あなたに薔薇を


 カッツェ孤児院には、定期的に羽振りのいい日がある。そんな日があるなぁ、くらいの感覚で見ていたフォルカーだったが、院長のイネイドになんとなしに尋ねたところ、このような話が聞けた。
 孤児院には、定期的に匿名で金の寄付があるらしい。それも、それなりに大きな額である。そのことに関して、若い院長のイネイドは「ありがたく使わせてもらっている」とのことだった。
「運営費に充てたり、壊れてるところの修繕に使ったりして、余ったお金で、みんなにいつもより少しだけ贅沢させてあげてるんだ。少しだけいい肉を買ったりしてな」
 ふーん、とフォルカーは顎に手を当てた。それなりの大金を寄付するとは、なんとも徳の高い人物がいたものだ。
「兄ちゃん、見て見て!」
 きゃははと楽しそうな様子の子どもたちが、先ほど描いたらしい絵を見せてきた。それを見てイネイドは――
「バカ! お前らお金になんてことしやがるんだ!」
 と、子どもたちにげんこつを落とした。
「使えないじゃねぇか、もう」
「まあまあ、その金だったら俺のと代えてやるから、そんくらいにしてやれよ」
「ありがとう、フォルカーさん」
 フォルカーは紙幣のラクガキを見て、わかりづらく口角を上げ、懐の財布にしまった。


 方舟に戻ると、見慣れない姿があった。気づけば人が増えている場所なので、見ない姿があるのはいつものことなのだが、ヴァローナと談笑している女性の、線の細い後ろ姿から、なんとなく目を離せなかった。
「そう、いつもアルバで歌ってるのね。後で食堂で聞かせてくれないかしら? アナタの歌って本当に素敵だし、みんな喜ぶと思うわ」
「そうね。これからここでお世話になるんだから、その代金として歌うのも悪くはないかもね」
 お気持ちもあった方がいいのかしら、とヴァローナが苦笑する声を遠くに聞きながら、フォルカーは食堂に足を運んだ。

 その日のメニューは、フォルカーの好きなキノコ料理だった。キノコのシチューはアカネの得意料理だ。食事に舌鼓を打っていると、ヴァローナが当然のような顔でフォルカーの隣に座った。
「この後、素敵な歌が聞けるかもしれないわよ」
「素敵な歌だって?」
「そ。アルバでたまたま聞いて、とってもいい歌声だったから、連れてきちゃった」
 相変わらずの冗談だか本気だか判別のつきづらい物言いに、フォルカーは苦笑した。
 シチューの最後の一口をかき込むとほぼ同じくして、ヴァローナが「ほら」とステージに目を向ける。そこには、先ほどヴァローナと談笑をしていた線の細い女性が立っていた。幼げな顔にすべてを見透かしたような笑みを浮かべ、露出の多い姿とはうらはらに、上品にお辞儀をする。そして歌を紡ぎ始めた。
 一瞬にして、その歌声の虜になった。幼げな顔におおよそ似つかない大人びた歌声が、透き通っていて、フォルカーの胸にすっと入ってくる。ときおり揺れる長い金のツインテールや、こぼれそうなほど豊かな胸を覆う黒い衣服、それに憂いを帯びた目元と歌を紡ぐ唇もどこか煽情的で、かの歌姫に目を奪われたと言っても過言ではなかった。
 そんなフォルカーに、だめよ、とヴァローナが声をかける。
「ああいう子を見て、なんとかしてあげたいって思っちゃう男なんて、たくさんいるんだから」
 言わんとすることはよく分かった。
 ヴァローナは食事を平らげ、デザートまで綺麗に食べてしまうと、「お先に」とさっさと行ってしまった。
「ディオーナ、もう一曲頼むぜ!」
 エールを持ち上げながら、半裸のドルフが声を上げる。ディオーナの歌は、確かに酒の席にはよく合っているようだ。
 歌が終わり礼をしたタイミングで、フォルカーはコインを一枚投げた。それをディオーナが難なく受け取る。その動きは実にスマートだ。フォルカーに向けてウィンクをして見せたディオーナは、また歌を歌い始めた。盛り上がったりするわけではないけれど、落ち着いた雰囲気の歌だ。フォルカーは歌声に耳を傾けながら、残された右目を閉じた。

