1話

「日本に行ってきてくれないか」

 普段、食事中は──食事中どころかいつだって口数は少ないけど、とにかく──滅多に口を開かない養父がそう言った時、私の脳裏に浮かんだのは「放逐宣言」の四文字だった。
 比喩抜きで捨てられるんだと思った私はフォークを取り落として、何を言うこともできずにとにかく養父を凝視した。

 対する養父はというと、先程の発言なんてなかったかのようにいつも通りに黙々と私の作った朝食を食べていた。私は余計に混乱して、「さっきのは聞き間違いかも」となんとも自分に都合のいいことを考えてみる。養父の母国語であるフランス語は聞くのも喋るのもとっくにマスターしたつもりになっていたけど、そうではなかったのかもしれない。うん、そうに違いない。胸を撫で下ろして、取り落としてしまったフォークを拾うためにも、椅子に座ったまま体をかがめる。

 まさかそんな、流石のこの人だってここまで簡単に私を捨ててしまおうとはしない──。

「滞在期間は未定だが、長期に渡るかもしれないそうだ」

 ──はずだし、と考えるのは楽観的すぎたのかもしれない。

 再び「放逐宣言」の四文字が頭の中を舞い、私は思わず、それはもう強かにテーブルの足に額を打ち付けた。ぶつけるなんて生易しいものじゃないほどの強打具合だ。そのままもんどり打って椅子から転げ落ちて呻きながら、みっともなく床の上で丸まって強打した額を手で抑える。とんでもなく痛い。どうやらこれまでの放逐宣言は、決して夢ではないようである。

 流石にここまで大袈裟に動けば養父だって気付かないはずもなく、怪訝そうに、それでもどこか慌てたように立ち上がる物音がして聞き慣れた声で名前を呼ばれた。「どうしたんだ」と言われても、「あなたが突然放逐宣言をするから」なんて返せるはずもない。そんなことを言えるなら、「どうして私を捨てるの」と真っ先に聞いていただろう。聞けないからこそ、こんな無様な格好を晒しているのだ。ほら、日本人ってそういう所あるから。
 じわりじわりと浮かぶ涙が痛みのせいなのか、それとも悲しみからなのか分からないまま、蹲るような体勢からほんの少しだけ体を上げて養父を見上げ「なんでもない」と答える。養父は呆れた顔になって「なんでもないって顔じゃねえだろ」と呟いた。


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 ところ変わって、バスタード・ミュンヘンU-20カテゴリーの練習場にて。私は、時折吹く冷たい風に身を震わせながらもバインダーを抱えてピッチを眺めていた。

 ドイツの冬は寒い。私が現在養父と共に暮らしているミュンヘンは、ドイツの中でも特に寒い場所だ。十一月にもなれば、日本とは違って羽織るものの一枚や二枚は必須になってくる。現に私はトレーナーの上に厚手のパーカーを重ね着している。
 うるさいやつからは「気が早い」と言われるけれど、寒いんだから仕方ない。それにこのチームでの私の仕事は走り回ったり動き回ったりする必要のないものだから、そうそう簡単に体も温まらないのだ。実際の試合の時、選手がベンチコートを着て出番を待つのと同じことだと思って欲しい。
 まあそんなことを言っても鼻で笑われて終わりだろうけど。

 込み上げてきた欠伸を噛み殺しながら、いつの間にか腕の中のバインダーに落としていた視線を上げてピッチを見渡す。一応仕事はしようと、視界に入った何人かをぼんやりと目で追って気になった点を書き出していった。
 しかし、その追っていた何人かのうちの一人がシュートを決めたところでタイミングが良いのか悪いのか小休止を告げるホイッスルが鳴り響く。 ドリンクとタオルを求めて反対側のベンチに選手たちは殺到していき、結果として私の仕事はなんとも中途半端に終わってしまった。再び見下ろしたバインダーに挟まれたメモ用紙には、三行程度しか文字が書かれていない。これじゃまるで私がサボっていたみたいじゃないか。いや別に、サボってたわけじゃなくて、ちょっと考え事してたっていうか。

 意味もなく心の中でそんな言い訳をしながら、メモ用紙に三つの国名を書き出してみる。そのうちの一つ、ドイツを大きく丸で囲んだ。この国を終の住処にするとは言わずとも、あと数年はここで暮らせると思っていたんだけどなあ。今朝の養父の様子だと、どうにもそうじゃないらしい。
 周りに誰もいないのをいいことに大きくため息をつく。そうしたら、まるで私のため息を咎めるようにすぐ隣から「幸せが逃げるぞ」と声がした。思わず飛び上がって悲鳴をあげる。

