刹那のアブソリュート



 どこまでも果てしなく広がる宇宙の真空の闇に、点々と白い星が浮かんでいる。近くには地球。上や下などといった概念のない空間に揺れる。じっと耳を澄ましても何も聞こえない。ただただ無音。真空間で、無重力。ただそこに存在するということができるのは、宇宙開発が進み、宇宙観光ができるようになったからだ。

『タイムアウトです、アッカーさん。クルーが回収しますので、ドッグへお戻りください』

 イヤホンからオペレーターの女性の声が聞こえた。もうそんな時間か。宇宙空間にいると、つい時間を忘れる。通話用のボタンを押して、「了解」と答えた。宇宙服に繋がれたケーブルが引っ張られていく。

 小さなエアドッグの扉が閉まる。もう一枚の扉をくぐり、室内に酸素満たされる。

『お帰りなさいませ、アッカーさん。クルーがスーツをはずしますので、そのままでお待ちください』

 本当は何度も何度も、両手でも足りないくらい見ているので、いい加減脱ぎ方は分かるけれど、面倒なので指示に従う。薄着のクルーが更に奥の扉からやってきて、ヘルメットをはずし、大仰なスーツを脱がせ始めた。宇宙に出るのだから、それだけの強度と機密性は備えている。それだけに蒸れるため、脱いだときの爽快感というか、この涼しさは心地よい。空調は整えられているものの、汗で前髪が額に貼りついて、どれだけ汗をかいていたかがよく分かった。

 一連の作業が終わり、着替えて奥の扉をくぐる。フロントのオペレーターが俺を出迎えた。

「アッカーさん、お疲れさまでございます」
「ありがとうございます」
「ご気分が優れないなどといったことはありませんか? 頭がふらふらするとか、頭痛がするとか」
「特にありません」
「それは良かったです。では、お気をつけてお帰りください。またのご利用をお待ちしております」

 受付の案内係に手を振り、遊泳ステーションを後にした。



 地球の海でスキューバダイビングを楽しむように、宇宙でもまた、ただ浮かんだり泳いだりする宇宙遊泳を楽しむプログラムの人気は高い。

 遊泳中はステーションと宇宙服を太いケーブルでつながれており、宇宙の彼方に飛ばされるような心配はない。そう、俺たちの遊泳範囲は、ケーブルの届く範囲なのだ。デブリが飛んでくる時間はきちんと記録されており、観測されれば宇宙遊泳はおあずけだ。初めて宇宙遊泳をする人間にはオプションで遊泳インストラクターをつけることができる。右も左も分からない宇宙で動き方を覚えるのは、遊泳を楽しむ基本だ。

 俺はこのステーションの宇宙遊泳プログラムの常連で、スタッフにも顔を完璧に顔を覚えられている。インストラクターなどいなくても俺は自由に遊泳できるが、最近はほとんど何もせずに浮かんでいるだけだった。インストラクターの音声も聞きたくない。ただ無音の真空間に身を委ねていたいのだ。そうすると、どこからか聞こえてくる気がする。感じられる気がする。確証はないけれど、小さい頃に見たおぼろげな顔しか覚えていない、遠い星で死んだ父親のことを。

「ただいま」

 月面居住区の自分の家の扉を開けると、モニターを見ながら柔軟体操をしている母が、よく分からない体勢のまま答えた。

「お帰りなさい、リチャード。飽きないわね、しょっちゅうふわふわ浮いて」

 母の厭味は聞き流し、「そうだね」と軽く答えた。あだ名で呼ばない時は大抵厭味なのだ。

 数年前、故郷アメリカで大学を卒業して、俺は月の企業に就職した。現在住んでいるこの家は社宅なのだ。就職するなら宇宙だと、ずっと前から決めていた。俺の財布には常に、父の手紙が入っている。

 それを手渡したのは母だ。ほとんど顔を知らない父の訃報に悲しむ母から手紙を受け取り、母と共に地球を離れることを決意した。母を連れてくることは躊躇ったけれど、俺と一緒に居たいという強い要望を受けて連れてきた。