 知っている景色。苦く、懐かしい景色だ。この景色は一瞬で変わる――そう、その光景を知っている。
『お兄ちゃん!』
 光撃が落ちる。弟に。――弟に。
『うわあああああ!』
 叫んだ。何に。直撃を受けた弟に。灼かれた左目の痛みに。一瞬で消えてしまった、村に――
「――っ!」
 跳ねるように起きた。どうやらあのまま眠ってしまっていたようだ。全身が汗でじっとりと濡れている。どうやら夢を見ていたようだ。細く長い溜息を吐いた。
「大丈夫?」
 ディオーナが落ち着いた優しげな声をフォルカーにかけた。彼女がフォルカーの汗をタオルで拭こうとしているのを察し、フォルカーはタオルを受け取り自分で拭いた。
「悪い、どれくらい寝てた?」
「あなたにリクエストをもらって、それから三曲くらい歌ったわ。その後シャルロッテが食堂を閉めたの。シャルロッテはあなたを起こそうとしてたんだけど、私が止めたわ。代わりに食堂のお掃除をして、終わったところであなたが」
「そりゃずいぶんと寝てたんだな。迷惑かけた」
 いいのよ、とディオーナは鈴が鳴るように笑った。
「酔い潰れて前後不覚ってわけでもなさそうだし、あとは自分で帰ってね」
「ああ……」
 どれだけ酔っていたとしても、あの夢を見てしまえば、一瞬で冷めたことだろう。
 踵を返し立ち去ろうとするディオーナの細い腕を無意識に掴んでいた。ディオーナがツインテールを揺らして振り返る。
「あ、悪い」
 すぐに手を離したフォルカーに、ディオーナは「どうかした?」と首をかしげて見せた。
「いや――」
 なぜこんなことをしたのだろう。すぐさまフォルカーはごまかすことを考えた。
「あんたの歌、よかった」
「そう、ありがとう」
 くすくす、と笑って、ディオーナはまた歌い始めた。
 赤い唇から紡がれる歌は、美しく、やさしく、どこか懐かしかった。そう、だから先ほども、彼女の歌に心をゆだね、あろうことか食堂で眠ってしまったのだ。結果として夢見は悪かったものの、彼女の歌の中で眠るのは心地よかったのだろう。
「ふふ、ご静聴ありがとうございました」
「いや、こっちこそ、いい歌を聞かせてくれてありがとな。俺ひとりだけなんて贅沢だ」
「いいえ。そうね、普段だったら、歌う時にはお金をもらうことにしてるんだけどね、ここだったら『いない』から……」
 そう呟く表情が、どこか思いつめているようだった。が、見間違いと思ってしまうほどにすぐにいつも通りの表情に戻った。
「ごめんなさい、今のは聞かなかったことにしてちょうだい。じゃあ、私は行くから」
「ああ。じゃあ、おやすみ」
 彼女と別れた後も、あの一瞬の思いつめたような表情のことが、頭から離れなかった。


