりで生きていくなんて、私にはできない。ペティがいたから生きていられたの。全部プログラムでもいい、感情も血も涙もなくたっていい。私にはペティが、ペティだけが救いだった。だから今、不安で不安で仕方がないのよ」
 淋しい。淋しい。淋しい。そればかりが頭を埋めつくす。
 前世では、ひとりじゃなくても孤独だった。現世では親族が皆死んでしまって、天涯孤独の身
である。そんな私にとって、ペティの存在がいかに大事だったか、ペティにどれだけ救われていたか――失ってからじゃないと分からないなんて、腹が立つし、悲しい。
「地球になんて来なければ良かった。そしたらペティは壊れなくて済んだし、私も前世のことなんか思い出さなくて済んだのに」
 ――こんなに苦しまなくて済んだのに。
「でも、セアラは前世のことが知りたくて来たんじゃないか。そりゃ、最初は前世って分からなかった。月で見た夢だけが頼りだったかもしれないけど、求めておいて思い出さなけりゃ良かっただなんて、そんなのは身勝手だ」
 そんなの理不尽だ。だってこんなに辛いのに、そんなにひどいことを言うなんて。そう思いな
がらも、彼こそその理不尽さを感じているのだと思った。知るという選択をした以上、私は受け止めなければいけないのだ。この悲しい過去生の記憶も。ペティが壊れてしまったことも、孤独感も、全て現実なのだから。そして、オデッセイに乗っていた時の胸の高鳴りだって本物だった。

 それから一週間、帰りのシャトルのチケットの予約の日まで、レイは色々なところへ連れて行ってくれた。過去生の悲しみも、ペティがいない孤独感も完全には埋められないけれど、少しは和らいだかもしれない。それは慣れだったのかもしれない。そんなことはもうどうでもよかった。バケツから水が落ちるように降るのだと思っていた雨も勘違いだと分かった。
「レイ、ありがとう。もっと地球にいたいけど、ここでは暮らせないから」
「分かってる」
「また会えるかな」
「会えるさ、多分。その時は、俺が月に行くから、月のこと教えて」
 そんな会話をして、検査場に向かった。
 月に向かうシャトル・オデッセイに乗って思い出すのは、青い空と白い雲、少しの淋しさ、そして不思議な予感。もし因果というものがあるのならば、私はきっと彼と会っている。遠い昔、鳥だった頃に。

(20141124)
『よりどりみどりに鳥』寄稿作品


戻る

.copyright © 2011-2023 Uppa All Rights Reserved.
アトリエ写葉