 母の気持ちは理解できないではなかった。父親のように、俺まで宇宙に魅せられて帰らぬ人となったら――そう思うと気が気でないはずだ。だから内心、俺が休日の旅に宇宙遊泳に出かけることを良く思っていないだろう。だが俺は、宇宙遊泳を止められない。止めるときがあるとすれば、それは父を追いかけることを諦めたときか、あるいは宇宙遊泳に飽きたときだけだ。



 今日も俺は宇宙遊泳ステーションに向かう。ステーション行きのバスで、何度も何度も繰り返し読んで、見なくても文面を思い出せるくらいには完璧に覚えた手紙を広げ、汚い字のをまた読む。宇宙遊泳に向かうときには必ず読んでいる。手紙の中で気になるフレーズは時がすぎるごとに変わっていくが、今はこの部分が気になっていた。


『お前には「天から見守っているよ」と言いたいところだが、我々が宇宙に飛び出してしまったために、〈天〉の定義があいまいになってしまったね』


 俺もだよ、父さん。主がどこにいるのか分からない。俺には信仰心が足りないのかな。このままだと、サタンの国に行ってしまうな。

 地球から大きな空を見上げていたときは、天とはあの向こうにあるのだと思っていた。けれどどうだろう。宇宙は果てしなく広大で、天地左右の概念などまるでない場所だ。天は、主の国はどこにあるというのだ。父はどこへ行ったのだ。

『タイムアウトです、アッカーさん。クルーが回収しますので、ドッグへお戻りください』

 いつものように「了解」と返事をし、指示に従うはずだった。そのはずだったけれど、今日の俺はまだ戻りたくなかった。

『アッカーさん!? 戻ってください、アッカーさん!!』

 オペレーターがうわずった声で俺を引き留める。宇宙遊泳プログラムで事故があっては、今後の運営に関わる。それが分かっていながら、俺は抵抗し、ケーブルを切断しようとした。だが、その努力は無駄に終わり、ケーブルを切り離す前に回収された。

「アッカーさん。もうこのようなことをなさらないでください。生命の保証はできませんから、お約束いただけなければ、当ステーションには出入り禁止にいたします」

 冷静さを取り戻したオペレーターが淡々と告げる。出禁は適切な処置だが、もう遊泳できないのは困る。一時の感情に従ったが、賢い選択ではなかった。

「分かりました、お約束いたします。ご迷惑をかけてしまって、申し訳ございませんでした」
「分かっていただければ何よりです。ただし、次はありませんので、そのつもりでお願いいたします。こちらといたしましては、お客様のお身体の安全を第一に考えておりますので、ご理解ください」
「本当にすみませんでした」

 とりあえず事なきを得て、その日はステーションを後にした。



 何事もなかったかのように家に帰ると、やはりいつも通りに母が迎えてくれた。それが罪悪感を刺激する。なんとなく居心地が悪いけれど、何食わぬ顔で食事をした。

「ねえ、リック」

 母が神妙な面もちで切り出した。なにやら言いづらそうにしている。

「なに?」
「あんた、いつまで遊泳するの? 死んじゃったらどうするの? 私、一人になってしまったら、どうやって生きていけばいいの?」

 本当はずっと言いたかったのを我慢していたのだろう。父の死んだ宇宙を母が好いてはいないことは知っていたし、俺が知っていることを母も知っていた。

「大丈夫だよ。あそこのステーションでは、今のところ事故の前例は聞いてないし。初心者も多いから、危険がないように手厚くサポートしてくれる。何も心配はいらないさ」
「……そうよね、ごめん、こんなこと言って。月にまで付いてきたクセに、今さらよね」

 母は、本当は地球へ帰りたいのかもしれない。抵抗しなかったからといって連れてこなければよかったのかもしれない。でも、謝罪されてしまったら、これ以上何も言えなかった。

 だって、言わなかったけれど、俺は故意に事故を起こそうとした。生命の保証はなかった。母を天涯孤独の身にしようとしたのだ。それはものすごくひどいことだ。そのことを聞いたら卒倒してしまうかもしれない。よりによって今日このタイミングで母がそれを切り出したのは、それを感じたからなのではないだろうか。やはり、無茶なことをしてはいけないのだと思った。