 夜が明け、フォルカーはラクチのところで武器の手入れをしてもらっていた。
「あーあー。普段の手入れはしっかりやってるみてえだけど、無茶な戦い方してんじゃねえのか? ったく、どうしたらこんなにガタガタになるんだか」
「悪いな、鴉の英雄さんの人使いが荒いもんでね」
「本人が聞いたら、クマちゃんの餌食にされちまうぞ」
 ラクチはカカカ、と笑いながら、フォルカーの爪を磨いてくれる。彼女に見てもらうと、武器の調子がとてもよくなるので、フォルカーも定期的にラクチの工房の世話になっているのだ。
「ほらよ、これで終わりだ。もうちょい大事に使えよ」
 武器を受け取り、さっそく手にはめ、握り心地を確かめた。
「ああ、わかってるって。ありがとな」
 礼を告げ武器をはずし、工房を立ち去ろうとした――その時、フォルカーの耳に、あの歌声がかすかに聞こえた。
 近くで歌っているのか? この近くなら、どこで歌っているのか? 声のする方へ歩いて行く。どうやら城門前の湖のそばで歌っているようだ。太陽の眩しさに細めた目に、昨日見た姿が飛び込んでくる。ディオーナだ。
 ディオーナが、食堂で歌っていたムーディーな歌とは違って、明るくテンポの良い歌を歌っている。彼女の歌に合わせ、ナディアとサナルサナイが踊っている。相変わらず大人びた声だが、表情に憂いはなく、顔立ちによく合う明るい笑顔で歌っていた。楽しいのだろう、その様がフォルカーには嬉しかった。
 歌が終わり、ナディアとサナルサナイも踊りをやめたところで、フォルカーはひとり拍手をしていた。ナディアが「あら、フォルカーも一緒に踊る?」と誘ってきたが、それは断った。
「ふふ、ありがとう。これは私からの『お気持ち』よ」
 ディオーナはどこからともなく赤い薔薇を出し、フォルカーの胸に差した。そしてにっこりと微笑むと、城門前から立ち去った。そうか、あんな風に歌うこともあるんだな、とフォルカーも口角を上げた。

★☆

 この日は、ヴァローナの遣いで、アルバの街に買い出しに来ていた。ついでにイネイドの孤児院にも顔を出すつもりなので、孤児院への手土産も簡単に見繕ったりしている時だった。
 歌が聞こえる。
 この声は知っている。ディオーナだ。声のする方を見ると、人だかりができていた。それはそうだろう、フォルカー自身もまた、すでに彼女の歌声の虜なのだから。
 声を聞いているだけで充分だったので、フォルカーは無理にディオーナの姿を見ることはせず、少し遠くで、彼女の歌う声を聞いていた。相変わらずいい歌で、いい声だと思った。
 そして歌が終わった。あっという間のことだった。お疲れさん、そう声をかけるつもりだった。
「『お気持ち』があると、次に歌う曲が増えるかもね」
 あれは誰だ。笑顔も声もディオーナのものなのに、全く知らない人のようだ。フォルカーは呆然としてしまった。ディオーナのそばに意地の悪そうな老婆が控え、聴衆の「お気持ち」を集めている。なぜこんなことが。
 聴衆が捌けてから、フォルカーはディオーナに声をかけた。
「ディオーナ!」
 ディオーナは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに先ほどと同じ笑顔を張り付けた。
「さっきも言った通り、今日はもう、リクエストは受けないのよ」
 それだけ言って、フォルカーに背を向け、立ち去ろうとする。
「おい、待てよ!」
 華奢な腕を掴んでも、いつかの時のようには振り向かない。フォルカーより一回りも二周りも小さなその背中に、相変わらず強い調子で言葉を投げかけた。
「なんでだ。なんであんた、あんなヤツの言うことなんか聞いてるんだ」
「あなたには関わりのないことだわ」
 彼女の声は震えていた。
「そりゃそうだ。あんたが方舟の外で誰と何をしようが、俺には何一つ関係ねぇ。けど、あんなヤツの言いなりになってるの見てたら気になるだろ。その、騙されてるんじゃないかって」
「そう。それはありがとう。でも心配無用よ。騙されてなんかいないから。私の意志で、こうして歌ってるの」
「でもあんた――」
 食堂で二人だけで話したとき、ディオーナは確かに「『いない』から」と言った。それは、お気持ちを集めていた老婆のことなのではないか。そう尋ねようとしたが、ディオーナの顔が歪んでいるのが分かった。そこでようやく、思ったより強くディオーナの腕を掴んでいることを自覚した。しかし、この状況で手を離すことなどできない。考えるより先に、言葉が出た。
「なあ。今日のあんたを、俺に買わせてくれねぇか?」
 ディオーナは答えなかった。だが拒否もしなかった。その態度を、フォルカーは肯定と受け取った。