「うっっわぁあ⁉︎」
「ごきげんよう、サボり魔のお嬢さん」
「お前……」

 慌ててベンチから飛び退いて改めて見下ろした先には、無駄に長い足を優雅に組んでその上に肘をつき、悪趣味な笑みを浮かべるうるさいやつこと青薔薇男──ミヒャエル・カイザーがいた。面だけは天使のような奴である。
 奴が座っているのは、先程まで私が座っていたちょうど真横の辺りだ。ほんの数秒とはいえ、気付かないうちにコイツと腕と腕が触れ合うような距離にいたことになんとも言えない嫌な気持ちになる。というかいくら物思いに耽っていたって、隣に人が座ったのに気付かないとかあるか? コイツ忍者の末裔とかなのかな。

 私のそんな思考は露知らず、カイザーは天使のようなかんばせを歪めてニヤニヤと笑いながら口を開いた。笑い方は悪魔みたい。

「人の顔を見て悲鳴をあげる悪い癖はいつ治るんだ」
「……あんたが気配を消して私に忍び寄るのをやめれば、それこそ明日にでも治るでしょうね」

 なに被害者ぶってんだ、一から十までお前が悪いだろうが。そう言葉に込めながら、先程よりも二十センチほどズレた箇所に座り直した。ここで私が踵を返してこのベンチから離れれば、それはつまり私が負けたことになる。数年前にそれで数週間からかわれて学んだ。なので私はここから立ち退くことはせずに、出来る限り物理的にコイツと距離を置く。これが最善手。

 敢えて距離を詰めてくるほど積極的に私に近寄りたいわけでもないカイザーは、何を言うこともなくこちらに右手を差し出してきた。お決まりの『ドリンクを寄越せ』のポーズだ。わざとらしくため息をついてやりながら、ベンチの後ろに置いていた籠からドリンクボトルを取り出して渡してやる。コイツはムカつく奴だけどそれでもこのチームの要なので、ここでくだらない意地悪をして健康を害されても困るのだ。

 チームの不利益になることはしない。それを私がしてしまうと、養父の不利益や不評に直結してしまうからだ。私はそれなりに訳アリで、そんな訳アリの私を引き取ってここまで育ててくれた養父にはとても感謝しているし、それを抜きにしたって何より養父のことが大好き。大好きな人に自分のせいで嫌な目に合ってほしいと思うほど私はひねくれてはいない。


 そんなことはカイザーだってとっくに承知しているのだろう。邪険にされないと分かっているからわざわざこっちのベンチに来て休憩を取っていく。決して気を許されているわけではない。コイツ友だちいないからこっちに来てるんだよ。絶対そう。
 私も友だちがいないと自負しているけれど、それは訳アリ故。ドイツに来る前、日本にいた頃はそれなりに友だちがいた。その点、カイザーは単純に性格がクソすぎて友だちがいない。ファンは多数いるけれど、その数に反比例するかのように友だちゼロ人だ。
 カイザーはこのチームの要とも言える存在だけど、だからってチームメイトを友だちと言うかどうかも審議が必要だろう。だってチームメイト相手にプライベートな話とか絶対しないじゃん、コイツ。

 あと、このベンチに真っ直ぐ来れば、私が練習を見ながら書き出している選手たちの好不調や更なる練習が必要だと思われるポイントなんかを直に確認できるから、というのもあるだろう。あくまでも今書いているのはメモでしかないから、選手たちに見せるものはこれよりもっと丁寧に分かりやすくまとめているんだけど、何故かコイツは雑然としたメモの方を見たがる。

 養父に引き取られる以前からこの競技──つまり、サッカーに関わる教育を受けて生きてきた私は、サッカーに関する審美眼というものがそれなりに磨かれている。それが運営陣にも認められたから、こうしてベンチまで入って選手の分析なんかを任されているのだ。あとは面倒でみんなやりたがらない事務作業とかマスコミ対応とかも微妙に押し付けられてるけど、一応給料は貰っているので文句は言えない。


 とにかく、私の主な仕事はこのバスタード・ミュンヘンのU-20カテゴリーに所属している選手の分析。たまに養父の所属してる本チームに呼ばれることもあるけれど、歳が近い方がやりやすいだろうという運営陣のよく分からない気遣いにより、基本はこちらの方にいる。