 それでも懲りずに、俺はまた父の手紙を携えて、宇宙遊泳ステーションへと向かう。宇宙遊泳に飽きる日はこないのかもしれない。休みの日にはそこへ向かうよう、身体にインプットされているらしい。飽きたとしても、惰性で通いそうだ。

 いつものプログラムを選び、宇宙に放り出される。黒い空間を背景に、青く大きな地球が浮かぶ。何もせず、どこにも行かず、手足を広げて、俺は浮かぶ。最初の一歩のために、ゆっくり、ゆっくりと前に進む――ケーブルの届く範囲まで。今日は目を閉じた。空けていても無数の白い点しか見えないけれど、目を閉じて、思考も閉じた。そうすれば今度こそ聞こえそうな気がした――父の声が、真空の宇宙から。でも、父は宇宙にはいないはずなのだ。父の同僚だったジョンが話してくれた。父は遠くの、人型知的生命体の息づく惑星ミノスで生命を落とし、その地で水葬したのだと。父の亡骸はミノスにある。ミノスの一部になったのだ。だからこんなところで父の声が聞こえるかもしれないなどとは、幻想にすぎない。そもそも、父の声なんか知らない。

『タイムアウトです、アッカーさん。クルーが回収しますので、ドッグへお戻りください』

 目を閉じたままの俺の耳に、オペレーターの声が入る。

 待って。待ってくれ。もう少し。もう少しで聞こえそうなんだ。会えそうなんだ。そこにいるんだ。だから、頼むから、もう少しだけ。せめて一刹那だけ。

 ――リック。

 目を見開いた。オペレーターではない。イヤホンから聞こえる声などではない。この声は、これは、自分の内側から聞こえているような気がする。

『アッカーさん、応答してください』

 ――リック、大きくなったな。立派な男になった。

 オペレーターの声がスローに聞こえる。何を言っているのか分からないくらいスローだ。しかしもう一つの声は、ふつうの速度に聞こえる。優しい囁きのように、小鳥のさえずりのように、クラシック音楽のように――。

(父さん、なのか?)

 だが、返答はなかった。その代わりに、オペレーターの声が聞こえた。

『アッカーさん?』

 今度は何を言っているのか分かった。俺は短く「了解」と答えた。ステーションが近づいていく。どれだけ真空の暗闇を見つめても、それだけ宇宙に耳を澄ましても、その声はもう聞こえなかった。



 帰宅した俺は、ワイ字バランスをしている母に早速報告した。

「母さん。今日、父さんの声を聞いたよ」
「えっ」

 ワイ字バランスを崩した母さんが直立不動で固まる。少しの間視線が宙をふらつき、俺の目を終点として止まった。

「そ、それは、なにか危ないことをしたの? あなた霊感があるとか、そ、そういうタイプの子じゃなかったじゃない」
「心配いらないよ、そういうことはしてないから。神の国が見えたわけじゃないから」
「それなら良かった……」

 ほっと胸をなで下ろした母に、俺は心の内を述べる。

「俺は父さんのことほとんど知らないんだよな。父さんが遠い場所でも俺を愛してくれていたことは分かってるけど、父さんのことはほとんど知らない」
「……そうね、そうよね」

 母も父のことを自分から話そうとはしなかった。俺にとって父は、幼少のおぼろげな記憶と、ジョンの話と、あの手紙の中にしか存在していない。それは父親の姿ではなく、宇宙に魅せられた一人の男の姿だ。

 思案顔の母は、じっと母のブラウンの目を見つめる俺の視線をしっかり受け止め、微笑んだ。

「ねえ、リック。今度、いつか、私も宇宙遊泳に連れて行ってくれる? その帰りにディナーでもしながら、トムの――お父さんのこと、話しましょう」

 月でできたお友達が感じのいいレストランを紹介してくれたの。行きたいような行きたくないような、そんな複雑な心境だろうが、若干嬉しそうな母は、本当はもっと俺と時間を共有して、たくさん話したいのかもしれない。

「うん。ありがとう、母さん。でも、もしかしたら宇宙酔いでディナーどころじゃないかも。俺も初めての時は酔って、ものすごく吐いたからね」
「まっ、リックも意地悪なのね!」

 カラカラと笑う明るい表情の母は、月に来てから初めて見たような気がした。


(20160729)


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