 宿の部屋に入ると、ディオーナは慣れた手つきでボンテージの紐を緩め、白い乳房を露わにし微笑んだ。ただ、その笑顔はどこか悲しげだった。
 ヴァローナに言われたことが浮かぶ。こういう娘を見て、なんとかしたいと思う男なんて、たくさんいるのだそうだ。そうだろう。自分もそのひとりになってしまったのだから。
 本当は先ほどのことを問い詰めたかったから彼女を買ったのに、彼女の微笑みはそれを許さない。それならば今は、目の前にいる女性の淋しさややるせなさを、どうにかしたいと思ってしまったのだ。
 フォルカーはディオーナの口を吸い、そのままベッドに倒した。

★☆

 ディオーナが目を覚ますと、フォルカーはすでにいなかった。丁寧に肩までかけられたシーツをはぐり、怠い身体を起こして髪をかき上げる。
 やさしかった。余裕なんてないという顔をしていたくせに、壊れ物のように触れるのだ。けれど情熱的で、右目だけでまっすぐにこちらを見つめてくる。その目が不愉快だった。不愉快な理由なんてわかりきっている。何度目を逸らそうとしても、フォルカーはそれを許さなかったのだ。「こちらを見ろ」と、何度も顔を向けさせてきた。
 自分がしていることから目を逸らすなと言われているようだった。そんなことは分かっている。でも仕方がないのだ。自分がそうしなければ、元院長が目をつけるのは、自分が大切に想っている子どもたちなのだから。もう二度と会えなくなっても、あの子どもたちがこんな目に遭うことを考えたら、自分がしていることなんてなんでもなかった。――なんでもなかったのだ。それなのに方舟のみんなが、フォルカーがこんな風に自分を受け入れる。受け入れられるほどに、自分が嫌になる。他に方法なんてなにも思い付きやしないのに、他にやりようがあったのではないかと考えてしまう。どうしようもないではないか。
 とにかく、服を着て髪を整えた。テーブルに金が置いてあるのが見える。その金を手に取り、ディオーナも部屋を出た。その金に、ラクガキがしてあることに気付かずに。

★☆

 ディオーナを抱いた後、フォルカーの隣で眠るディオーナを置いて、ひとり部屋を出てきた。どんな顔で会えばいいかわからなかった。女など、性欲が溜まれば娼館で好きに抱いていたのに、ディオーナにあのようなことをしたのが、自分でも信じられなかった。白く弓なりにしなる肢体、肌のぬくもり、柔らかさ、香り、すべてが鮮明に思い出される。何よりも、声。フォルカーを虜にした歌を紡ぐ声が、あの時はただひとりの「女」の声だった。思い出すだけでも気がおかしくなりそうだ。
 そんなことより孤児院だ。孤児院に土産を持って行って、それから方舟に帰らなければならない。いまはそれで気を紛らわすことにした。
 そしていつものように孤児院に到着すると――
「フォルカーの兄貴、ありがとな!」
 イネイドに突然頭を下げられ、心当たりのないフォルカーは「何がだ?」と返した。手土産だって、まだ渡していないのに。
「またまた〜! いつも寄付してくれてたの、兄貴なんでしょ?」
「待て、俺はお前たちの雑用は引き受けても、金は出してねぇぞ。しかも匿名にする必要がねぇ。そもそもなんで俺だって思ったんだ?」
「え? だってほら、このお金!」
 イネイドがフォルカーに見せつけた紙幣には、あの時子どもたちがしていたいたずら描きがあったのだ。
 そう、確かにあの時フォルカーは紙幣を交換した。どこかで買い物をしたときにこの紙幣を使ったのだろうか。そしてその金を受け取った人たちが、善意で孤児院に寄付をしたのだろうか。記憶をたどる。今日アルバに出るまでは、特に金を使う用事がなかった。買い物だって、貨幣でやり取りをした。だとすれば、フォルカーが紙幣を使った場所は――。

