幽霊の足



 幽霊には足がないという。誰が言い出したのかは知らないし、見たものがいるのかも定かではないが、それが通説となっている。
 概念的にそう捉えていたものが、今まさに、彼自身の目の前で証明されている。
「何あんた、幽霊でも見た顔をしているの?」
 現に目の前にいるのは幽霊だ、と彼は言いたくなった。そんな発言をしている当人こそが、足のない幽霊なのだ。
「そんな怪訝な顔しなさんなって。忘れてただけですわ。私は確かに幽霊さね、見ての通り、足がない」
 嫌に陽気な幽霊は、触れられもしないのに、彼の肩を抱いた。
「私は竹田っていいます。あんたは?」
「沢田」
「ああそうですか、沢田、まあ仲良くしましょうや」
 いきなり呼び捨てかよと、竹田に肩を組まれた沢田は、大きくため息を吐いた。
「そんなため息を吐いたら、幸せ逃げちまいますよ」
「ため息も吐きたくなるわ」
 沢田が嫌そうに眉根を寄せると、ふと竹田は、沢田の手にあるものに目がいったらしく、好奇心旺盛な顔で沢田に抱きついた。
「なあなあ、これは一体何ですか? 珍しい箱ですけど」
「ああ、これは捨てようと思ってな」
「えっ、こんな素敵な箱捨てちまうんですか? 勿体ない」
「絵の具セットなんだが、俺には向いてないと思ってな」
 沢田は、小さい頃から絵を描くのが好きだった。だからその道に進もうとしていたのだが、待っていたのは挫折だった。
「なんで向いてないなんて言うんですか? 諦めちまうんですか?」
「なんでも何も、うまくいかないから仕方がないじゃないか」
 周りには認められない。認められなければ続けても意味がない。努力は実ると信じて頑張ってきたことが、全く報われない。そのようなことを続けて、一体何になるというのだろう。
「あんたはそれでいいんですか?」
「いいも何も、それしかないんだ」
「どうして?」
 そんなこと、自分が聞きたい。沢田は思ったが、口には出さなかった。すると竹田は、徐にこんなことを語り始めた。
「あんたは、なんで幽霊に足がないか知ってます?」
「は?」
「逆でもいい。なんで人間に足があるか知ってます?」
「そんなの、歩くために決まっているじゃないか」
 なぜそんな分かりきったことを、目の前の幽霊にわざわざ言わされなければならない。沢田は理不尽な怒りに顔を歪ませたが、陽気な幽霊は対照的に、全てを見透かしたような目で沢田を見ていた。
「そう、そのためなんです。でも、私ら幽霊には足がありません。もう歩けないんですよ」
 でもふわふわ飛んでいるではないか、という言葉を、沢田は呑み込んだ。そういうことを言っているのではないと、流石の沢田にもわかったからだ。
「足があるということは、歩くことができるというのは、前に進むことができるということです。生きているということは、無限の可能性を秘めている。現に、幽霊じゃなくっても人は空を飛んでいるでしょう」
 竹田は物寂しそうに、自分のない足を見た。
「辛くても悲しくても、可能性があるのは生きているからこそなんです。私は残念なことに、その可能性を全部放棄しちまったんです」
 そこまで聞いてようやく分かった。竹田は自殺したのだ。
「だから、私の代わりに生きろなんてことは言いませんよ。誰が生きたって、私の人生にはなりませんからね。ただ、勿体ないと思うんですよ。続けてりゃあ、あんたは認められるかもしれないのに」
 それは確かに、その通りかも知れないが、生きているうちに評価されたいのが人情だ。ゴッホのような人生を送りたいとは、沢田には思えなかった。それでも竹田の言葉は、月並みではあるが、竹田が死んでいるからこそ重みがあった。
「幽霊に足がないのは、それ以上前に進めないからなんですよ」
 なのに生きている人が進むことを放棄している、なんてことは言わないがと付け足した。
「死ななけりゃ、こんなこと分かりませんけどね」
 幽霊は、会った時と同じようにへらへらしていた。そして沢田に背を向けた。
「さて、じゃあ私はそろそろあの世に行きますわ。成仏できるかは知りませんけど」
 竹田はまた会いましょうと言って、沢田の前から煙のようにかき消えた。会うと言ったら、竹田は自殺したのだから、地獄で会うことになる。この陽気な幽霊にはまた会いたいが、地獄に行くのはごめんだ。
 沢田は口許にうっすらと笑みを浮かべた。
「そうさな、お前さんの言う通り、もう少し頑張るとするよ」
 沢田は、あの世に行った竹田に聞こえるよう、空に向かってそう呟いた。


(20111117)
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