異邦人



 風が吹いた。一陣の風。後ろから打ち付ける風を背中に受け、旅人は前へ前へと歩いていた。
 自分は何処へ行くのだろう。自分のことなのに、それがさっぱり分からなかった。いや、分かる気がなかったと言ってもいい。旅人は当てのない旅をしているのだから。荒野を吹く西風は、旅人の背中を押し続けていた。
 ずっと歩いてると、何でもないただの岩場に老人が立っていた。とても細くて、とても汚らしかった。身にまとっている服は真っ黒に汚れていて、ところどころ破けているし、伸ばし放題で整えられていないひげや髪の毛や爪が空恐ろしい。旅人はついついぎょっとして、老人をじろじろと見た。すると老人の目やにだらけの目と旅人の目とがばっちりと合ってしまった。旅人はとっさに目を逸らした。そんな旅人の耳に、老人の声が確かに入った。
「どこへ行きなさるのかね?」
 喋るのか。いや確かに、この世のものとは思われない風貌とはいえ、人間である以上、言葉を喋ることは不思議ではない。旅人は、初めこそ何も聞こえていないふりをした。しかし、老人は再度旅人に尋ねた。
「どこへ行きなさるのかね?」
 旅人はようやく足を止め、老人の方に顔を向けた。
「このまま真っ直ぐ」
「そうかそうか。だが、このまま行けば、険しい山がお前さんを待ち受けていますぞ。それでも行きなさるのか?」
「行くのだろう」
「これまで何度も、何人もの若い者が、あの山に挑んで敗れた。それでも行きなさるのか?」
 老人にいやに迫力があったので、旅人は怯みながらも、再び「行くのだろう」と答えた。
「これまで何度も、何人もと言っていたが、あなたはずっとここに立っているのか?」
 怪訝そうに旅人が尋ねると、老人は目尻の皺を深くした。
「そうですな。私の息子が、あれに挑んで敗れた。それからずっと、私はここに立っておるのです」
「ずっと?」
「そう、ずっと。地に腰を横たわらせたことはありませんぞ。ここから一歩として動いたこともありませぬ。この言葉が真実である時、お前さんはきっと無事に、あの山を越えられますぞ」
「よく分からない願掛けだが、信じることにするよ」
「時にお前さんは、西から来たのですかな?」
「ああ。ここより西へ西へと行った、さらに西から」
「ここを通る者は、殆ど皆西から来る。そりゃあ、時々は東から来るものもいるのですがね。山の東には、私のような者がいないから、それで皆山に敗れているのかもしれないと、初めは思っておったのです。しかし、最近そうではないと思うようになりましてな」
 老人は山の方を見た。旅人も同じ方角を見た。
「多くの人は、西から来た風が東へ、東へと吹くのを感じて、それがどこまで吹くのだろう、風は何処へ行くのだろう、そう思って、風を追いかけているんじゃなかろうか、そう思うんです」
 その時、ようやく腑に落ちた。自分は何処へいくのだろう。何処へ向かっているのだろう。東へ、東へと歩いてきた。それは、風の軌跡を歩いてきたにすぎない。風は後ろから旅人を追い立てていたのではなく、常に旅人の前を駆けていたのだ。
「そうか、ご老人。いや、興味深い話を聞かせてくれた」
 そう言って、旅人は携帯していた食べ物をわずかばかり、老人の足元に置いた。老人は両手を合わせて、深くお辞儀をした。
「私の方こそ、このような古い人間の話を聞いてくださって、ありがたいものですな。道中、お気を付けなされ」
「ご老人も、達者でな」
 旅人は一礼して、東の山へと向かった。風の行方を捜しに。


(20120214)
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