 考えを巡らせながら方舟に戻ると、懐かしい顔があった。
「お、アンナじゃねぇか! お前も来たのかよ」
「あ、フォルカーさん! そうなの、久しぶりね」
 同じ村の出であるアンナは、相変わらず元気そうで安心した。積もる話もあるだろう、と食堂で一緒に食事を摂ることにした。
 フォルカーは何でも屋をしていること、今はヴァローナの世話になっているという話をした。アンナも、村を出てから今日までのことを聞かせてくれた。
「ここに来て孤児院の知り合いに何人か会って、びっくりしちゃったな。フォルカーさんも孤児院の面倒見てるみたいだし」
「イネイドが院長をしてるし、アカネもあの孤児院にいたな。アカネは孤児院でも方舟でも、いいお姉さんをやってるみたいだ」
「うん。あとね、お姉ちゃんにも会ったの」
 お姉ちゃん、という響きがなにやらひっかかり、フォルカーはアンナをじっと見つめた。
「ディオーナっていう人なんだけど、知らない?」
 孤児院で面倒を見てもらってたの、とアンナは言った。フォルカーは目を見開いた。言葉が出ない。
 ディオーナは孤児院の出身で、なぜだか匿名の寄付をしているというのだ。そうか、と返事をするのが精いっぱいだった。

 方舟の食堂でフォルカーはディオーナを見かけ、声をかけた。あの時のこともあり、気まずさはあったものの、周囲に誰もいないことも助けになり、なんでもない話から切り出すことができた。
「今日はどこかに行くのか?」
「いいえ、今日はここでゆっくり過ごすわ。ナディアも出かけてるみたいだし」
「そうか」
 言おうかどうしようか迷ったものの、フォルカーも寄付のことは気になっていたので、少しの沈黙ののち、「あんただったんだな」と口にした。いきなりそのようなことを言われ、ディオーナは当然のように訝しげな顔をした。
「定期的に孤児院に寄付してたっての、あんたなんだろ?」
「そうなの? 孤児院に定期的に寄付があるって話は、今はじめて知ったわ。でも、そういう人がいても不思議じゃないかもしれないわね。それで、どうしてそれが私だと思ったの?」
「子供たちが金にいたずらしてたんだよ。それを俺が受け取って、この間あんたに払った。その金が、孤児院にあった」
 あんたに払った中にあるとは思ってなかったけどな、とフォルカーは笑ったが、対照的にディオーナから微笑みが消えた。
「そう。私はあの孤児院の出だもの、そうしたって何の不思議もないでしょう?」
「認めるんだな」
「そんな証拠があるなら、認めざるを得ないでしょう」
「匿名なのも……俺が最初に聞いたときに否定したのも、何か理由があるのか?」
「理由もなにも――」
 自虐的な笑みを張り付け、ディオーナは胸に手を当てた。
「――だって私、自分からあそこを出ていったのよ? そしてご覧の通り、こういう暮らしをしている。そんなこと、あの子たちは知らなくていいことだわ」
 開き直った様子なのに、声が震えている。
「私の歌だって、最初はあんなにはお金にならなかった。だから……私を買ったあなたなら分かるでしょう? そうしてたのよ。それでいい暮らしができたわ。贅沢をして、好きなものを買って……でも心は満たされなかった。だったらこうするしかないじゃない」
 そうか。その名残があったから、フォルカーは当たり前のようにディオーナを買ったのだ。
「自分から出ていった……それだけなのか? じゃあなんで、あんな女の言いなりになってるんだよ?」
「あの人は……」
 ディオーナは目を逸らしながら答えた。
「あの人はイネイドの前の院長よ。孤児院の子供たちを売ってたの。それが許せなかった。他の子供たちのことを売らせるわけにはいかないじゃない。だから、私はあの人と孤児院を出ていったの。私がこうして歌ったり身体を売ったりすることなんて、何も知らずに売り払われた子供たちに比べたら、なんでもないわ」
 それをひとりで抱えていたのだ。誰かに言うこともできず、たったひとりで……。そう思えばこそ、言葉が自然と溢れた。
「だったら、俺のことも頼れよ」
 ディオーナが琥珀色の目を見開く。
「俺だってカッツェ孤児院には時々顔出してるし、孤児院の用心棒くらいならできる。あんたが寄付するって言うなら、その手伝いだってする。あんたがいつまでもあいつの言いなりになって歌う理由にはならねぇだろ。あんた、方舟で歌ってる時はあんなに楽しそうだったじゃねぇか」
 ナディアやサナルサナイがディオーナの歌で踊っていた時、ディオーナは本当に楽しそうだった。けれど。
「あいつの言う通りに歌ってたあんた、すごくつらそうだったぜ。なあ、どうにかできねぇのか?」
 ディオーナは頭を振った。
「私があの人のためのお金を稼いでる間は、あの人は私のことだけを見るもの。もし私があの人のために歌うことをやめたら、あの人はまた孤児院の子供たちを売ろうとするわ。それだけは絶対にあってはいけないの。こんなこと、あの子たちは知らなくていい」
 ディオーナがまっすぐに、だが哀しそうに微笑む。
「あなたの言ったことはとても嬉しいわ。ありがとう。どうしようもなくなったら、頼るかもしれないわね」
「どうしようもなくなる前に頼れよな」
 フォルカーには、これ以上なにも言えなかった。