 ドリンクを飲むカイザーの肩にタオルをかけてやってから、ザッとメモに目を通す。本当にメモのつもりで書いているだけなのでいくつか日本語で単語を書き殴っただけの箇所もあるので、それを簡単にドイツ語に直していく。
 当たり前のことだが、カイザーは日本語が分からない。私が日本語で悪口を言うせいでそっち方面だけはなんとなく分かるようになってきたらしいんだけど、それ以外はさっぱりだ。
 結果的に悪口ばっかり覚えさせてる私が言うのもなんだけど、悪口しか分からないってどうなんだろうね。日本人で言えばFワードしか知らないようなものだ。なんかダメな気がする。まあ、だからといってまともな日本語を教えてやる気もないけど。

 ドイツ語へと細かい手直しをしている間に暇になったらしいカイザーがまた距離を詰めてバインダーを覗き込んできた。コイツはなんでこうも待てが出来ないんだろうか。お前にメモを見せてやるための準備を今してるんだろうが。
 こうも距離が近いとまたゲスナーにからかわれ、更にはネスにキレられる。カイザーと距離を詰めたくない理由の八割はそれなので、少しでも距離を置こうと軽く身を仰け反らせた。アイツらウザいんだよホントに。特にネス。謎の敵意を募らせて私を睨んでくるくせに、「取らないから安心しなよ」というと「カイザーの何が不満なんです」とまたキレてくる。逆にカイザーの何がそんなにいいんだよ。

 とにかく、カイザーに近付くと面倒なことばかりが起こる。だから「退いて」と伝えたのに、カイザーはニヤニヤ笑ってもっと距離を詰め、肩に顎を乗せてきやがった。コイツ、ドイツ語も分からなくなったのか?

「退けってば」
「オレたちの仲だろう?」
「私たちの仲だから退けっつってんだよ。ってか、顎乗せるなら喋るな。刺さって痛い」

 バインダーをカイザーの方に向けながら、またわざとらしくため息をついた。お目当てはコレだろ。こうなったお前がメモを見るまでテコでも動かないのは分かってるから、さっさと見て早く練習再開しろ。そう意を込めたのが伝わったのか、カイザーは大人しくメモを見ている。

「……次の試合、DFは変えた方が良さそうだな」
「ああ……怪我は治ってるみたいだけど、前みたいにはやっぱり動けてないよね」

 私に対してというよりかは自分の考えを整理するための言葉だったみたいだが一応返事はして、視線を反対側のベンチに向ける。件の選手はベンチに座って俯いていた。明るくてお調子者な奴で、以前は休憩時間もおどけていたけれど、今日は随分静かだ。やはり本人には不調の自覚があるらしい。

 我がチームのDFの一人が怪我をしたのは先月の頭。怪我といっても普通の捻挫だったけど、何故か無理して練習を続けたせいで治るまでに時間がかかった。もちろん練習ができない期間も長引いて、そのせいで彼は本調子を取り戻せていない。復帰して一週間ほど二軍で練習し問題無しと判断されてこっちに戻ってきたわけだが、私の目にはどうにも違和感が強く映る。チームの勝利のためだけでなく本人のためにも、次回の試合ではスタメンから外した方がいいだろう。
 こういうのはこのタイミングで無理をすると後々に響いてくることが多いし。思い出せる限りの過去の事例をいくつか思い浮かべつつ、『要相談』と日本語で加筆しておく。この漢字三文字の意味が正確に分からなくとも話の流れからニュアンスは掴めたのか、カイザーは何も言ってこなかった。しかし、その代わりとばかりに、わざわざ肩を組むようにして回された手でメモの下の部分を指さされてしまう。三つの国名の部分だ。適当に誤魔化そう。

「これは?」
「なんとなく書いただけ」
「日本、ドイツ……それからフランスか?」
「読めるの?」
「前にお前の部屋で見た地図だと、この文字の形はフランスだった」
「変な覚え方してるな……」

 そう言えば前にカイザーを部屋に招いた時には日本語の世界地図を貼っていたかもしれない。今はあの世界地図は剥がして、クリス・プリンスのポスターを貼っている。本人に「分かりやすいところに貼ってくれ!」と押し付けられてしまったけどリビングに貼ることも出来ず、仕方なく部屋に貼った。あの人もいい大人なんだから養父に対抗心を燃やすのも程々にして欲しい。まあ、それこそいい大人にそんなこと言えないけどね。


