富士見町



 声をかけたのに意味はなかった。ただ、退屈で退屈で仕方がなかったから。

 高校の前のバス停、富士見町。ここではたくさんの生徒がバスを待っている。他の人たちはみんな本数の多いバスに乗って帰るけれど、私の乗る27番のバスは30分に一本。だから私はいつも、ひとりでバスを待っていた。
 でも、最近は違う。おろしたての制服を着た同じ学校の女の子が、私と同じバスに乗るのを知った。珍しい。30分に一本しかないのに、ものすごく遅れるあのバスに乗るのだ。だから風が気持ちいい初夏のある日、その子に声をかけた。

「どこ中出身?」
「えっ」

 内巻きのボブカットを揺らしながら振り返った彼女は、少し厚い唇がチャーミングだ。胸元で1ー2の学年章が光る。

「えっと、南中です」
「奇遇だね。あたしも南中なんだ。もしかしたらすれ違ってたかもね」
「あ、そうなんですか」
「あたし、田中先生のクラスだったんだ、古典の」
「えっ、田中先生? 私も三年の時、田中先生のクラスでした!」
「えー嘘!」

 同中だと分かってからは退屈な時間などどこへいったのか、中学の時に特徴的だった先生の話で盛り上がった。バスが来て、同じバスに乗る。学校の誰かと同じバスに乗って帰るなんてことがなかったから、とても嬉しい。彼女の方が先に降りるけれど、それでもよかった。



 それからというもの、彼女――鳴瀬陽菜――を見かけては声をかけ、同じバスに乗って帰ることが増えた。昨日見たドラマの話や、今日クラスで馬鹿やってた男子の話、他にもいろいろ、話題には事欠かない。時には陽菜ちゃんから声をかけてくることもあった。夏を共に過ごし、バス停の自販機で買ったアイスを一緒に食べたりした。


 バス停前の銀杏の木が緑から黄色に変わる頃、陽菜ちゃんの後ろ姿を見かけていつも通り小走りで駆け寄って手を挙げた。

「あ、陽菜ちゃん……」

 元気よく声に出したけれど、尻すぼみになったのは、彼女の隣に背の高い男の子がいたから。お友だち? 彼氏? なんにせよ、違う誰かと一緒にいるところを邪魔しちゃ悪いよね。
 楽しかった帰りのバスは、また前みたいに退屈になった。陽菜ちゃんと一緒に過ごした日々が、遠い昔のことみたいに、幻みたいに思える。そこはかとない淋しさに寄り添うように銀杏の葉が目の前を舞っていくのが、なんだか腹立たしい。

 陽菜ちゃんの姿は見かけるけれど、親しげに話す男の子といつも一緒にいたので、声をかけられずにいた。



 銀杏がすっかり散ってしまって裸に鳴った頃、富士見町にやっぱり陽菜ちゃんの姿を見て、今日は一人だったから声をかけようとした。でも、いつもよりもずっと小さいその肩が震えているのが分かったから、声はかけなかった。
 何があったのかな? 彼と喧嘩? 下手に声をかけても、なんて言ったらいいか分からないし……。

 私は自販機であたたかいミルクココアの缶ジュースを二本買った。左手に持った一本を、陽菜ちゃんの頬に当てる。陽菜ちゃんは顔を上げた。

「先輩……?」
「お疲れ。バス待ってる間、寒いでしょう? おいしいよ、これ。あたし好きなんだ」
「あ……」

 陽菜ちゃんは恐る恐る缶ジュースを受け取って、両手で包み込んだ。

「ありがとうございます」
「隣、いい?」
「はい」

 隣に腰掛け、自分のココアのプルタブを開ける。隣からもカチッと音がした。甘くて温かいココアが身体に染みる。隣からは、鼻をすする音が聞こえた。寒いけど自分のコートを脱いで、陽菜ちゃんの肩にかける。陽菜ちゃんはずっと震えていた。

 先輩、彼と別れました。陽菜ちゃんはホット缶のミルクティーを差し出しながらぽつり、ぽつりと話した。

 始まりは雨の日、傘を忘れた陽菜ちゃんに声をかけて一緒に帰った時で、その時に告白されたらしい。彼の一目ぼれで、付き合ってから好きになるのも悪くないと思ってうなずいた。彼は優しくて陽菜ちゃんのことを大切にしてくれて、そんな彼をものすごく好きになったと。でも別れを告げられてしまった。理由は、他に好きな人ができたから。

 漫画やドラマや小説で、周りの人間関係でもよくある話だ。でもそれは自分が傍観者で部外者だから言えること。渦中にいる人にとっては大きな事件で、特に「ものすごく」なんて強い気持ちがあるのならなおさらだろう。

 話を聞き終わってから、すぐに何かを言うような気分にはならなかった。彼女がどんな言葉を求めているのか分からない。もしかすると、どんな言葉も求めていないのかもしれない。隣にいるのに何も分からないのがもどかしくて、でも何も言えなくて、しばらく沈黙が続いた。ホット缶を開けたはいいけど一切口をつけず、ミルクティーが手の中で少しずつ冷たくなっていく。

 どれくらい時が経ったかは、目の前に27番のバスが停まったことで理解した。でも私も陽菜ちゃんもベンチを立たなかった。人を乗せて行ってしまったバスの後姿を眺め、やけに大きいエンジン音が他の車たちに消されたところで、ようやく私は口を開いた。

「本当に好きだったんだね」

 それだけ言って、すっかり冷めてしまったミルクティーを勢いよく呷る。隣からか細く「はい」と震える声が聞こえる。けれども陽菜ちゃんの顔は見なかった。程なくして、鼻をすする音が隣で聞こえた。私もそれに合わせて一度だけ鼻をすすってみせる。

「今日も寒いね」
「はい」

 ふたりで待った次の27番のバスには、ほとんど人が乗っていなかった。

(20200414)


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