 ディオーナのことでもやもやしながら工房前を歩いていると、ヴァローナに「ねえ、ちょっと」と声をかけられた。何事かと思ったら、ディオーナの話だった。
 ヴァローナはフォルカーがディオーナから聞いたのと同じ話を、かなりかいつまんで聞かせた。そしてそこに新情報があった。なんと、ディオーナが言いなりになっている老婆がアカネに目をつけており、ディオーナがそのことでヴァローナを頼ったというのだ。
「それでお願いがあるんだけど、ほら、その前の院長って人、堅気じゃない人たちをいっぱい手下にしてるって聞いたからね、ディオーナに分からないように、あなたやっつけちゃってよ」
「やっつけちゃってよって言ってもなぁ……しかもわからないようにって」
「だって私のこと、わざわざ呼び出してこんなお願いしてきたのよ。あなたに話したことが分かったら、私も立場がね。それに、こういう汚れ仕事みたいなの、あなたには頼みやすいでしょ」
「ま、引き受けますよ」
 何でも屋なので、どんな依頼でも条件と相談で引き受けるが、ディオーナのことはフォルカーも気になっていたし、なんとかしたいと思っていた。こんなところでどうにかできるかもしれないのは、いい機会だ。自分が相談されたわけでもなく、釈然としない気持ちがないわけではないが、とにかく、動けるというのはフォルカーにとってもありがたい状況である。

★☆

 ディオーナの件は、どうにか解決したようだ。ヴァローナの頼みでならず者たちに痛い目を見せたフォルカーに、ヴァローナからそのような報告があった。
「そっか。そいつはよかったな」
「行って来たら? ディオーナのところ。気になってるんでしょ?」
 ヴァローナがいたずらに笑う。ヴァローナは分かっていてフォルカーにあんな頼みごとをしたらしい。フォルカーも「なんだ」と目を閉じて微笑んだ。
「そうするよ」
 立ち去るフォルカーの背中に、ヴァローナが「頑張りなさいよ」と声をかける。
 一番の問題が解決したディオーナは、もうあんなつらそうに歌うことはないのだろうか。そうだったらいい。また、楽しそうに歌えばいい。
 ディオーナの後ろ姿を認めて声をかける。長い金のツインテールがふわりと揺れ、振り返る。
「ヴァローナ様から聞いた。よかったじゃねぇか」
「私もヴァローナから聞いたわ。ありがとう」
 なんだ、ヴァローナはあんなことを言いながら、ディオーナにしっかり言っていたのか。フォルカーは、はは、と笑った。
「すっきりした顔してるな。本当によかった」
「ありがとう。もう、あの人のためには歌わないわ」
「そうか」
 フォルカーは赤い薔薇を一輪、ディオーナの髪に挿した。ディオーナは何も言わずに、目を細めた。



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Written by @uppa_yuki
アトリエ写葉