 話が少し逸れたが、とにかくカイザーは悪口以外の日本語も少しは覚えていたらしい。読めるなら読めるでサッカーや練習なんかとは全く関係ない単語であることも分かると思うんだけど、謎の勘で何かあると察してしまったらしく「話してみろ」とご機嫌に語り掛けてくる。肩に顎を乗せられているせいで顔は見えないけど、ニヤニヤ笑っていることは簡単に予想がついた。
 適当に誤魔化そうと思ったのに、面倒だな。言い訳を考えながら顔を上げてまた反対側のベンチを見れば、こちらをじっと見ているネスと目が合った。結構距離はあるけど絶対見間違いじゃないだろう。本当に面倒なことになった。

「だから関係ないってば。それよりネスがこっち見てる。どうにかして」
「放っておけ」
「いや、こっち来ちゃってるから」

 放っておけって、お前の飼い犬だろうに。放任主義が過ぎるぞ。すごい勢いで走ってきたネスを指さして必死で訴えてもカイザーは一切聞き入れてくれない。そんな話をしているうちにネスはこちら側に辿り着いてしまった。口元はニコニコ笑っているけれど目が「カイザーに近付くなブス」と語っている。一語一句違えずに何度も言われたことのある罵倒だ。

 で、多分この後は「人に指をさすなってお父上に教わってないんですか?」とか言ってくる。

「人に指をさすなってお父上に教わってないんですか? 子が子なら父も父。お里が知れますね」

 予想の倍の罵倒が来た。ネス罵倒語録検定準一級の実力はこんなものです。因みにネス罵倒語録検定は私がゲスナーとグリムと作ったものなので非公式だ。公式にバレたらぶん殴られるどころじゃ済まないだろうね。

 笑みを深めながらも青筋を立てているネスに対して、どうやらカイザーはなんの行動も起こさないつもりらしい。マジで放っておく気か? しっかりしろよ飼い主。

 けど罵倒されっぱなしは癪に障るし、すぐに養父を持ち出すのもどうかと思うので、私からもちくちく言葉はぶつけておくか。

「人に指をさした覚えはないな。お前はカイザーの犬でしょ? 飼い犬の躾ぐらいきちんとしてよ、カイザー」
「は?」
「あ?」

 ネスが養父を馬鹿にするなら、私もカイザーを馬鹿にするだけだ。コイツを馬鹿にして痛む心とか持ち合わせてないし、いくらでも罵倒できる。なんなら罵倒する必要がなくたってするぞ。

 ネスとメンチを切りあっていれば、ようやく動く気になったらしいカイザーが面倒そうにネスの名前を呼んだ。ネスはというと、めちゃくちゃ元気に「はい!」と返事をして次の瞬間には「黙れ」と言われていた。笑える。

「オレは今、コイツと話しているんだ。くだらないことなら首を突っ込んでくるな」

 ネスが来たから話は終わるのかと思えば、終わらないらしい。うんざりしながらも誤魔化しにかかる。

「話なんてしてたっけ」
「忘れたのか? 酷いな」
「酷いのはあんたの方でしょ。終わった話掘り返さないでよ」
「そうか。じゃあネス、直近でコイツに関わることで日本、ドイツ、フランスと並んだら何を思い浮かべる?」
「おい! バカイザー!」
「そうですね……日本は本人の故郷、ドイツは現住地、フランスは父親の故郷……」
「ストップ、ネス、考えるのをやめろ!」

 なにが「そうか」だよ! 「そうですね」だよ!
 憤りを顕に声を荒らげる私を無視し、「カイザーは馬鹿じゃないですよ。撤回してください」としか言わずに、ネスは顎の下に手を当てて考え出した。正しく『考える人の仕草』といった感じで、素直にウザい。は? やめてほしいんだが。


 ネスは脳みその八割でカイザーのことを考えているカイザー馬鹿だけど、知能指数的には馬鹿ではない。カイザーに「考えろ」と言われたなら、知恵熱を出したって考えることをやめないだろう。カイザーが「考えるのをやめろ」と言わない限り、コイツはもう止まらない。

 隠すことなく舌打ちをして、腕時計に視線を落とした。休憩を取り始めてから五分後と少しだろうか。結構な時間練習を続けていたし、最低でも十分は休憩をとる可能性が高いな。タイムアップを狙うのは無理だ。

 こんなことならメモの肝心の箇所を破りとって問題ないところだけをカイザーに見せれば良かった。まさかこんなに興味を示すなんて思わなかったのだ。それとももしかして、カイザーは私が嫌いだから、私が捨てられたことを知っていてわざとこんなことをしているとか……?

 だんだん不穏な方向に思考が向き出したが、頭を振って無理矢理それらを打ち切る。あわよくばカイザーに頭突きでもしてやろうかと思ったが、スッと避けられた。ああもうムカつく!

「コレを見る限り、考え事ばかりでろくに目の前のオレたちにも集中していなかったみたいだしなあ?」
「全く見てなかったわけじゃないし……あんたがシュート決めたところは見てたけど」

 さっきまでは頑なに離れなかったくせに、頭突きをされるとなると話が別なのかさっさと離れていったカイザーを睨み付ける。ヒラヒラとメモ用紙を摘んで揺らしながらニヤニヤ笑う様は、まさに悪魔。改名しろ。
 しかしいくらそんなことを思ったとしても、カイザーの方に分があることに変わりはない。言い訳のように先程のカイザーのシュートのことを話題に出しても、ネスすら引っ掛かりはしなかった。本気で考えてやがる。

「だから、本当に大したことじゃないんだって」
「それを決めるのはお前じゃないだろ?」
「どう考えたって決めるのは私だろうが。少なくともお前ではないわ」
「直近ではフランスに招聘されてもいないはずだし、日本でも特に……あ」
「ねえ待ってほんと最悪、なんか思いついちゃってるじゃん。カイザー、あんたのこと恨むからね」
「日本のフットボール協会が何かプロジェクトをやるそうで、上層部が人材を派遣して内情を探って来させようとしているとか……確かこの女を派遣する案も出てたはずですから、それでは?」

 自信満々にそう言って見せたネスに対して、カイザーは特に何を言うこともなく「へえ」と呟いた。これは「そうなのか?」の意の篭もった「へえ」だ。私に返事を求めているのだろう。
 だけど、私はその答えを持ち合わせていなかった。放逐宣言をされたことがバレてしまうという直前の焦りも消え、得意気なネスを見上げることしかできない。


 思ってたのと全く違う話が来た。来たんだけど、でもなんとなく、それで当たりのような気もするのだ。

「で、どうなんだ」
「正解ですよ」
「いや……」

 何も言わない私に痺れを切らしたのかカイザーが私の顔を覗き込み、ネスは相変わらず自信満々に宣言した。私はというと、なんと言えばいいのか分からなくなってしまって思わず否定の言葉を口にしてしまう。思ってもいなかった展開に混乱している。

「はぁ⁉︎ お前みたいな何も考えてない脳天気なファザコンが悩むなんて、父親としばらく一緒にいられないことぐらいだろ!」
「ぶん殴るぞお前。いや、あのさ……その私を派遣するって話は、もう父の方にもいってるの?」

 否定されたことで目をつりあげてお得意のムカつく敬語すら忘れて怒っていたネスは、私の疑問に対して再び「はぁ?」と声を上げて眉を歪めた。今度は表情も喋り方も明らかに私を馬鹿にしている。まあネスに馬鹿にされるのはいつものことなので今はどうでもいい。疑問に答えてくれ。

「それ以外の誰に言うんです。コネ入社の役立たずとは言え、未成年の職員を出向させるんなら保護者に許可を取るでしょ」

 そんなことも分からないのか、とネスは可哀想なものを見る目で私を見つめ、私は私でもう何も言えずに額に手を当てて下を向いた。なるほど。……なるほどね。確かにそれなら突然日本行きを命じられた理由も、「期間は未定だけど長期に渡るかも」なんて曖昧な言い方をされた理由も全部納得できる。

 それに何より、今の今になって養父がとんでもなく口下手だったことを思い出した。サッカーに関しては天賦の才を与えられたのだと疑う余地もないほどなのに、義理とはいえ娘である私に対してはこれだ。もっとちゃんと説明して欲しかった。ちゃんとした説明を求めなかった私の言えることではないが、きちんと説明してくれればこんなに胸を騒がせる必要はなかったのに。


 だけどよかった。どうやら私はまだ捨てられないようだ。ほっと胸を撫で下ろして安堵から来るため息を吐き出しながら顔を上げれば、カイザーは何か面白いものを見るようにして口角を上げ、ネスは「それで、どうなんです?」と自分の予想が当たっているのか外れているのかを執拗に気にしていた。カイザーに良いところを見せたくて堪らないんだろう。忠義な犬だ。

「正解なんじゃない?」
「自分のことなのに曖昧すぎでは?」
「仕方ないでしょ。私だって今朝、『日本に行ってくれ』って言われたばっかりなの。ホント色々心配して損しちゃった」
「心配したのか」
「ええ、まあね。お前の犬に言わせれば、私はファザコンだから」
「『何も考えてない』と『能天気』と『馬鹿』を忘れないでください」
「『馬鹿』は言ってなかっただろうが。おいカイザー、お前の犬もうボケてきてるんじゃないの?」
「オレは猫派だ」
「そんなこと聞いてない」

 お前のファンならともかく、私はお前が猫派か犬派かなんてことに興味は無い。ネスはなんかショック受けてるけどね。「ショックです」とばかりに目を見開いてカイザーを見つめているネスを見て、少しだけ申し訳なくなった。私が犬犬言い過ぎてとうとう自分のことを犬だと思い始めたのかもしれない。責任を持ってドッグランに放流して来てやろう。そうしてそのまま優しい飼い主に拾われて世話になってくれ。

 私が養父と暮らすアパートメントの近くにもドッグランがある。現役選手として世界中を飛び回る養父に着いていくことが専らなので家で動物を飼うことは諦めているのだが、デカくてモフモフの犬が走り回っているのは眺めるだけでも楽しい。何年後でもいいから養父が現役を引退して生活にゆとりが出来たら犬を飼って二人と一匹で暮らすのが私の些細な夢だ。今朝の養父の問題発言で諦めざるを得なくなりかけたが、決して捨てられるわけではないと判明した今ではこの夢の延命も可能となった。

 プロのスポーツ選手なだけあって例に漏れず足の早い養父が大型犬と併走しているところを思い浮かべてみる。なんとなく微笑ましい気持ちになっていれば、カイザーとネスはそんな私を無視して二人で何やら話を進めていた。私が派遣されるという件のプロジェクトに関してカイザーが興味を示し、ネスが喜び勇んで説明を始めたようだ。一応私も聞いておくか。

「詳細はまだ公開されてないですが、日本の十代後半の学生たちを集めて最強の選手を育成するプロジェクトだとか」
「十代後半……っていうと、まあ高校生かな。こっちで言うとハウプトシューレとかレアルシューレに通ってるぐらいの子たち。ちょうど私たちぐらいだね。でも日本のプロジェクトなんでしょ? こっち関係なくない?」

 もしそのプロジェクトが日本で成功したとしても、こっちでも同じことをやりましょう、とはならないだろう。失礼な物言いにはなるが、日本と違ってドイツの選手層は安定している。まあ、だからこそ日本がここに来て育成に力を入れ出したというのは納得できる話ではあるけど。
 何か考え込んでいるカイザーに変わってそう疑問を呈すれば、それはネスも考えていたことではあるのか特に間もおかずに口を開いた。

「それが、なんでもスポンサーの方に真っ先に話が来たそうなんですよね」
「……スポンサー取ろうとしてるってこと? いや、ドイツの企業がスポンサーになったところで日本にメリットはないか」
「出資を望んでいるような文脈ではあったそうですけど、上もひとまずは断ったみたいです。しかも、そのプロジェクトのリーダーじゃなくてフットボール協会のトップからの連絡だったらしいんですよ。それで怪しく思って探ってみたけれど、何故かどこにもそれらしき情報がない。でもJFUで何かしらの大掛かりなプロジェクトが動いている形跡はある……」
「……どうにも気になった上は取り敢えず一人ぐらい偵察を送り込んでみることにした、と」

 で、その偵察が私だと。

 だんだんと熱を帯びて芝居掛かってくるネスの様子を見ていれば、流石の私でも言いたいことは分かった。何故そこまで詳しくネスが事情を把握しているのかは謎だが、ネスだからなんでもありなんだろう。さすが忠犬。カイザーが気にするかもしれない情報は完璧に仕入れておきます、ってか。

 派遣だとか出向だとか体良く言って、こんなの本当に偵察じゃないか。向こうでの衣食住はもちろん上が保証してくれるんだろうけど、知りたがっていることを探るのは相当難しいだろう。何せ私は養父が養父だし、DFBで仕事をしたこともあるし、レアルシューレを卒業して就職した先はこのバスタード・ミュンヘン。恐らく今回の偵察も正式にはDFBから私へのの依頼ということになるから、下手したら敵国からのスパイ扱いされかねない。一手ミスしただけで犯罪者一直線だ。

 養父に「やっぱり嫌だ」と言って断ってしまおうか。いやでも、私たちがこんな話をしてもこれはあくまで予想で、実際は休暇とか観光とかそういうやつかもしれないし。……いや、それはないか。ワールドカップまで半年しかないのに、ここで私を日本に放流するほど上も現状に胡座をかいてはいないだろう。それなりにチームの役に立っている自信はある。
 裏を返せば、それなりにチームの役に立っている私を日本に行かせるほどに上はそのプロジェクトとやらに興味を示している、ということになるわけだけど。それでも恨みがましい声が出るのはもう仕方ないことだ。

「なんで私が……」
「比較的簡単に動かせて日本に縁のある職員なんてお前ぐらいだからでしょう。日本語も問題なく喋れるんでしょ? それに、たいして役に立ってないから居ても居なくても特に変わらないですし」
「縁なんてもう切れてるし、日本語なんてこの七年まともに話してないっつーの」

 養父に引き取られた七年前から日常会話の大半はフランス語とドイツ語だし、それ以前だって日本で暮らしていたのは四年にも満たないようなほんの僅かな期間だ。そもそも私は生みの両親が日本人なだけで、日本に親戚と呼べる親戚はいないし、生まれもドイツである。
 第一、私が日本に行っていることがバレると間違いなくこのチームに問い合わせが来るぞ。「彼女はフランスに転籍された際に日本への帰国の予定はないと仰っていたはずですが、心変わりされたのですか?」とかなんとか。善意の皮さえ被っていれば何を聞いても許されると思っているのがマスコミの連中だ。 人のプライバシーを吹けば飛ぶものだと認識しているに違いない。

「っていうか、偵察に行ってこいとか言うんなら、偵察するための状況は上が全部整えてくれるんだよね?」
「さあ? いざとなったらプロジェクトリーダーに直接数ヶ国語話せますってアピールすればいいんじゃないですか。それぐらいしかアピール出来る取り柄もないでしょ」
「何ヶ国語か話せるっていっても完璧じゃないし、それこそ日本語とフランス語とドイツ語と英語ぐらいしか完璧には話せないの。それぐらいJFUの人間なら話せるでしょ」
「イタリア語と中国語は?」
「それは日常会話ぐらいしか出来ないから喋れるとはカウントしないことにしてる」
「無能のくせに理想は高いんですね」
「お前はどうしてそんなに私を貶すの?」
「褒めてますよ」
「雑な嘘をつくな」

 お前がそんなににこやかに笑って私を見つめている時は八割私を馬鹿にしている時だ。残りの二割は私の隣に猫を被った方が良い相手がいる時。現在私の隣にいるのはカイザーで、カイザーはネスが猫を被る対象ではないため、消去法で今のネスの笑みは前者ということになる。

 ネスに心から微笑みかけられたいかというと全くもってそんなことは無いし、馬鹿にされるのが通常だと認識しているけれど、それはそれとしてムカつく。手っ取り早くネスに嫌な気持ちをさせるためにも、飼い主に文句を言うか。

「ちょっとカイザー、お前の犬がまた無駄吠えしてるんだけど……カイザー?」

 文句を言うためにも隣を見れば、カイザーは未だに斜め下を見て何かを考え込んでいた。名前を呼んでも返事が返ってこないので仕方なくネスを見上げたが、オロオロしながら「カイザー?」と名前を呼ぶばかりだ。コイツ普段はうるさいけど、こういうところあるんだよな。イレギュラーに相対した時に一瞬迷いが出る。試合中はその一瞬が命取りになることは他ならぬコイツ自身がいちばんよく分かってるだろうから、私からは何も言わないけど。


 兎にも角にもネスはあてにならず、カイザーは一体何をそこまで真剣に考えているのか、名前を呼んでも反応のひとつも寄越さない。さり気なく時間を確認したが、そろそろ十分経つからいつ集合のホイッスルがなってもおかしくないだろう。考え事はこんな小休憩ではなくきちんと時間を取れるタイミングでするべきだと思うのだが、カイザーだってそれが分かっていないわけでもあるまい。
 声が掛かるまで考えさせてやるか、今のうちに無理矢理にでもこっちに引き戻してやるか。別に私はどっちでも構わないので、ここは私情は抜きにしてどちらがチームのためになるかと考えようとしたところで、カイザーは徐ろに顔を上げた。そうしてなんてことはないとばかりに私の名前を呼ぶ。

「日本に行ってそのプロジェクトの詳細が分かり次第連絡を寄越せ」
「……行くって決まったわけじゃないし、そういうのって守秘義務があるものじゃないの?」
「オレたちの仲だろう?」
「私たちの仲だから嫌だっつってんだよ」

 さっきまで今にも唸り出しそうなぐらいに悩んでいたくせに、ケロッとめんどくさい要求をしやがって。ネスに言わせれば「流石、それでこそカイザー」なのかもしれないけど、私に言わせれば「このクソ野郎」の一言に尽きる。人のことをクソクソ貶す前に己のクソさ加減に気付け。


 私ははっきりと嫌だと言ったにも関わらず、カイザーの中では私がそのプロジェクトとやらの日本に偵察に行くことも、そこで得た情報を自分に回すことも確定してしまったようだ。しかも、DFBからの命令で向こうに行くなら当然DFBに情報を上げることが第一になるのに、恐らくカイザーは「誰よりも早くオレに情報を送れ」と言っている。世界は自分中心に回っているとでも思っているんだろうか。お前を中心として回っている世界で生きているのはお前とネスだけだろ。

 休憩時間がそろそろ終わることには気付いていたのか、カイザーは立ち上がってピッチの方に歩き出した。当然ネスもその後に続き、そんな二人の背中を少しの間見つめた後に流されかけていることに気付いて咄嗟に私も立ち上がり、声を上げる。

「ちょっと! 私はそんなことしないからね!」

 そんなことをすれば養父にだって迷惑が掛かる。バレずにやればいいとでも思っているのかもしれないが、バレた時の責任を取る気がある人間だけがそういう考え方をするべきだ。つまり、カイザーにそんな考え方をする資格はない。

 足を止め振り返ったカイザーは、立ち上がって肩を怒らせる私を見てうっそりと笑ってみせた。どうにも癪に障る笑い方だ。ニヤニヤされるのはとにかくムカつくが、これは背筋の辺りがゾワゾワする。馬鹿にするのでも見下すのでもなく、まるで慈しむかのような笑い方。その名前も相まって気味が悪い。

「いいや、お前は絶対にオレに連絡をするさ、子猫ちゃん」

 認めたくはないがその笑い方に気圧されて思わず言葉に詰まったことすらお見通しらしいカイザーは一層笑みを深め、自信満々に喋り出す。何度やめろと言ってもやめないその呼び方は、出会った当初から私を馬鹿にするためだけに使われている蔑称じみたものだ。

「分かるだろ? ──チームのため、だ」
「……それは」

 あんたのための間違いでしょ、と続けようとした瞬間、遠くでピーッと音が鳴った。休憩終了を告げるホイッスルだ。音のした方を見れば、反対のベンチにいる選手たちもぞくぞくと動き出しつつある。そちらに向かって歩き出したカイザーと、ついでにネスも、それきりもう振り返ることはなかった。

 しばらく二人の背中を見つめた後に、再びベンチに座る。そうして持ちっぱなしだったバインダーを抱え込むようにして背を丸め、地面を見つめながら長く息を吐き出した。


 カイザーはいつだって面倒事を運んでくる。そうして私にそれを押し付けて、絵本の中の王子様のように笑うのだ。「チームのためだ」と言いながら。
 だけど今回の面倒事はなんとなくこれまでと違う気がした。根拠なんてない、ただの勘だ。でも違う。今回は、押し付けられたんじゃない。奴は私を何かしらに巻き込んだのだ。

 さっきまで黙って考え込んでいたのも、どうせろくなことじゃなかったのだ。ちょっと心配して損した。最早諦めに近いが、ほんの少しでも溜飲を下げようとそんなことを考えてみる。余計にイラつくだけだった。


 奴はろくでもないことを思い付きやがった。そのろくでもないことが何かはまだ分からないが、とにかくクソみたいにろくでもないことなんだろう。あの顔はそういう顔だった。あの作り物めいた美しい微笑みは、見たものを地獄へと誘う悪魔の微笑みだ。

「ろくでもない面倒事にわざと私を巻き込みやがったな、アイツ……」

 吐き捨てた悪態は、我ながら笑えるぐらいに嫌気に満ちていた。

ふたつおりのひとひら